坂下門外の変によって、安藤-久世政権が倒れ、水野-板倉政権に移行するいきさつを描きました。坂下門外の要人暗殺計画も水戸藩脱藩志士が挙行したものですが、全員討ち取られました。安藤と供の者はなんとか危機を凌ぎました。
安藤は、そのまま政権を維持できるかと思いきや、やはり襲われた老中はすでに信を失ったため政権が倒れました。
水野-板倉政権は幕府の全力を注ぎ、松平春嶽、一橋慶喜、松平容保ら、当時から注目された人材を幕閣内に取り込みます。大原勅使と警衛役の島津久光らによって提案された幕府改革案を素地にして政事総裁職、将軍後見職、京都守護職を新設します。
桜田門外の変、坂下門外の変、勅使の到来によって、幕威が日に日に落ちていく文久の激動の時期です。文久の改革で、参覲交代制度も変更されます。それまで隔年交代だったものを3年に1度に改め、江戸在留期間も100日に短縮しました。特に、大名の妻子の帰国を許可し、幕府は人質を失い大名の勝手な振舞を抑制する手立てを失いました。阿部正弘は、参覲交代の制度にだけは手を加えてはならないと言っていましたが、春嶽や慶喜は、簡単にこれを変えてしまいました。
経費を節減し、その浮いた分で異国に対する備えを整えよという趣旨でしたが、上手く機能しませんでした。
大名が江戸に上る頻度、期間が低減し、江戸は火の消えたように寂しくなっていきます。江戸の繁栄は地方から上ってくる大名、江戸で生活する大名と家族、お付きの者に大きく依存していたことがわかります。
恒淳
落ち葉散り敷く
佐是様、楽しく読ませていただいております。
幕府の権力衰退の様子が痛々しく感じられました。
この時点で、日本が外圧に耐え得る政策を打ち出せる人材は幕府側に多く、尊皇志士側には極めて少なかったのではないでしょうか。桜田門外の変以降の幕府への逆風、幕閣の苦悩が伺われます。山田方谷は河井継之助の師匠だったことくらいしか知識がなく、来年は何か方谷の本でも読んでみようと思います。