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二 褥に上げる 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦十一年(一七六一)八月朔日(ついたち)、御台所(みだいどころ)倫子(ともこ)は二十四歳にして健やかに第二子を出産した。大奥にあって、正室、側室が二子を儲けることは少なく、それだけ家治と倫子の仲睦(なかむつ)まじい夫婦(みょうと)振りは有名だった。

 その日は八朔の祝賀で、いつもの年なら、在府諸大名が白帷子(しろかたびら)長袴(ながばかま)の姿で総登城し、神君家康公が江戸城入りした記念日を祝う。大奥でも同様に、御台所は白帷子、奥女中たちも白装束で德川家開運の日を祝うのが通例である。

 八朔が御台所ご出産と重なった。例年行われる将軍への拝賀は取りやめとなり、諸侯は老中に八朔の挨拶をしただけで下がっていった。

 年始に次ぐ重要な礼式とされる八朔に産まれついた子が男児であれば、よほどの強運の若君と格別に祝福されたに違いなかった。日柄がいいだけに、却って残念がる声があがった。

 七日、倫子の産んだ姫は万寿姫(ますひめ)と名付けられ、本丸表では、群臣みな祝賀に出仕した。八日、真新しい惇信院殿霊廟に姫君誕生を告げる使者を派遣し、三縁山増上寺に毎年七百俵を献じることにした。亡父を悼(いた)む家治と倫子が表した誠意で、この寄進には、亡父が死の床から祝福した姫が無事育つよう切実な願いが込められた。

 八月十五日、中秋の名月の宴を夜に控え、万寿姫の七夜の祝いが行われた。表では、御三家はじめ溜間詰(たまりのまづめ)、譜代、高家、雁之間詰の群臣がみな老中に拝謁し祝賀を述べた。生誕祝いの挨拶事が連日のように行われ、側衆も多忙に勤めを果たした。

 家治はしばしば、生まれたばかりの我が子を見に大奥に渡ってきたが、大奥で夜を過ごすことなく中奥に帰る日々が続いた。上様は相応にお喜びだが、男児でないことが残念そうだとささやく声が聞かれた。意次もそうした噂を耳にするまでもなく家治の気持ちを察した。頃合いだと思った。

 

 意次は家治に側女をおいて嫡男を得てほしいと、拝謁する折をみては説得を重ねた。家治は簡単に諾(うん)とは言わなかった。

 あれこれ説得を続ける意次に家治が言い出したのは、意次も側女を置くならば、という条件だった。家治は、新たな側女のために、折に触れて意次側女を大奥に伺候させてほしいと考えたようだった。

 ――新たな御側女の微妙な御立場と御台所様の御心情をこの意次に看(み)よとのお心か

 意次は、至極、厳粛な顔つきで、速やかに快諾した。

「上様の御諚、しかとお受け申しまする。それがしは、正室に先立たれて継室を迎え、三人の側女を置いて、すでに六男六女を得てござりまする。齢(よわい)四十三を数え、これ以上、側女を求めるつもりはござりませなんだところ、かくなる上は、上様と御子作りの駆け競べにござりまする」

 意次の力のこもった返事に家治も仕方ないという顔で、ついに諾(うん)と言った。

 意次からこの話を聞かされ、松島は、己の子飼いとしておいた知保(ちほ)に白羽の矢を立てた。松島は、津田知保が十三歳で御次として家重の大奥に上(あが)った頃からよく知っていた。長ずるにつれ色香が立って、十五歳で家重付きの中﨟に上(のぼ)った。ところが家重から「お清(きよ)」のまま手付かずに捨ておかれ、十年がたって、知保は歳だけを重ねた。

 松島の見るところ、知保は薹(とう)が立ったとはいえ、いかにも子を身ごもりそうな体つきで、何より気立てがよく、松島に従順だった。何かの役に立つと思った松島は、大奥御年寄筆頭の力をいいことに、二之丸で家重付中﨟のままくすぶっていた知保を、家重の死後、待っていたかのように、強引に我が子飼いとして手元に呼び寄せた。

 ついに、御台所の産んだのが姫とわかるや、松島は、四日後、もう知保を家治付中﨟に据(す)え替え、大奥の台帳に正式に記(しる)されるよう計らった。前例がなかっただけでない。いくらなんでも、「お清」とは言え先代の中﨟を勤めた者を、さも埃を払うように、再び、家治の閨房に奨めるのはいかがかと、噂になった。松島は知らぬ振りをして押し切った。

 二十五歳の熟れた肢体を打掛に包み、素直に従う様子に松島は満足した。泣いても笑っても、これが最後の機会になることだけは確かだった。

 松島は手筈通り、知保を伊奈備前守忠宥(ただおき)の養女に縁付けた。神速の手際だった。

 知保の実父は蔵米三百俵の下級幕臣で、七十八歳。すでに隠居の身で嫡男を亡くし、二十歳(はたち)を過ぎた末子信之が前年十一月西之丸の小姓に就いたばかりだった。松島は、信之では将軍側女の後ろ盾に役不足であることを懸念した。

