四 薩摩の血気 次を読む 前に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
文久二年(一八六二)四月も終わろうとする頃、田中新兵衛という男がようやく京都にたどり着いた。言葉から薩摩者だとすぐにわかった。身分は卑しそうで身なりも旅塵にまみれていたが、身のこなしはあくまで隙がなかった。足の運び一つとっても高い剣技の持ち主のようで、全身から立ち上る凄みのようなものが、眼識ある人にははっきりとわかった。
薩摩藩には高禄の家臣が多くいて、家門方四家、家名方五家、一所持(いっしょもち)三十家、一所持格十三家と総称され、こうした家は多くの家来を抱えていた。これらの士(さむらい)は薩摩藩主からみれば陪臣となり、本藩直臣と比べ格は低い。
新兵衛は一所持島津内藏(くら)の家来で、手札には「島津内蔵三足人、田中新兵衛」と、主人名とお役名が書かれている。家門方、家名方に抱えられればもう少し格が高くなって、手札には氏名の前に主人領地の地名のみが書かれる。薩摩は、こういうことにうるさい国柄だった。
薩摩は士分が多いため独特の制度があった。喰えない士(さむらい)は大工、左官、船大工などの職人、その他の商売を営み、喰えるまでに蓄えができたら元の士に復帰することが許された。中宿(なかやど)と呼ばれる制度である。
新兵衛は中宿者(なかやどもん)として鹿児島前ノ浜の薬種商に勤め、船頭の仕事に就いた。新兵衛は幼少から舟に親しみ、長じて、中宿で一人前の船頭となった。
薩摩の船頭は、日向、豊後方面に荷物を搬送し、時に、琉球で清相手の抜け荷(密貿易)をやるから、相当に気はしの利く者でなければ勤まらない。身分の厳しい薩摩では、新兵衛は陪臣のごく軽い扱いしか受けられなかったが、船頭をやりながら、いずれ剣技と機略で、相応の国事に従事したいと必死に願っていた。
新兵衛を雇ってくれた中宿雇用主の一族に森山新蔵という豪商がいて、琉球、奄美の物産と清の抜け荷を手広く扱っていた。薩摩藩が貧窮に悩んだ頃、森山は藩に巨額の支援を申し出たことがあり、これを褒賞されて武士の身分を許された。
森山は新兵衛を目にする機会があり、なにか志をいだいた若者(にせ)と見た。そんな機会が幾度かあって、森山は新兵衛に書物を読ませ勤王思想を教え、それなりの教養を授けた。
森山は、成り上がりであっても武士は武士、城下直臣の武士たちと相応の交際ができる。訪れる者には惜しみなく酒飯を振舞った。森山は勤王の志に篤かったから、城下直臣武士の結成した誠忠組に加わり多額の活動資金を提供した。
かつて誠忠組は水戸藩の勤王激派と密接に連絡を取りあっていた。安政七年(一八六〇)が明けて、誠忠組は、水戸藩士が井伊大老の暗殺に成功したあかつきに、これに呼応して義兵をあげる計画を進めていた。京都に兵を挙げるため鹿児島を海路脱出する策が採用され、森山と新兵衛は鰹船二隻を購入し事に備えた。
桜田門外の変の起こる前、久光が誠忠組の挙兵計画を知って、これを説得し計画を取り下げさせた。年初から出帆の準備を重ねた鰹船は使われずに終わった。新兵衛の希望も実らなかった。
それから二年たち、文久二年(一八六二)四月、久光は、藩主の父、国父という私的な立場ながら兵を引き連れ、京都を経て江戸に行く計画を実行した。他藩の多くの勤王志士がこの機に乗じ、義兵を挙げて倒幕に向おうと京都に集結した。京都は大事件前夜のような異様な熱気に包まれた。
