第一章もこのあたりに差し掛かると、幕末の思想や政治論の話が続き、小説に馴染みにくくなります。幕末、攘夷論は孝明天皇が異国を嫌うために尊王論と結びつき尊王攘夷という思想になり、天皇の御嫌いになる異民族を国に入れないよう打払おうという掛け声になりました。背景には水戸学が、さらに遡れば宋学(朱子学)に行き着きます。
宋(北宋960-1126)は漢族王朝でしたが、金というツングース族の征服王朝のために華北を奪われ、ついには南にのがれて南宋(1127年 - 1279年)となって、元に滅ばされました。異民族の攻撃、圧迫を受け続けた王朝であったため、宋は危機意識が強く、ナショナリズムを盛んに鼓吹して国を守ろうとしました。
旗色の悪い漢族国家において、強いナショナリズムを基盤にして、夷(えびす、異民族)は打払うべく、漢族の正統の王は尊ぶべしという思想が成立しました。この思想が日本の鎌倉時代に入って、朝廷から見て、鎌倉政権は夷と見做されました。時代が移り南北朝の混乱期には南北朝の正閏論(何れが正統で、いずれが非正統かの議論)となりました。だいたい、負け気味の漢族王朝が強い異民族王朝を悔しまぎれに賤しめる気分に満ちた思想で、日本に渡ってきても、理屈っぽい空論を延々と論ずるようなところがありました。日本では教養として武家が朱子学(体系化された宋学)を学びましたが、荻生徂徠や伊藤仁斎のようなほかの多様な思想のなかの一つという情況でした。日本は宋学一色に染まらなかったことが社会と歴史の豊潤さを産みました。
日本で只一ヶ所、おそるべき朱子学的妄想のような思想が横行した地域がありました。水戸藩です。水戸光圀は、この思想をもとに「大日本史」を編纂し、名分論的に歴史上の人物を悪役、善役に分けました。足利尊氏は悪く、楠正成は善い、という類いです。忠臣叛臣の区別を正す宋学的価値観を確立し、江戸時代後期には斉昭に引き継がれ、尊王志士に広まりました。この時代の志士と呼ばれる人々(テロリストを含む)は皆、例外なく楠正成を尊崇していました。
尊王攘夷という思想めいた気分が日米修好通商条約締結をきっかけに湧き起こりました。異民族を打払え、王を尊べ、というだけの威勢のいい気分であって、世界観、哲学的思考は伴わず、幕府を倒せという意図を持つ者には都合のいいスローガン(思想ではなく)でした。この思想めいた気分に浸ると、将軍を否定し幕府を倒すことに倫理的な負い目を持たずにすんだことが最大の効用だったと司馬遼太郎が書いています(この国のかたち〈三〉68宋学/文春文庫)。
こんな時代の趨勢と人々の気分が分からなければ、幕末の出来事は理解できないと思います。随所にでてくる思想めいた記述を小説的にまとめることが、幕末小説の難しさだと思い知らされました。
恒淳
クロガネモチが実りました。
佐是様、今回も勉強になりました。
孝明天皇がなぜ強烈な攘夷思想だったのか考えたこともありませんでした。
攘夷思想そのものについても中国からのものであることはおぼろげ乍ら知っていましたが、宋⇒金⇒鎌倉幕府⇒南北朝⇒水戸学⇒徳川斉昭⇒孝明天皇と時系列の説明を読んで腑に落ちたような気がしました。
斉昭のような柔軟性に欠けた頑固者は世に多いようです。たしかに安政地震で藤田東湖など水戸の知識人が亡くなっていなければ、幕末の流れも違ったものになっていたのでしょう。
「この国のかたち」は二十年以上前読んだことがありますが、ほとんど記憶に残っていないので要再読です。