会津松平家は幕府において重要な立場にありましたが、文久年間、容保が京都守護職に就く以前、歴史的に見てあまり目立つ印象がありません。樺太や北海道を守ったこと、三浦半島や房総を守ったことがさほど有名なわけでもありません。
この藩は、二代将軍秀忠の血筋を引く御一門であり、溜間詰の名誉色の高い処遇を受けますが、家柄が高すぎて老中のような直接、政治に関わる職位には就けない決まりでした。家祖の保科正之(秀忠の御落胤、家康の孫)が四代将軍家綱の許で幕政を担ったのは、輔佐役(大政参与)の立場であり、大老や老中ではありませんでした。
このような立場で、保科正之が明暦三年(1657)の江戸大火からの復興を主導し、江戸城天守閣を再建しなかったという話は今もって有名です。会津藩が政治の先頭に立つのはこの時と、幕末の大動乱のときくらいです。あまり目立たない藩のような気がします。それは溜間詰という立場がそうさせたのだと思います。政治に利を持ち込むことを特に嫌う藩風はこんなところからきたのかもしれません。ペリー来航時には第一線で警固し、危機感を肌で感じた藩でした。
柿実る
佐是様、今週も楽しませていただきました。
ペリー来航前年の家督相続、容保のその後の苦難の人生を予感させるような気がします。
阿部正弘、堀田正睦も幕府の重要人物だと思っていますが、その事績には詳しくありませんので、少しは調べてみようと思っています。
久里浜の場面では、五年ほど前訪ねたペリー記念館、上陸記念碑を思い出しました。私の見た石碑の中、大きさではペリー上陸記念碑が最も大きく、次が紀尾井坂の贈右大臣大久保公哀悼碑です。ペリー上陸記念碑の大きさに圧倒されたことを思い出しました。
今後、容保がどういう考えをもち、どういう政策を打っていくのかを興味深く読んでいきたいと思っています。