久光は、薩摩の誠忠組尊王激派が関白九条尚忠(ひさただ)と京都所司代酒井忠義(ただあき)を襲撃するため伏見に集結したことを知って激怒した。久光は、己の羈絆(きはん)に少しでも従わない家臣を許すことができない性質(たち)だった。さらに、今回、朝廷から暴徒鎮圧を命ぜられた直後のことでもあり、なおさら怒りが募った。
四月二十三日、間髪いれず誠忠組激派の終結地に腹心の家臣を派遣し、我が許に直ちに出頭するよう命じた。使者に立つ九名の家臣から、激派の連中が主命を聞きいれない場合の対応を問われ、久光は臨機の処断をとれと上意討ちを許した。
京都、伏見の間は二道が通う。使者一行は、行き違いになることを恐れ、京都錦小路の藩邸から伏見街道と竹田街道の二手に分かれて伏見に急行し、夜二更(午後十時)、船宿寺田屋に到着した。まだ激派は宿にいて出達準備に余念がなかった。
ここで、大殿(おおとの)の許に出頭せい、いや断る、のやりとりが繰返されたが、らちが明かないと見て、使者は、激派を上意討ちにかけ、同士相撃の凄まじい斬り合いとなった。寺田屋事件である。これによって久光は九条尚忠と酒井忠義の暗殺を未然に防ぎ、帝と朝廷の信任を篤くすることになった。
新兵衛は、藩主に随行する一行に加われるはずもなく、一人鹿児島を発って京都を目指した。路銀に苦労しながら京都に到着したのは、寺田屋事件が終わった数日後、四月末のことだった。身なりは貧しいが腰に差した佩刀は自慢のものだった。
以前、森山新蔵から贈られた薩摩鍛冶、奥和泉守忠重の豪刀は、長さ二尺四寸、幅一寸一分、反(そり)五分の業物で、柄(つか)は地黒塗鮫皮、浅黄糸平巻、柄頭は鉄で藤原と高彫り、縁鉄(ふちてつ)表に鎮、裏に英の二字が真鍮(しんちゅう)で嵌(は)め込んである。
新兵衛は、森山から贈られ初めて刀を見たときの感動を大切に心にしまってある。鞘から抜くと、お国流の刃紋は湾(のた)れ乱れに沸出来(にえでき)が地肌によく詰み、所々に小互(こぐ)の目(め)が交じる。焼きの高い刃に匂口(においぐち)が深く、華やかな沸(に)えに凛冽の気が立った。新兵衛は茫然と息をのんで長い間、刀身を見つめ続けた。そのひたむきな姿を森山が温顔を浮かべて脇から見守っていた。新兵衛は、この感謝を胸に秘めていかなる苦難にも耐えてみせると心に誓った。
やっとの思いで新兵衛が京都にたどりついても、もとより藩邸に起居することを許されず、頼りにした森山新蔵にも会えずにいた。森山は、久光の怒りに触れた西郷吉之助や村田新八とともに帰国を命ぜられたことを知って困り果てていたところ、ある薩摩藩士が宿所に使っている藩御用達、寺町通りの大文字屋に呼んでくれた。
宿で過ごす新兵衛に、ようやく寺田屋事件と森山新蔵の息子新五左衛門の事情が聞こえてきた。寺田屋では、たまたま新五左衛門が階下の厠から出たところで斬り合いが始まったので、新五左衛門には大刀の用意がなかった。しかし、臆することなく直ちに脇差一尺三寸を抜いて斬り合いに加わり、激闘の末、体中、数十の刀創を負って息も絶え絶えに倒れたという。
翌朝、新五左衛門は伏見の薩摩藩邸で息を吹き返したが、久光の命が下り、使者と戦ったのは主命に逆らう意図ありとみなされ切腹を申しつかった。誠忠組の者なら誰であってもあの場にいれば使者と戦ったろうし、二階にいて戦いに加わらなかった者は気付かなかっただけのことだった。生き残った者に冷厳な処断が下った。
新五左衛門、二十歳。重傷にもめげず、前夜の激闘で血まみれに汚れた体を自ら清拭し、少しも動ずることなく禁裏を遥拝した。気力を込め、しずしずと腹を切った。その潔さ、その振舞いに藩士たち剛の者も号泣したという。
