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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第一章十五節「果てなき道へ」

更新日:1月21日

 文久二年(一八六二)十二月、ついに容保は會津藩士一千を率いて、江戸を出達します。藩士の京都勤仕は一年交代、次は文久三年八月以降の予定でした。容保は、慶応四年(一八六八)一月、不本意な帰還をとげるまで五年余の間、ついに江戸に帰りませんでした。

 京都では、天誅や、幕末の大動乱に現場で向き合うことになります。当初、會津藩は京都市民から頼もしく思われましたが、新選組を配下に、尊王攘夷を唱える急進派の暗躍、天誅テロを抑え始めると、次第に、血腥い印象を持たれるようになりました。長州の情報工作が強力だったこともあるでしょう。

 會津藩は、長州藩から池田屋事件や蛤御門の変などで大いに恨みをかい、會津戰爭にもつれ込みます。池田屋では、急進派志士らが、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を練ったのですから、取り締まられても不思議はありません。

 會津藩を降伏させた新政府軍が會津の地でどのような暴虐をはたらいたか、今となっては声高に言う人は多くありませんが、會津人は戦死者を弔うことを許されず、屍が長期にわたり放置されたという話もあります。

 容保たちは、そうとも知らず、その道をひた進むことになります。京都に向けて出発してわずか六年で、その悲境に落ちることになります。會津から見て亡国、薩長から見て革命の最終段階とは、それほどの速さで進行したのだと思います。激動が続いたとは言え、わずか六年です。

                     恒淳


和田倉門は會津藩邸の近く、辰の口にありました。

閲覧数:8回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jan 21

佐是様、


いくら幕府の統治力に陰りが見えるとはいえ、勅使接遇変更案は長州、土佐など攘夷急進派の朝廷の権威を笠に着た横暴のように感じます。日本の置かれている現状を知ろうとしない、理想主義者の戯言ではないでしょうか。無礼者、と言いたくなります。

公武合体を前提とし、過激攘夷派への対応、そのうえ会津の藩論分裂も阻止しなければならない容保の苦悩が伺われます。結果として徳川幕府は瓦解するのであり、私などは当然京都守護職を受けるべきではなかったと考えますが、それを受けざるを得ない立場に立たされた容保は歴史の犠牲者だったように感じます。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jan 21
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 毎週のコメント、ありがとうございます。


 史料をていねいに読むと、どう見ても攘夷急進派の横暴だと思います。倒幕を目標に据えた集団は、むしろ理にかなわない理不尽を手強く言い張り、幕府を政治的に追い詰めていったと思います。

 時の政権を倒すというのは、前段階で非軍事的に政権を追い詰めダメージを与え、力を弱め、自らは力を強め最終的には軍事的に政権を打倒することなのでしょう。倒した後は、前政権がいかに非道だったか、いかに適正を欠いていたか、いかに無能だったかを言い立て、自分たちの新政権がいかに正しいかを主張していくわけです。


 明治のご一新にも、これがぴったり当てはまります。幕末、倒幕勢力の(幕府から見た)横暴、理不尽から始まり、西洋新兵器(大砲、元込小銃など)を密輸し軍事力を高めて倒幕にいたるまで、謀略、挑発、暗殺を含む多くの種類の反幕運動が企図されました。

 明治になってからも幕府側のかつて唱えた正論は黙殺され、無視され、世に出さないようにされました。『京都守護職始末』という書物は會津藩家老の山川浩(山川健次郎、捨松の兄)によって書かれた記録(自身は草稿段階で死去、実際は弟健次郎が完成させたものか)です。なかに松平容保が孝明天皇から賜った御製と御宸翰の話が書かれてあります。


  (孝明天皇から松平容保へ)

  堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せ士ところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也 文久三年十月九日


 そして箱には次の歌が入っていた、というのです。


   たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこびてよめる


和(やわ)らくも武(たけ)き心も相生の ま津の落葉のあらず榮ん

武士(もののふ)とこころあはして いはほをも つらぬきてまし 世々のおもいて


 これほど孝明天皇に信頼され、評価された大名はいません。一方で、天皇は、長州急進派と彼らの担いだ三条実美らの急進公卿を「堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長」とまで非難してるのです。明治政府としても容易ならざる内容でした。孝明天皇からこれほど信頼された松平容保を攻めて成し遂げたご一新が、じつは薩長の謀略で成立したことになってしまいかねません。

 明治政府はこの記録の出版を抑えに抑え、御宸翰の話が別の書物(『七年史』)に紹介されてしまったあとで、『京都守護職始末』は出版されました。明治44年のことです。さすがに、明治もここまで晩期になれば、もういいか、ということでしょう。


 明治ご一新は薩長の謀略、武力による倒幕運動であるというのが本質だと思います。明治は素晴らしい時代、明治人は透徹したリアリズムがあった、などなど、明治を賛美する言葉が多くありますが、全くの鵜呑みではいけません。影にも目をやる必要があります。


 最近、明治維新や志士の活動を批判的に見る書物を多く見受けます。

   『明治維新という過ち』~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~原田伊織著

   『明治維新の正体』鈴木荘一著

   『明治維新 偽りの革命』森田健司


 私は、『四本の歩跡』を書くまで、こうした明治維新への批判の論評は知らずに、ひたすら史料を読んでいました。史料を読むだけで、長州の無理無体がはっきりわかり、明治維新が、司馬遼太郎の言うように、どこまでも素晴らしい時代だったとは思えなくなったことを思い出します。


                    恒淳  

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