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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡』第一章三節「荼枳尼天の祝福」

  江戸城西に位置する半蔵門を抜けて麹町十丁目に至ると、外堀に面した四谷御門となり、ここを抜けると内藤新宿の大木戸を経て甲州街道となります。今でも八王子や笹子峠を通る大動脈です。

 高須松平家の上屋敷は、この四谷御門を抜けたあたりに広壮な敷地を構えていました。今は、荒木町と呼ばれる一画です。敷地は中央部が低いすり鉢状の地形で、金丸稲荷神社は今も残っています。

 明治以降、庭園跡は滝のかかる大きな池などが残り風光明媚な行楽地になりました。次第に景勝の地に料亭が軒を連ね芸者の行き交う情緒ある花街になっていったのだそうです。戦争で一帯は焼けましたが、今でもかつての風情を偲んで訪れる人が多いそうです。現在、個性的な料理屋、居酒屋が多く、グルメの町です。私も、何度か行ったことがありますが、ここが高須藩の上屋敷だったと面影を探すには、よほどの想像力を働かす必要があります。今回は、容保の育った屋敷から生れを語る話になりました。往時茫々です。





















金木犀が満開です。あたり一面、馥郁たる香に満ちて

爽やかな秋日が素晴らしい風情を湛えています。



閲覧数:6回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Oct 15, 2023

佐是様、毎回勉強になります。


容保と徳川慶勝が兄弟であることはおぼろげながら記憶にありましたが、高須四兄弟については初めて知りました。大名家に限らず養子縁組の多かったこの時代、私の場合メモを取り、あるいは系図を活用しなければなかなか全体像が理解できません。

武家社会に限らず、商家でも養子縁組が多かったと読んだことがあります。家運隆盛のための養子縁組、ある意味実力社会という印象です。

幕末に向かっての展開を楽しみにしています。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Oct 15, 2023
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北薗様、

コメントありがとうございます。

この頃、活躍した有能な大名は多く養子でした。

徳川家茂、一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、松平定敬(桑名)、蜂須賀斉裕(阿波)、黒田長溥(福岡、島津重豪13男)、小笠原長行(唐津、第二章ででてきます)など少し考えただけで、すぐに有名な養子大名が出てきます。


商家のように本当に実力が不可欠な家は、娘聟に優秀な青年を据え、養子として家系、商売をつないだ例もあるようです。優秀な息子を得られるかは全く天の配剤としか言いようがありませんが、この方法なら優秀な跡継ぎが確実にできます。ただ、出来の悪い息子がいれば御家騒動になりかねず、難しいところもあります。大名、商家にしても、男系でつなげないから女系でつなぐ、すなわち養子ということです。末期養子では、血筋はまったくつながりません。


男系で稼業を継いでいくためには、いろいろ工夫があったと思います。天皇はそれが最も厳格な家系ですね。かつて、武烈天皇から継体天皇に引き継がれたとき、男系で十親等はなれていました。江戸時代、御桃園天皇から光格天皇に引き継がれた時、男系で七親等離れていました。男系でつなぐということがいかに大変かわかります。十親等まで皇位継承の前例があれば、今の天皇家の継承も案外、道はあるようにも思います。


                               恒淳


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