容保が新設された京都守護職に就くまでの経緯を描きました。
會津藩は京都から遠く、公家との縁戚関係もなく、容保から四代前の藩主容頌(かたのぶ)が将軍家重の使者として朝廷に挨拶に行ったことはあるものの、京都とは全くの無縁の藩です。それが、ある理由でこの難職に選ばれてしまった。幕末會津藩の悲劇の始まりです。
評価の高い容保の政治力、武威具わり実力満ちる軍事力と豊富な人材、幕府への忠誠固い大領御家門などがその理由です。幕府創建初期から、このレベルの上級職は井伊家が想定され、だからこそ京都に近い彦根を本拠にしてきました。今回だけは、井伊直弼がことの発端のようなものですから、井伊家に命じることは出来ず、距離の遠さはあるものの會津藩が選ばれたのでした。
春嶽はこのような難職を絶対に受けるはずはありません。その能力も越前藩にはありません。うまく逃げてしまいます。春嶽は、生れは田安家、父は田安家当主、徳川斉匡です。一度、田安家が明屋敷になって絶え、一橋家から養子が入って再興なった田安家の出身ですから、元はと言えば一橋家の血筋です。これほど高貴な血筋の人ですから、高い職位とはいえ、京都守護職のような現場職、難職には就かないですんだのでしょう。
容保は断り切れず、逃げずに受けてしまうのです。薪を背負って火に飛び込むという比喩がぴったりの状況でした。君臣涙を流してこの苦衷に当たったと言われます。
皆様には良いお年をお迎えいただけたでしょうか。日本は、元日、二日と驚くような惨事に見舞われましたが、今年、日本が良い年を過ごせるよう心から願っています。今年もご愛読、御鞭撻のほど、宜しくお願い致します。
恒淳
令和六年新春の欅並木
佐是様、本年もよろしくお願い致します。
たしかに会津藩の悲劇の始まりの部分だと思います。
会津藩家訓があるとはいうものの、会津藩の軍事力、政治的立場、歴史に付け込まれたように感じます。
実直な容保と比較すれば、慶喜、春嶽、薩摩など、どうも首尾一貫していないように見えます。「機を見るに敏」と言えばそれまででしょうが、会津藩に犠牲を強いたうえでのことではないのでしょうか。
それにしても長期間の海岸警備などで疲弊した藩財政、その上での京都守護職ですから、武士も庶民も相当な負担を被っていたのでしょう。
井伊直弼が健在であれば、京都守護職は彦根藩だったであろうという考え方も、なるほどと納得しました。
不勉強ながら、今年もあれこれ考えながら注意深く読んでいこうと思います。