小説のこの辺りに差し掛かると、江戸幕府が長い期間、日本を統治し諸大名を改易できる権威を保てた要件を考えたくなります。端的に言うと、①諸藩にまさる武力、②天皇から征夷大将軍に任じられる徳川宗家当主の信任、③長年にわたって整備された殿中儀礼と叙爵秩序、④江戸に留め置かれる正室と世子などが思い付きます。
安政七年三月三日の桜田門外の変で、幕府の武威に傷が付きました。井伊家の警備体制が薄かったという一つの藩の単純な範疇を越えて、幕府大老ともあろうものが、ごく少数の対立暴発者によって江戸城城門前で朝明るい中、打ち取られて首まで持っていかれたという事態は、幕府の武威が揺らいだということでした。
無勅許で日米修好通商条約を締結したため、すでに幕府は天皇からの信任を失い、戊午の密勅降下の後始末のために公家に弾圧を加えたあとでした。
文久年間に入ると、勅使を迎える殿中儀礼を変更し、勅使優位、将軍劣位にするよう朝廷から求められます。幕府はこれを受入れます。さらに同じころ、江戸在住の決まりが緩められ諸藩の正室が国元に帰れるようになります。
上で上げた①~④すべてが損なわれて行きます。幕府をして中央政府たらしめていた条件に諸藩が疑問を抱き始め、ついに、ぼろぼろになって統治の正統性、実効性が失われていきます。幕府がもたなかったのもうなずけます。
それにしても、天皇の幕府への信頼を失わせたきっかけは水戸藩の徳川斉昭(京都手入れ)、幕府の武威に傷をつけたのは薩摩藩士一人を含む水戸藩脱藩志士(大老暗殺)であり、二つの事件は幕府崩壊の大きな引き金のようなものです。どちらも水戸史学の尊王攘夷思想に裏打ちされた行動であり、遡れば、宋学(朱子学)に至る系譜になります。異民族に脅かされ弱体だった誇り高い中華の王をなんとか思想上、立派な位置づけを与えようという中華風観念論が、19世紀の中頃、こういう事件に行き着いたというのは、壮大でもあり、奇観でもあります。
ここから先は、私の妄想なのですが、日本では、昭和になって軍部が政府のいうことを聞かず暴走する歴史が始まります。軍事を勝手に展開するだけでなく、外交にまで口をはさみ、日本の外交は二元化して劣化していきます。昭和初期の軍人にただよう志士、国士的な右翼の雰囲気は明治維新を成し遂げた尊王攘夷の志士のマインドにつながるように思います。
”維新”という言葉もこの頃、言われ出したもので、対外侵略を是とする勤王志士風なイデオロギーを内包した言葉だったようです。今では、「明治維新」とは普通に使うイデオロギーのないような言葉ですが、明治初年は普通 ”御一新”と言っていました。それを ”明治維新”と呼び変え、さらには「昭和維新」と称して国の改造計画まで内包するような激しいイデオロギーを帯びた言葉になりました。
「天誅」が言われたのも幕末と昭和の初期で共通します。親幕(公武一和派)要人を暗殺し、言論を封殺して幕府を倒した革命手法と、政府要人を暗殺し統帥権をテコに政治を壟断した昭和初期の軍部の手法は似ていると思うのです。また、昭和初期に日本の外交が二元化(外務省と陸軍)し方針に整合を失ったことも、幕末期に、幕府と朝廷で違うことを言って、國是が二元化したのとそっくりです。
天皇を担いで世論を味方につけ、前政権を倒したのが明治政府でした。そこには、尊王を謳い、天皇を權威の象徴としながらも実は天皇に服属しない精神が奥深く潜んでいたような気がします。天皇など”おみこし”に過ぎないと見る精神は、後年、政府に事後承諾を迫り、軍部先行で滿洲事変を起こした石原莞爾やそれ以降の昭和軍人に通有されるマインドではないでしょうか。御一新後、60年を過ぎ、元老と呼ばれた抑えの利く人がいなくなると、そうした悪しき遺伝子が表にでてきたのが昭和初期の軍部の暴走だったと思います。根は尊王攘夷志士の精神性にあると云えば、いいすぎでしょうか。どこかからお叱りを受けそうです。
恒淳
桜田門雪景
北薗様、
高麗町の有村兄弟生誕地の碑ですね。ありがとうございます。
加治屋町はじめ鹿児島市甲突川のあたりは幕末を彩る薩摩藩士ゆかりの地ですね。何年か前に訪れた時を思い出しました。
有村治左ヱ門の奮闘、井伊家の反撃など、壮絶な井伊襲撃の様子を思い浮かべると、胸中、波立つものがあります。日本の歴史の変わり目にはたいへんな流血があって大きく時代が動いたことを思わずにはいられません。敗戦、明治維新、大坂城夏冬の陣、関ケ原、天下一統、戦国…と遡ってみると、日本史の凄さを感じます。
現在は、こうした争いはないものの、少子高齢化が進んで日本の人口が減り、日本が戦後、巧く進んできた基礎となる社会構造に、大きな変革を迫られています。財政的、経済的な問題が生じていますが、建付けを変えていけば、日本が世界に存在感を発揮する日も近いと信じています。変革を迫られ、流血を経て、必ず新しい世を作ってきた日本人ですから…
恒淳
佐是様、毎回勉強させていただいています。
桜田門外の変の後始末のことは考えたことがありませんでした。言われてみれば、将軍家身内同士の争いですし、容保がその調停に活躍したことも頷けます。名藩主だけでなく、横山家、山川家、田中家などの名家老や名家臣も会津藩には多いように思います。
幕府の政治力の衰退は明らかな時期なのでしょうが、斉昭の行動が世情の混乱を招いた一因のように思いました。
なるほど、幕末の混乱と昭和初期の軍部の暴走に似ているに思います。
どうも日本は平安時代以来、天皇制をうまく利用した者が政治を行ってきたように感じます。
写真は、鹿児島市高麗町の有村兄弟誕生地です。