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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第一章十三節「玉玲瓏」

 容保が新設された京都守護職に就くまでの経緯を描きました。

 會津藩は京都から遠く、公家との縁戚関係もなく、容保から四代前の藩主容頌(かたのぶ)が将軍家重の使者として朝廷に挨拶に行ったことはあるものの、京都とは全くの無縁の藩です。それが、ある理由でこの難職に選ばれてしまった。幕末會津藩の悲劇の始まりです。

 評価の高い容保の政治力、武威具わり実力満ちる軍事力と豊富な人材、幕府への忠誠固い大領御家門などがその理由です。幕府創建初期から、このレベルの上級職は井伊家が想定され、だからこそ京都に近い彦根を本拠にしてきました。今回だけは、井伊直弼がことの発端のようなものですから、井伊家に命じることは出来ず、距離の遠さはあるものの會津藩が選ばれたのでした。

 春嶽はこのような難職を絶対に受けるはずはありません。その能力も越前藩にはありません。うまく逃げてしまいます。春嶽は、生れは田安家、父は田安家当主、徳川斉匡です。一度、田安家が明屋敷になって絶え、一橋家から養子が入って再興なった田安家の出身ですから、元はと言えば一橋家の血筋です。これほど高貴な血筋の人ですから、高い職位とはいえ、京都守護職のような現場職、難職には就かないですんだのでしょう。


 容保は断り切れず、逃げずに受けてしまうのです。薪を背負って火に飛び込むという比喩がぴったりの状況でした。君臣涙を流してこの苦衷に当たったと言われます。


 皆様には良いお年をお迎えいただけたでしょうか。日本は、元日、二日と驚くような惨事に見舞われましたが、今年、日本が良い年を過ごせるよう心から願っています。今年もご愛読、御鞭撻のほど、宜しくお願い致します。


                                恒淳



 令和六年新春の欅並木

 

閲覧数:12回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jan 08

佐是様、本年もよろしくお願い致します。


たしかに会津藩の悲劇の始まりの部分だと思います。

会津藩家訓があるとはいうものの、会津藩の軍事力、政治的立場、歴史に付け込まれたように感じます。

実直な容保と比較すれば、慶喜、春嶽、薩摩など、どうも首尾一貫していないように見えます。「機を見るに敏」と言えばそれまででしょうが、会津藩に犠牲を強いたうえでのことではないのでしょうか。

それにしても長期間の海岸警備などで疲弊した藩財政、その上での京都守護職ですから、武士も庶民も相当な負担を被っていたのでしょう。

井伊直弼が健在であれば、京都守護職は彦根藩だったであろうという考え方も、なるほどと納得しました。


不勉強ながら、今年もあれこれ考えながら注意深く読んでいこうと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jan 09
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北薗様、

今年も、どうぞ、御鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。


京都守護職に就任した會津藩と、幕府衰退を目にして盛り上がる尊王攘夷志士の政略戰が京都で始まります。會津藩の君臣が京都守護職就任を決めた同じ日、島津久光の行列が生麦村で事件を起こします。次回はそのあたりを描きます。


                恒淳  

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