五月十二日、新兵衛が十文字屋に転がりこんで少したったころだった。高知城下で吉田東洋を殺(や)った那須信悟ら土佐藩の三人の刺客が、同じ宿にかくまわれることになった。那須らは、国許から京都まで逃亡してきたところを久坂玄瑞の計らいで長州藩邸内に保護されていた。そのうち、土佐藩庁の密偵の知るところとなって長州藩邸でもかくまい切れなくなり、久坂が旧知の薩摩藩士に頼んだものだった。
五月二十二日、久光は七百の藩士を率い勅使大原重徳を護衛し江戸に向けて京都を出達した。薩摩藩邸は人数が大きく減ったため土佐の三士を受け入れやすくなった。新兵衛は、十日間ばかり土佐藩の三人と大文字屋で同宿し、互いに少しの話を交わして面識をえた。新兵衛にとって腐れ縁の始まりだった。
この後、新兵衛は大文字屋に住まうよう手配してくれた薩摩藩士の示唆を受けて人斬りに従事することになった。尊王攘夷の志士たちは、はじめ長野主膳義言(よしとき)に報復を考えた。長野は井伊大老の懐刀といわれ、安政の大獄の枢機に関与した。当然のことながら、大老亡きあと尊王攘夷派の最大の仇(かたき)となった。天誅には最適の人物だったが、彦根藩の国許に捕らわれたため手が出せなかった。
文久二年(一八六二)七月、攘夷激派は次に島田左近を狙った。島田は関白九条尚忠に仕える諸大夫である。幕府寄りの九条関白は、安政の大獄に特に異議を唱えず、実質的に黙認していた。九条は、幕府と連携するため島田のような気の利く家臣が是非とも必要だった。ここで、島田を殺(や)れば、関白を辞任したばかりの九条尚忠への痛烈な警告にもなる。ひいては公武合体派への一撃になる。
島田は、もともと洒落者だったが、大獄が始まると、いっそうの美服を纏(まと)い威儀をただし、たいそうな成りで京都の町を闊歩した。時に大仰な駕籠に乗った。日の出の勢いとはこのことだった。
役儀の最中、島田にも幕府の工作資金が流れ込み、島田は巨利を得たと噂が絶えなかった。それもつかの間、大老が横死してからというもの、人目を憚(はばか)らなければならない境遇に墜ちたが、根が横着者である。
「風向き言(ゆ)うんは、いつまでも同じと違(ちゃ)う、そのうち変わるもんや」
開き直って、ぬけぬけと生きていた。少なくとも尊王攘夷派にはそう見えて、やっかみと不当ともいえる憎しみを集めた。
面倒を見てくれる薩摩藩士から島田を斬れと、新兵衛に話がきた。そうでなくとも新兵衛は、こやつを斬って国事奔走の足がかりにしたいと考えていたところだった。木屋町二条下ルの島田の妾宅に網を絞り、島田の在宅のときを探索し続けた。一度は久坂、寺島らが屋敷を襲ったが、裏塀を越えて法恩寺に逃げられた。
文久二年(一八六二)七月二十日、盂蘭盆(うらぼん)も過ぎて精霊が送り火に送られた直後だった。ついに新兵衛ら三人の薩摩の刺客は、島田左近の在宅を探し当て妾宅に押し入った。逃げる島田を一撃で仕留めたのは新兵衛だった。
翌日、首のない遺骸が高瀬川の筋樋の口に発見された。二条大橋西詰、みそそぎ河から取り入れた水が高瀬川にそそぐあたり、竜宮門の目立つ善導寺門前である。二日後、四条を一町半上った加茂川筋の先斗町(ぽんとちょう)川際に青竹に突き刺した首が晒されてあった。これが、京都で吹き起こる人斬りの季節の始まりだった。新兵衛、二十二才。
そうこうしているうちに、志士の間で島田左近を殺(や)った男として田中新兵衛の名が知られ始めた。人斬りの名声など名誉とはほど遠いが、暗殺を政治手法として用いる一派には、重要なことだった。新兵衛にしても人斬りを好きでやるわけではなかったが、これも国事だと思えば、己(おのれ)の参画できる場を見出せたということだった。
