文久二年(一八六二)十二月、ついに容保は會津藩士一千を率いて、江戸を出達します。藩士の京都勤仕は一年交代、次は文久三年八月以降の予定でした。容保は、慶応四年(一八六八)一月、不本意な帰還をとげるまで五年余の間、ついに江戸に帰りませんでした。
京都では、天誅や、幕末の大動乱に現場で向き合うことになります。当初、會津藩は京都市民から頼もしく思われましたが、新選組を配下に、尊王攘夷を唱える急進派の暗躍、天誅テロを抑え始めると、次第に、血腥い印象を持たれるようになりました。長州の情報工作が強力だったこともあるでしょう。
會津藩は、長州藩から池田屋事件や蛤御門の変などで大いに恨みをかい、會津戰爭にもつれ込みます。池田屋では、急進派志士らが、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を練ったのですから、取り締まられても不思議はありません。
會津藩を降伏させた新政府軍が會津の地でどのような暴虐をはたらいたか、今となっては声高に言う人は多くありませんが、會津人は戦死者を弔うことを許されず、屍が長期にわたり放置されたという話もあります。
容保たちは、そうとも知らず、その道をひた進むことになります。京都に向けて出発してわずか六年で、その悲境に落ちることになります。會津から見て亡国、薩長から見て革命の最終段階とは、それほどの速さで進行したのだと思います。激動が続いたとは言え、わずか六年です。
恒淳
和田倉門は會津藩邸の近く、辰の口にありました。
佐是様、
いくら幕府の統治力に陰りが見えるとはいえ、勅使接遇変更案は長州、土佐など攘夷急進派の朝廷の権威を笠に着た横暴のように感じます。日本の置かれている現状を知ろうとしない、理想主義者の戯言ではないでしょうか。無礼者、と言いたくなります。
公武合体を前提とし、過激攘夷派への対応、そのうえ会津の藩論分裂も阻止しなければならない容保の苦悩が伺われます。結果として徳川幕府は瓦解するのであり、私などは当然京都守護職を受けるべきではなかったと考えますが、それを受けざるを得ない立場に立たされた容保は歴史の犠牲者だったように感じます。