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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第一章十一節「あと継ぐ者たち」

 坂下門外の変によって、安藤-久世政権が倒れ、水野-板倉政権に移行するいきさつを描きました。坂下門外の要人暗殺計画も水戸藩脱藩志士が挙行したものですが、全員討ち取られました。安藤と供の者はなんとか危機を凌ぎました。

 安藤は、そのまま政権を維持できるかと思いきや、やはり襲われた老中はすでに信を失ったため政権が倒れました。

 水野-板倉政権は幕府の全力を注ぎ、松平春嶽、一橋慶喜、松平容保ら、当時から注目された人材を幕閣内に取り込みます。大原勅使と警衛役の島津久光らによって提案された幕府改革案を素地にして政事総裁職、将軍後見職、京都守護職を新設します。

 桜田門外の変、坂下門外の変、勅使の到来によって、幕威が日に日に落ちていく文久の激動の時期です。文久の改革で、参覲交代制度も変更されます。それまで隔年交代だったものを3年に1度に改め、江戸在留期間も100日に短縮しました。特に、大名の妻子の帰国を許可し、幕府は人質を失い大名の勝手な振舞を抑制する手立てを失いました。阿部正弘は、参覲交代の制度にだけは手を加えてはならないと言っていましたが、春嶽や慶喜は、簡単にこれを変えてしまいました。

 経費を節減し、その浮いた分で異国に対する備えを整えよという趣旨でしたが、上手く機能しませんでした。

 大名が江戸に上る頻度、期間が低減し、江戸は火の消えたように寂しくなっていきます。江戸の繁栄は地方から上ってくる大名、江戸で生活する大名と家族、お付きの者に大きく依存していたことがわかります。

                             恒淳



           落ち葉散り敷く

閲覧数:11回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Dec 17, 2023

佐是様、楽しく読ませていただいております。


幕府の権力衰退の様子が痛々しく感じられました。

この時点で、日本が外圧に耐え得る政策を打ち出せる人材は幕府側に多く、尊皇志士側には極めて少なかったのではないでしょうか。桜田門外の変以降の幕府への逆風、幕閣の苦悩が伺われます。山田方谷は河井継之助の師匠だったことくらいしか知識がなく、来年は何か方谷の本でも読んでみようと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Dec 18, 2023
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北薗さま、

コメントを毎回御寄せいただき感謝に堪えません。


 当時、最も外国事情が蓄積されていたのは幕府です。阿部正弘が外交に対応できる人材を懸命に育て、安政五年段階では、岩瀬忠震、水野忠德はじめ有能な外国奉行が揃って、それなりの外交を展開できるまでになっていました。日米修好通商条約、英仏との条約など、外交的な成果が出ていました。ただ一つ、天皇が条約締結をお許しにならないため、この時点での最善外交策は、あたかも国を売る卑劣な政策と誤解する向きが広まり、藩幕運動に利用されることになりました。安政の大獄が始まり、井伊によって慶喜の次期将軍を望む幕僚の左遷が進み、幕府は朝廷の信頼を失うだけでなく人材まで失ってしまいました。幕府の衰退に痛々しさを感じるとコメントをいただき、本当にそうだと思いを新たにします。時の政治体制が亡ぶとは、そうしたものです。日本は昭和20年にも同じ目を見ます。これまた痛々しい祖国の姿でした。


 古い政治体制が崩壊し新しい時代がくることをどう考えていいか、考えてしまいます。清新な時代到来を喜ぶべきか、慣れ親しんだこれまでの世の中が喪われることを嘆くのか、立場により、事情により、人それぞれでしょう。歴史を見るというのは、そうした両方の心情を受け止めるということのような気がします。


 次週は、島津久光が薩摩の精鋭を率いて江戸に来て、幕府に改革を迫る場面です。


                         恒淳


 


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