これまでの幕府の想定では、京都守護職のような職位には彦根井伊家(30万石)を付けるはずでした。井伊家は京都を守衛するのが第一の役割です。ところが、安政の大獄を起こし、桜田門外の変で直弼が暗殺された状況では、彦根藩を使うことはできなくなっていました。京都の公家や尊王攘夷派から憎まれる彦根では、朝廷との関係が決裂し、かえって京都の治安が悪化します。
会津藩が長沼流軍学を取り入れたのが寛政の頃。以来、會津はこの流派の軍事体系に沿って演習を行い鍛錬を重ねてきました。そのせいもあったのでしょう、この藩は、幕府から軍事力を期待されることが多く、①文化4年~6年(1809)には樺太や、宗谷岬、利尻島に出兵しロシアに備えました。山川兵衛も若い時、出兵しました。
極寒の地から帰って早々、②翌文化7年(1810)今度は江戸湾警備の任務を命じられました。会津藩は三浦半島のほぼ全域を領地に与えられ、鴨居と三崎の地に陣屋を構えました。観音崎と浦賀平根山台場を造り江戸湾喉元の守りを固めました。三浦半島で最初の砲台でした。任務を解かれたのは文政3年(1820)10年間の軍役でした。
③米のビッドル艦隊が来航した翌年の弘化四年(1847)には上総の防備を命じられ、ペリー来航の年、嘉永6年(1853)にはペリーの久里浜上陸時、海上警備を勤めました。この年、房総の警固の任を解かれ、④品川沖の第二台場に配置換えとなり、安政六年(1859)姫路藩に代わるまで6年の軍役を果たします。
そして五回目、京都守護職というわけです。幕末には、長沼流兵学の構成運用が当時の西洋兵法学に対応できる(石岡久夫『日本兵法史 下P423』雄山閣、1972、浅川道夫『お台場P37』錦正社、平21)と考えられただけでなく、軍事経験が最も豊かで幕府への忠誠に揺るぎない藩ですから、選ばれるのも無理からぬことでした。
風をのみ いとひし庭のもみぢばを けふは雨にも散らしぬるかな
という容保の歌を、小説では特別に意味付けして用いました。実際は、どのような場面で詠まれた歌かはわかっていません。この和歌は、会津三庭園の一つ、「攬勝亭(らんしょうてい)」(会津若松市柳原町)に歌碑として建っています。摩耗して全文を詠める状態ではありませんが…。
佐是様、毎回勉強になります。
容保の京都守護職就任に安政の大獄、桜田門外の変が関係しているとは、まったく結びつけて考えたことはありませんでした。
敏姫への種痘を拒否された場面では、コロナワクチン接種開始時期にその危険性を過大に吹聴する人々のあったことを思い出しました。勿論、接種拒否は個人の自由ですがSNSや報道などの悪い面を見たような気がします。
会津藩の名門山川家といえば、山川捨松を思い出します。大山巌と結婚するときは、大変な反対があっただろうと想像する次第です。