八月二十六日、土佐藩主が上京し、閏八月七日、薩摩国父、久光が江戸から京都に戻ると、いよいよ薩長土、三藩の兵が京都に揃った。
土佐の前藩主、山内容堂は江戸で謹慎の解けた直後のことで、国許から兵四百を率いたのは若き藩主山内豊範だった。土佐藩本陣は洛西妙心寺塔頭(たっちゅう)大通院においた。武市半平太の目論見があたり、ついに京都の地に土佐の枝柏の旗が立った。
武市は藩主に随行し京都にきたが、十日間ほど何やら体調を崩し、閏八月六日、ようやく床をはらって月代(さかやき)を剃った。朝から爽やかな快晴で、秋が始まった京都では抜けるように空が青かった。さっそく、武市は関係者を回って議論を交わし活動を開始した。この日の夜、久坂を訊ねた。
翌日、武市は豊後岡藩士、小河(おごう)弥右衛門を大雲院内の超勝院に訪ねた。寺町四条下ルだから、三条の武市の宿所からすぐである。ここで武市は、初めて田中新兵衛を紹介された。武市は新兵衛が島田左近を天誅にかけた人物と知っていたから、高名な尊王攘夷の志士として篤く遇するつもりだった。腕の立つ男を探している折、佳き人物と面識を得たと喜んだ。縁深い付き合いになることをなんとなく予感した。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」四節「薩摩の血気」(無料公開版)
五 鬼才の術策 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
文久三年(一八六三)四月六日、老中格、小笠原図書頭長行が江戸に着いてみると、賠償金の支払い問題で幕府は大混乱だった。幕閣誰もが恐ろしすぎて手を付けたがらない。江戸城の内にごろりと打ち捨てられたような日本国政府の責任を拾うときがきたと小笠原は腹を括った。
――この大石は、わしが拾わねばなるまい
幕議の場で、いまさら評議を要すことかと、ずけりと一同に言った。腰が引けた幕閣は苦い顔をしたが何も言わなかった。小笠原はさっさと支払いに向けて準備を進めていった。
小笠原はもっぱらニールと交渉し、幕府内を調整して回った。実際の支払手順と実務一切は水野筑後守忠德に任せた。水野は、隠居の身ながら幕僚たちに隠然たる影響力を保っている。償金問題で相談にきたかつての朋輩に償金を支払うべきことを談じて迷うことがなかった。前年冬、水野が常盤橋御門内の役邸を訪ねてきて以来、小笠原が私的な連絡を絶やさなかったことが今、生きた。見込んだ通りだった。小笠原が、今や水野は帷幄(いあく)の謀臣だと思うのも無理はなかった。
五月九日、混乱はあったが、小笠原はともかくも十一万ポンド相当の四十四万ドルの賠償金をきれいに支払った。邦貨にして二十六万九千六十六両二分二朱の大金だった。生麦村でことを起こした久光に、舌打ちしたくなる感情は、小笠原の心の内にとうに封印してある。
賠償金を支払った後、水野は小笠原に英国に談じ入れるべきことを丁寧に説いた。水野の策では、今回は支払ったが、今後、生麦事件のような不祥事が起きても、幕府はたびたび高額の償金を支払うことはできないと英国側に伝えよという。そのうえで、国内で異人に対し反感が高まり、世の不評が集まって、開国、通商に時期早尚であることがはっきりしたので、一旦、港を閉じたいと宣言せよという。
こうなれば英国は守勢の立場となり、日本の開港を維持したい一心で交渉してくるに決まっている。牽制をかけながら、他方で交渉を通じ、現在の通商条件を有利に改正する道を打ち開くべきだと献策した。