 伊奈家は歴代、関東郡代を勤める名門旗本である。当主の忠宥(ただおき)は、勘定奉行の石谷清昌を介して意次に近い筋にあったから、知保と意次をつなぐよい接点になるに違いなかった。意次の協力を得て、松島の巧みな地固めに手抜かりはなかった。二人は力を合わせ、家治の閨房を豊穣(ほうじょう)にすることを図った。

 

 九月になって、大奥では恒例の十三夜の月見を催した。それを欠けば、片見月といってたいそう忌(い)まれたから、その晩は是非にも月見をせねばならなかった。

 すでに、肥立ちよく産褥の床上げを済ませた御台所(みだいどころ)が、午前中、御納戸座敷の前の御庭で蓮芋(はすいも)の茎を儀式に即して丁寧に引き抜いた。芋は小さくて食べようがないが、茎が滋養豊かな食材になる。御膳所ではこれを茹(ゆ)で、白胡麻と枝豆を加えて芋茎和(ずいきあ)えを拵(こしら)える。それは十五夜と十三夜の年中行事に必須の一品と定められ、不思議な食感のため多くの奥女中から好まれる料理だった。

 夕七つ(午後四時頃)から大奥御休息之間で御歌合わせが催され、巧みな者に賞品が下された。夜になると、白木の三宝に団子、枝豆、栗、柿をはじめ、衣被(きぬかずき)と称して半剥(む)きの茹(ゆで)里芋を美しく盛り上げ、すすきの穂を供えた。皆が揃って入側(いりがわ)に座り、八月十五日の月に次ぐとされる九月十三日の月を見上げて虫の声を聴いた。

 宴たけなわの頃、松島は、子飼いの御次が憚(はばか)るように近付いてくるのに気付いた。耳打ちを受け、顔を引き締め目立たぬようそっと月見の席を抜け出した。御次に導かれ人目につかぬ小さな座敷に足早に到着した。意次はすでに着座して待っていた。

 松島が座敷に入って向かいに座るや、意次はすぐに挨拶を述べ始めた。ひどく急いでいるように見えた。

「十三夜の月も冴えわたり、御台所様はじめ、御女中皆様方の御興(ごきょう)がお乗りのところではございましょうが、松島どのに一言申し上げたく、急遽、罷(まか)り越しました」

 意次はやや緊張した趣(おもむき)で手短に要件を語り始めた。

「松島どの。たった今、上様からようやくご承諾をいただき、その足で駆け付けました。今宵(こよい)、お知保さまお褥上(しとねあが)りの件、よしなにお計らい下さいませ。善は急げと申します」

「な、なんと……」

「間も無(の)う、上様がお渡りになるはずでございます。側衆から御錠口番に連絡がございましょうが、何分、急なお報せで、定めの手順を外れた秘かなお渡りです。松島どのにはご準備もござりましょうほどに、一刻も早(はよ)うお伝えしなければと思い、御宴(おうたげ)の最中ながら罷(まか)り越しました」

 松島は、はっと驚く心中を表に出さず、意次に深く頷(うなず)いた。

「う、うけたまわりました。主殿どの」

「松島どの。これで一つ目のお約束はしかと果たせるというもの。次は、御台所様に御納得いただく儀なれば、近日中に御拝謁のお願いを申し出ます。しかとお許しを頂戴いたす所存にて……」

 松島は、意次が急ぎ退出するのを見送った。これから、倫子の味わう女の哀しみを少しでも和らげるよう誠心誠意、周りを整える覚悟を意次の面(おもて)に、はっきりと見てとった。意次が徳川家にも家治夫婦にも均(ひと)しく良かれと願い、これまで誠実に事を運んできた勤め振りをあらためて高く評価した。

「上様も、御台様も、よき御側御用取次を持たれたものよ」

 松島は小さく呟(つぶや)くと、室外に控えた御次を呼び入れ、何事かを小声で命じた。

 

 

 十三夜の月見が終わって数日がたった頃、意次の執務する側衆部屋に勘定奉行、石谷(いしがや)備後守清昌が訪ねてきた。意次は、書見する文机の先に、広い濡縁が秋の日差しに照らされるのを見るともなく眺めていた。

 時折、濡れ縁脇の井戸屋形に止まった鶺鴒(せきれい)が長い尾を振ってちちん、ちちんと鳴くのを見ながら考え事をしていた。部屋に通された清昌を振り返ると急(せ)いている様子で、意次は鶺鴒の閑話を諦めた。

「主殿頭様、急ぎのこととて、急にお伺いいたしました。ご容赦くださいませ」

「いかがなされましたか」

 意次は座敷の中央に席を移し清昌と相対した。

「大坂からの報せが、ちと気にかかりまして、お耳にお入れ申したく罷り越しました」

 清昌は、単刀直入に話し始めた。大坂町奉行の報せでは、九月に入って米相場が下がり出し、この分では一石四十匁にも暴落するのではないかと、各方面から懸念がでているという。

