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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第一章八節「知らぬが亡鬼」

 先週のブログ-コメントでも書いたように、攘夷論者の大誤解について触れるときがきました。鎖国は古来の國是であるという大誤解に基づいて、攘夷によって鎖國を守れと叫んできたのが天皇を含む攘夷論者でした。攘夷論者はすなわち鎖国継続論者であり、宋学的な華夷秩序観に立って異国人を排斥(攘夷)しようと叫んできたのでした。

 それがどうでしょう、鎖国は古来の國是でもなんでもなく、単なる徳川三代将軍家光のとった政策でしかなかったのです。それ以前、京都の切支丹教会には日本人信者が通い礼拝に参加し、海外(ポルトガル)貿易が盛んに行われていたことを知って、天皇、公卿、攘夷志士はどう思ったことでしょう。今までの攘夷の叫びは三代将軍家光の政策を支持するに過ぎなかったということになります。安政の大獄とはこんな大誤解から勃発したのだと思うと、滑稽とも、悲惨とも、時勢ボタンの掛け違えとも、何とも言いようがありません。

 次回はいよいよ桜田門外の変です。




            近隣の森林公園でも、

            今年は紅葉が少し遅いようです。


閲覧数:10回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Nov 26, 2023

佐是様、幕末へ向けての情勢変化を楽しく読んでおります。


この時点での朝廷に情勢把握の甘さがあったのは否めないのではないでしょうか。

長期間、政治とはかけ離れた場所に置かれ、致し方なかったのかもしれませんが、それでも日本を左右する立場にあることは変わりなく、偏った意見に陥ることを避け、多方面からの意見聴取、正確な情勢把握に努めるべきだったと思います。

悪役にされがちな井伊直弼ですが、日米修好通商条約締結などの幕府の外交政策は正しかったと思います。但し、安政の大獄の苛酷な処罰は論外。やはり、直弼は阿部正弘と違い、強権的な人物だったのでしょう。


攘夷、開国、尊王、佐幕など人びとの考え方の変化に置いて行かれないよう、次回以降も読んでいきたいと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Nov 26, 2023
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北薗様、

 毎週お読みいただき、コメントを賜っています。本当にありがとうございます。


 明治維新によって、日本は新しい夜明けを迎え、新しい世を作る基礎を固めたと思ってきました。一面で真実だと思いますが、徳川幕府は固陋で旧悪を引きずり、一方の勤王志士+朝廷側は清新で開明的であると見るのは正しくないと思うようになりました。幕末史を史料に忠実な本や史料そのものから読んでいくと、世界に目を開き世界に伍していかねばならないと真剣に思っていたのは幕府であり、それを尊王攘夷の掛け声で妨害してきたのが勤王志士でした。

 幕末史を開国か鎖国継続(攘夷)かの考え方のぶつかりから見るのは、どうも的はずれであるように感じます。幕末史の正しい視点は、幕府と倒幕諸藩の権力戦争(ヘゲモニーを目指した内乱)だと見るのが妥当で、尊王だ、攘夷だ、というのは行動原理などではなく、単なる藩幕スローガンでしかないように思えます。

 長州藩の主導者たちは、表向き攘夷を唱えながら、開国・貿易が今後の道だとひそかに信じていましたが、幕府主導でそれをやるのは大反対だったのでした。なぜなら正しい道を幕府が選択すれば、幕府は強くなり、倒しにくくなるからです。長州は貿易の利の大きさを十分にわかっていたので幕府にその道に行かせたくなかったのです。新政府は幕府を倒したあと、直ちに開国・貿易を国是としました。もうスローガンは不要になったのです。井上馨は、かつての攘夷仲間から、攘夷はどうしたと問われ、あれはあのときの掛け声で、ああ言うしかなかったと言い訳をしたそうです。


 明治政府を褒め称える考え方が明治以降、宣伝され、天皇中心の素晴らしい国になったと教え込まれてきました。司馬遼太郎の明治賛美論は影響が大きい説です。しかし、大東亜戦争で敗北したあと、天皇は象徴とされましたが、これは、徳川時代の天皇のありかたとそっくりです。天皇が新しい徳川宗家当主に征夷大将軍を授ける、政治はまるごと幕府がとって天皇が口をはさまない(当然、責任を負わない)という形と、現代の総理大臣の任命と執政の形は実に似ていると思います。徳川時代の天皇のありかたの方が明治憲法下の天皇のありかたより、よかったのではないか、と個人的に思ったりします。

                                恒淳

 

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