それだけではない。港を閉じたいと英国に談じ入れること自体が、幕府が再鎖国に向って努力している証なのだと朝廷に主張することができる。償金を支払うにしてもただは起きない。水野は、いかにも戦略眼が透徹していた。
勝から書状が届き、姉小路公知の一行を順動丸に乗せて摂海巡視に出るのが四月二十五日になると報せてきたときは、速やかに水野に伝えた。この時点で、すでに姉小路は順動丸に乗って勝の口説を聞かされたはずだった。水野は渋い顔つきに嬉しそうで妙な笑みを浮かべて言った。
「かの卿は、鉄船の速さと力を実感し、大砲の射撃を見物し、西洋技術の恐ろしさを思い知ったに相違ございませぬ」
「それはそうであろ」
「勝から軍艦や大砲の話をたっぷり聞かされ、むやみな攘夷がいかほど危ういか悟ったことにございましょう。きっと何かが動きましょう」
二人は、姉小路卿が冷静な見方に立って、攘夷の考えを改めてくれるだろうと期待した。
「されば次になすべきは、帝に世界情勢を説くことにございましょう」
「うむ。帝から拝謁を賜っても、世界情勢の実のある話がなかなかできないのじゃ。何か策はあろうか」
水野は得たりと言わんばかりに姿勢を正し、堂々と流れるように策を述べ始めた。水野の緻密な戦略眼が窺い知れる策だった。
「朝廷の意向に沿わず、図書頭様の独断で英国に償金四十四万ドルをお支払いになられました。そこで、御自身自らやむにやむなき事情があったことを朝廷に上奏し、詫びるために上京する大義が生まれたのでござる」
水野はさらに言った。この上京には少数の供廻りですむところを、幕府の精鋭千ほども率いて、海路、軍艦数隻で天保山沖に乗りつけ、大坂に上陸してから一路、兵を京都に進めたらどうかと提案した。
「図書頭様は、四十四万ドルを支払って、兵諫の大義を買(こ)うたようなものでござる。意義あるお支払いでござりました」
兵を率いて物申すことを兵諫と言う。前年六月、島津の兵八百の護衛で大原重徳が勅使として江戸に来た。その後、山内と毛利の兵が三条、姉小路の勅使を護衛して江戸に来た。いずれも勅使護衛の役儀ながら体のいい軍事的な示威で、兵諫そのものだった。水野は、あの時、幕府でさえずいぶんと緊張を強いられたことを忘れてはいなかった。
「兵とはそうしたもの。ずしりとした重みは相手に威圧を与えずにはおきませぬ」
勅使一行が二回にわたって幕府に示威した。今度はこちらが朝廷に兵諫をやってみせようと水野はいう。国を誤る前に、帝はじめ諸卿に、清が英仏に国を侵された惨状を伝え、日本にとって攘夷がいかに危険か、なんとしても悟らせなければならないと力説した。
「我が国の進む道は開国、通商しかないことを帝に識(し)っておいていただかなくてはなりませぬ。夷人を好く、嫌うという話ではすみませぬ」
前年十二月、幕府は、歩兵、騎兵、砲兵を組織し、陸軍をあらたに編成した。旗本で、五百石から千石の家は一人、千石から三千石の家は三人、三千石以上の家は十人の割合で兵を出し、その他の旗本は軍費を金納するよう布告した。
関ヶ原の戦(いくさ)以来の兵制を一新し、歩兵奉行の小栗忠順(ただまさ)が洋式調練を取り入れ兵を鍛えた。今や幕府の最精鋭に育ち上がった。虎の子と言ってよい。京都の地で鮮やかに軍事力を誇示するには最適な軍団だった。会津兵一千と、将軍に付き従った幕兵二千はすでに京都にいる。合わせれば四千五百、兵諫には十分な兵力である。
――たしかに兵を擁しておれば、幕府の上奏がやすやすと拒まれることもなかろう。たしかに水野の申す通り、それこそが兵諫なのじゃ