 大坂町奉行所の者が広島藩の蔵屋敷の者と話をした折、深刻に懸念する言葉を聞いたという。

「豊年の飢饉になるのでは……」

 豊作故の米価下落と財政逼迫を例えたらしい。広島藩は例年、八万石から十万石の米を大坂に運び換銀する。広島米は中国を代表する上米で米価の基準米になっていた。

 近頃、各藩の蔵屋敷では越年米(おつねんまい)を捌(さば)くにも難渋していたから、おそらく、この分では、米価が必ずや暴落するだろうと勘定所の多くの者が言いだしたという。影響は西国大名に止(とど)まらず、上方(かみがた)に領地を持つ旗本にも及ぶとの見通しだった。

 意次は、難題が来たかと気を引き締め、清昌の考えを聞かなくてはならないと思った。清昌が対策もなしに来るはずがない。この時期、勝手掛の老中と若年寄は置かれていないから、御側御用取次の意次と勘定奉行の清昌に財務の観点から掣肘を加える者はいない。

「備後殿のお考えをお聞かせください」

 清昌は、得たりとばかりに頷き、幕府の対応策を論じ始めた。米価下落は市場において米がだぶついているから起こること、先ずは各藩蔵屋敷の在庫を捌(は)いてしまうために、誰かに米を買わせなければならないと指摘した。しかも、六十匁を下回らない値を維持しなければならないと念を押した。

 こうして買米(かわせまい)策を講ずる一方、空米切手(くうまいきって)を抑え、米の見かけの流通量を現実量に近づけることが重要であると提言した。

 米切手というものが大坂で機能している。米仲買が米を落札し代銀を支払った後に、米を売った藩の蔵屋敷から発行される証文で、これを蔵屋敷に提出すれば、直ちに米俵(こめだわら)を受け取れる。普通、米仲買は、落札直後には現物米を受け取らず、切手のままに所有する。藩ごとに、おおよそ一年から一年半が蔵出し期限と決められ、この間、切手は相場に応じて売買された。藩にとって、切手を発行してから実際に米俵を払い出すまでに時間が生まれる。

 仲買は米を民に売りたくて藩米を落札するのではない。投機の目的で米切手を証文のまま第三者に転売する。堂島米市場は証券化された米、すなわち米切手の転売市場であり、米俵(こめだわら)を売買するところではなかった。

 米切手は一枚あたり米十石に統一され、一石六十匁の平価では六百匁、金銀標準相場で金十両に相当する。

 国許から運ばれてきた米は藩の大坂蔵屋敷に保管される。この米は正米(しょうまい)と呼ばれ、実在する確かな在庫である。蔵屋敷では、正米を上回る量まで売って切手を発行するのが普通だった。これは資金調達の手立てとして諸藩の財政を支えていた。

 蔵にない米は空米(くうまい)と呼ばれ、在庫がないのに証文で取引される商品だった。この切手が空米切手だった。米切手が市場で穏やかに回っているうちは問題ないが、正米を大きく超えて過剰な米切手を発行すれば、空米切手となって信用不安を引き起こし、米価、即ち米切手価格が暴落する。

 現物米との交換を求めて米切手所有者が蔵屋敷に押し掛け、取付騒ぎに発展したことが何度もあった。意次は、寛延二年(一七四九)と宝暦三年(一七五三)立て続けに萩藩蔵屋敷が起こした取付騒ぎを覚えていた。

 信用不安の問題だけでない。実態のない空米切手は、見かけ上の流通米の量を増やし、米価下落の一因になる。清昌は、米価下落の危機が差し迫っている今、空米切手(くうまいきって)を回収させなければならないと意次に強く進言した。

「それがしは備後殿に賛同します。空米切手を抑(おさ)えるために、直ちに手を打つほうがよろしいと存ずる。今一方の買米(かわせまい)策は資金が入用でござろう。何か手立ては……」

 それから、しばらくの間、二人は密談を続け、清昌は急ぎ足で御殿勘定所に戻っていった。

意次は清昌を見送ってから、将軍家治の許に報告に向かった。小姓に先導されながら萩之御廊下に差し掛かったあたりで立ち止まり、小さな声で己に向かって呟(つぶや)いた。

「惇信院様の御遺言は、我らだけでは、とうてい担うことは出来申さず。上様にこそ大本を担っていただかねばなりませぬ」

 此度の米価暴落を辛うじて抑える荒療治に、将軍の同意が不可欠だった。今後、ますます将軍の支援が必要になる。

 評定所は二年前に留役の増員を完了し、意次の意向の許に、多くの調査、立案をこなす態勢を整えた。意次は、清昌率いる勘定所と己の主導する評定所の力を合わせれば、少しずつであっても御遺言を成し遂げられると確信していた。それには家治の後押しがどうしても必要だった。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」一節「褥に上げる」(無料公開版)

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