島津斉彬は名君として知られ、薩摩藩主でなければ老中に任じたいとまで嘱望された人物でした。阿部正弘、松平春嶽ら俊秀を謳われた大名と親交を深め、外圧に曝された日本をどうすべきか、広い目で構想を練ってきた人です。若き西郷隆盛を縦横に用いて各藩の俊秀と付き合いを深めさせ、活発なロビー活動を行いました。
幼少の折、曽祖父の島津重豪に可愛がられたたくさんのエピソードが残っています。当然、曽祖父の趣味が受け継がれ、開明的で西欧文物に強い関心を持っていました。私が仙巌園を訪れたとき、大名庭園の美しさだけでなく、反射炉趾を見ることができ嬉しかった思い出があります。隣接する尚古集成館では当時の西洋文明を取り入れた活動が見学できました。
その斉彬が構想した幕府改造計画の一環として、一橋慶喜を家定の世子につけ、ゆくゆくは将軍に仰ぎたいと望んでいました。篤姫が家定の正室に入るのはそのためでした。その意志を引継いで久光は慶喜、春嶽を幕府の重職に就けるよう幕府に働きかけました。ただ、斉彬がやろうとしたのは、安政五年、日米修好通商条約が勅許なく締結した頃。久光がやったのは、安政の大獄を経て幕朝関係が最悪の状態になり井伊直弼が暗殺され、安藤信正が暗殺されかけた後でした。似たようなことでも、これだけ異なる政治状況の下で行われました。斉彬のときなら最適な解でも、久光のときに最適かどうかは、また別のことです。
久光は往路に寺田屋事件を起こし、復路に生麦事件を起こして帰っていきました。斉彬が久光を藩主に据えなかった理由の一班がこの辺りに見えるのかもしれません。
恒淳
冬枯れの欅並木。気温は低いものの青空が…
北薗様、
言葉の問題に興味を持っていただき嬉しくコメントを拝見しました。幕末になっても、日本中の人が日本語で意思を疎通させることができなかった話は多く聞きます。京都守護職になった藩主に随従した會津藩士は、京都の地で薩摩藩士と言葉が通ぜず、能の言葉(室町時代の武家言葉)を使ったという逸話を読んだことがあります。まさか、と思わなかったのは、私にも経験があるからでした。学生の頃、山形県を旅行して地元の御婆さんと言葉を交わす機会があったのですが、全くわかりませんでした。単語の意味がわからないというレベルではありません。タガログ語を聞いてわからないのと同じレベルでわからなかったのです。那覇の国際通りの魚市場でも同じ経験をしました。
日本中で日本人が日本語で意思疎通ができるようになったのは、ラジオ、テレビの普及のあとではないでしょうか。戦後、地方には方言を使わず、いわゆる標準語(江戸山の手の方言を基にした日本語)を使うようにとの指導が強く、方言が軽んじられた時期もあったと聞きます。それを乗り越え、方言の良さを大切にしつつ、意思疎通ができる世の中になりました。中国では、国内ノインタビューや議事の放映で、いまでもテロップが出るほどで、一言語では通じない世界だそうです。
有馬新七は胸のすくような快男児で私の大好きな幕末人物です。『竜馬がゆく』で描かれた寺田屋事件において、上意討ち側の道島五郎兵衛と剣戟を交わし、自分の刀が折れた瞬間に道島五郎兵衛の胸元に飛び込んで力任せに壁に押し付け、「おいごと刺せ」と叫んだ描写に、度肝を抜かれた覚えがあります。鮮烈な印象を今なおもっています。
冷徹なリアリストという薩摩武士の特徴もありますが、有馬のような心術潔く爽快な快男児こそが薩摩武士の典型かと思います。柴山愛次郎や有村雄介、治左ヱ門兄弟をはじめ、壮烈な薩摩武士に共通するのはこうした心術なのでしょう。有馬が教育者で、文久元年までの二年間、石谷奉行を勤め、教えていただいた石坂を作り上げた事跡を初めて知りました。文久二年に有馬は寺田屋で死ぬのですから、この石坂は有馬の遺業だったわけですね。薩摩における子弟教育は郷中でなされ独特のものだったと聞きます。有馬のような心術爽やかな先生について、立派な薩摩侍が育ったことだと容易に想像できます。
阿部正弘や島津斉彬がもう少し長生きしていたら、と幕末史を知るにつけ常に思います。阿部が生きていたら、水戸の斉昭をここまで幕府に敵対的にさせずにすんだ筈です。斉昭への”貸し”を言い出してでも、阿部は斉昭の京都手入れをさせなかったでしょう。そうすれば孝明天皇はあれほど異国嫌いにならず、鎖国維持に執着しなかったかもしれません。そうした政治情勢で島津斉彬と阿吽の呼吸で、幕政改革に取り組んでいけば、桜田門外の変も起きず、ずっと穏やかな形の新体制に移行できたと思うのです。德川の影響を排除できない新体制は意味がないとして、流血の末の明治新政府を称えることも可能ですが、尊王攘夷の志士風の悪しき伝統が昭和まで残った歴史をみると、明治維新政治体制は七十八年(1868~1945)の命だったということになります。持続可能な政治体制ではなかったということでしょう。敗戦から現在まで(1945~2023)は七十九年ですが、政治体制がひっくり返る兆しは全くありません。
年の瀬も迫りました。本年のご愛読に深く感謝し、来年もまた、宜しく御鞭撻を賜りますようお願い致します。薩摩の事跡に関連して、たびたび御写真を賜り本当にありがとうございます。
恒淳
佐是様、今回は環境の違い、言葉について考えさせられました。
久光も立派な人物(少々頑固?)だったと思っていますが、江戸で生まれ多彩な人間関係の中、帝王学を受けて育った斉彬との比較は酷かもしれません。
言葉という手段の重要性も再認識させられます。外国語、翻訳文、文語体、口語体、漢字、平仮名、カタカナ、方言、古文書等々を考えれば言葉の深み、難しさを感じます。この時代、地方の優秀な人材が長崎、江戸、大阪などに遊学した理由の一つに、付随的だとは思いますがこの言葉という問題もあったのではないでしょうか。
斉彬や阿部正弘には、もう少し生きていてもらいたかったと思っています。
写真は寺田屋事件で憤死した有馬新七に関連した史跡、過激志士のイメージですが教育者でもあったそうです。