小笠原は、水野の策を実行すれば、非をしりぞけ理を通せる環境が整い、攘夷の愚を悟らせることができるだろうと思った。京都に巣食う長州の攘夷志士が自ずと声をひそめれば、暗殺に震撼する京都に平穏を取戻すことができるだろう。
水野は、さらに論を発展させた。攘夷激派があれほどやりたがる天皇親征を逆手にとって、幕軍主体で実施すればよいという。帝が幕府の大兵を率いる形になって公武合体が進むことは間違いない。帝が幕府軍艦をお召しになって摂海巡視の行幸にお出ましになることも夢ではない。帝はじめ、お側の公卿が西洋船の上で西洋の技術を身近に見れば、世界観が一気に変わるのではないかと水野は言う。
西洋事情を説明したいと上奏を申請して、円滑に穏やかに許しが下りるためには、朝廷内に理解者が是非とも必要となる。そうでなければ、長州の攘夷志士たちが激派公卿と組んでよからぬことを企み、不測の事態がおこらぬとも限らない。
それを抑え、幕府の説明を聞いてみようではないかと、朝議を持っていってくれる者、それは姉小路公知しかいないだろうと小笠原も水野も同じことを考えていた。
小笠原と水野は、姉小路が順動丸の体験から今後どのように動き始めるか予想し、今や姉小路こそが、この計画になくてはならない人物であると二人とも同じように確信した。
水野は、賠償金の支払い準備のかたわら、上京に率いる幕兵の編成、動員、輸送について、てきぱきと準備を整えていった。四月二十三日、小栗忠順は歩兵奉行を罷免されたが、水野はひそかに小栗の助けもかりて、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵奉行らの説得に当たった。水野と小栗、幕臣きっての俊秀二人に理をわけて密計を打明けられ、幕府の陸軍幹部は勇んで協力を申し出た。
小笠原は、江戸の幕閣、英国公使館関係者に抜かりなく手を打ち終えたあと、一橋慶喜に計画を伝えた。一橋は当初、京都へ同行すると言っていたが、政治的に熟考を重ね、急に取止めた。いつものことだった。
*
文久三年(一八六三)五月二日、姉小路公知が攝海巡視から京都に帰ってきた。順動丸に同乗した寺島忠三郎は、姉小路より一足早く京都に戻って、姉小路の参内下がりを待った。
寺島は、姉小路がどのように摂海巡視を復命したのか、将軍の江戸帰りを阻止できたのかなど、姉小路の動きを国許に報告しなければならなかった。巡視中の振舞を観れば、公知が複雑な思いをいだいたに違いないと寺島は心配だった。
四月十五日すでに、久坂ら攘夷激派は山口と馬関を目指し京都を出達した。来る五月十日には、馬関海峡を通航する異国船を攘夷のために砲撃することになる。今まさに馬関では、多忙を極めているころだろう。寺島からの京都情勢報告を国許では待っているに違いなかった。
寺島は、順動丸の上で姉小路が勝の口説に繰返しうなずいた姿が心配でならなかった。欧米の力を説くことはやさしい。それを素直に聞いて、欧米には手出しをしないほうがいいと判断することは、さらにやさしい。
それでは、船や大砲の強い相手には、理不尽を言われて唯々諾々と従うのか。国を侵(おか)されるのをみすみす見ているのか。
寺島は、異国の情勢を見ながら自国の歩む大方針を決める発想に我慢ならなかった。自国の道はわが手で決めること、右顧左眄し異国の情勢論を論じて決めることではあるまい。欧米の力を理で語ることは事の些末で本質ではない。異国の情勢に依拠して国の行く道を決めれば、必ず、大切な何物かが抜け落ちる。寺島は姉小路邸を訪れ、我が信念を大いに弁じた。
