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執筆者の写真佐是 恒淳

『四本の歩跡」第四章九節「意地を貫く」

 姉小路卿暗殺捜査の表面上の決着がつき、薩摩藩の田中新兵衛が(一応)犯人と認定されましたが、これを信じない人は大勢いました。現場の遺留品は薩摩関係のものがあったにせよ、いかにも取ってつけたようで、薩摩に罪を擦り付けるかのようでした。それ以上に、犯人の拙い太刀筋が田中のものとは思えませんでした。

 そのうち、薩摩藩の九門出入り禁止も解け、結局、薩摩藩に罪はないと言わんばかりのことになりました。真犯人を探し出せない以上、こうした一連の処置も止むをえなかったのかもしれません。

 それにしても、新兵衛の最期は衝撃的でした。尋問を担当した永井尚志にとって、新兵衛を武士と遇した配慮が仇となってしまいました。永井は、新兵衛がその気になれば自決できる余地を敢えて与え、新兵衛が自決するならそれもよし、其の時は真相を葬るまでと考えたのではないか、などと想像力を働かせたくもなります。永井にしてみれば、新兵衛が犯人であるはずはないと思っていたでしょうし、幕府側の人間が関わったはずはないとも思っていたでしょう。そうなれば犯人は攘夷派の誰か、くらいのことは見当をつけられる立場にいた人でした。

 永井は、拙著『方略は胸中にあり』にも描いたように、大の秀才、長崎海軍伝習所の責任者となって、岩瀬忠震と息を合わせて長崎製鉄所を設けるなど、開国に向けて活躍した人です。開国派で一橋派だったため、井伊直弼から命じられ蟄居の身の上でした。文久二年、許され、京都町奉行に赴任しました。新兵衛の自決を止められなかったとして、再び蟄居となります。水野忠德と並んで、幕末に活躍した剛毅な幕臣の一人です(「永井尚志」高村直助、ミネルヴァ書房)。


 小笠原長行の率兵上京は、姉小路卿暗殺と同時進行していました。小笠原が大兵を率いて横浜を出港したとき、既に姉小路は暗殺されたあとでしたが、小笠原は、大坂に上陸して初めてこれを知りました。姉小路をこの計画の重要な人物と目していたため、小笠原は大いに落胆しました。いまさら中止するわけにもいかず、兵を京都に向けて進めます。京都の攘夷派にとって、領袖の一人姉小路が暗殺され、老中小笠原が大兵を率いて京都に向かっていると聞き震撼しました。京都の混乱ぶりが想像されます。


 



閲覧数:7回2件のコメント

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2件のコメント


北薗 洋藏
北薗 洋藏
10月27日

佐是様、


革命を成すためには、権謀術数が必要とはいうものの寺島というか攘夷過激派の陰湿さが目に余ります。対照的に新兵衛、永井、会津藩士の行動には品格を感じます。

大望のためには策略も必要であるとはいうものの、個人レベルでの礼儀や潔癖さを失ってはならないと思いました。

小笠原長行の兵諫計画の行方が気になります、次回以降を楽しみにしています。


最近いろいろ読みあさっているうちに岩瀬、永井をはじめとする幕閣についてもう少し知らなければと思うようになり、近いうちに「方略は胸中にあり」を再読しようと思っています。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
10月27日
返信先

北園様、

革命には権謀術数が必要だと思いますが、そのおどろおどろしい世界でも人たる所以を忘れない心術の優れた個人はいるものだと思います。政敵を倒すためなら何をしてもいいと思い切るべきか、革命が成功しさえすれば、何をしてきたにせよ全て帳消しになるのか、など、国の造りが変わる時の考え方はいろいろだと思います。

総じて、日本の変革では、中国、ロシアなどの革命に比べ、はるかに穏やかな気がします。滿洲帝國の皇帝溥儀は長く収監され出獄後も幸福ではなかったようですし、レーニン、スターリンのやった大粛清、シベリア送りなどは目をそむけたくなります。


日本に限っても、松陰の影響を受けた一派は相当にあくどい謀略と暗殺をやりました。伊藤は、山尾庸三と共に、文久二年12月21日、塙次郎を暗殺しました。立派な学者でした。孝明帝を廃位させるために「廃帝の典故」について調査していると誤った巷説が広まっていたためです。伊藤は顕官になって、この暗殺が心に咎めていたようですが、そんな経歴の持ち主が初代総理大臣です。いい、悪いはべつにして、当時、内心で「暗殺者崩れが」と悪罵を投げた人も多かったでしょう。司馬遼太郎の『幕末』「死んでも死なぬ」に伊藤俊介のことが生き生きと描かれています。

それでも日本では前政権の人を根絶やしに殺したりはしませんでした。徳川慶喜の御一新後の生活は、政治的野心を持たず、静岡に、東京に暮らし、趣味の世界に没頭できるほど幸せでした。一家銃殺されたロマノフ朝ニコライ二世と対比すれば、日本の良さがわかると思います。


拙著をお読み返してくださるとのこと、喜びに堪えません。執筆順として、『四本の歩跡』を書いてから、『方略は胸中にあり』を書きました。

 

                  恒淳

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