「確かに欧米の船は強かろ。じゃけど、それだけのことじゃなかろか。武士が死力をふるって国を守る勢いを示しゃあ、相手の戦意を挫(くじ)くのじゃなかろか。これまで攘夷を目指してきたさあ、一丸となって夷狄を打ち攘(はら)い、国を守るためではなかったろか」
寺島は、かつての同志の努力を縷々(るる)言い募った。あと数日もすれば、馬関では夷狄船に大砲を撃ちかける。ここで、姉小路に水を差されたくはなかった。
姉小路は寺島に強く反論してこなかった。それどころか、寺島の弁にうなずくことが多かった。それはそうである、という素振りをみせながら、その実、寺島の攘夷の熱誠に寄り添う心は、もはや薄れたように思えた。寺島は落胆を隠しながら、あと少し、姉小路の様子を見なければならないと決めた。それで元の攘夷論に戻らなければ、成敗を問わず、なすべきことをなすまでだと思った。
五月九日、朝廷から幕府に三ヶ条の沙汰書が下った。それによると、大坂城には然るべき大藩を配置し防衛拠点とすること、堺を守る立花飛騨守は疲弊しているので大藩に交代させることを指示してあった。
そのあとに、製鉄所、造船所は長崎に一箇所あるものの攘夷に備えて広大な施設を新規に建設するよう沙汰があった。姉小路が摂海を巡視した結果、必要とみなした施策で、勝の助言に沿った考えのようだった。
姉小路が京都に帰着しわずか七日後のことだった。造船所は攘夷のためといいながら、開国し貿易で金を稼ぎ技術を欧米から取り入れる口実を幕府に与えることにほかならない。寺島は、姉小路に裏切られた思いを止めようがなかった。明日は馬関で攘夷の砲撃を始めようというのに、その前日にこの沙汰か、なんという変節かと奥歯を噛みしめた。
寺島はその後、姉小路が学習院で公家達に幕府の船に乗った体験談を話したと聞き、ますます落胆した。さらに、勝を学習院に呼んで、国事参政と寄人の皆で弁説を聞こうと姉小路が提案したと知るにおよんで、もはや寺島の堪忍の緒が切れた。
これ以上、勝に、理をもって欧米の力を説かれたら、第二、第三の姉小路が出てくるに違いない。三条もどう転ぶか、わかったものではない。国を守るとは理と非の話ではない。非であっても守らねばならぬのが祖国である。寺島は公家と付き合い、その弱腰をよく知っていた。武市はすでに国に帰った。久坂は攘夷砲撃に備え馬関で忙しい。ついに寺島は己一人、ある決意を固めた。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」五節「鬼才の術策」(無料公開版)
六 殺意の交錯 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
公知には、西四辻公業(きんなり)という一歳年長の従兄がいる。西四辻家は藤原北家閑院流の末流で羽林家新家である。かつて、公業(きんなり)は八十八卿列参に父公恪(きんつむ)とともに参加し、八十六番目に署名した。
公業は、この計画を耳さとく聞きつけ、閉門の処分明けでぶらぶらしていた公知に教えてやった。公知に再び世に出るきっかけを与えてやったのは公業だった。少なくとも公業自身はそう思い、公知に恩を施したつもりでいた。何かの折に公知から相応の報恩があって然るべきだと思っていた。
また別に、公知には滋野井(しげのい)実在(さねあり)という叔父がいた。滋野井家は、藤原北家閑院流庶流で、西四辻家と似たような家格だった。この叔父には息子の公寿(きんとし)がいたが、まだ年若く、八十八卿の列参に参加したのは叔父だけだった。公知は、公業、公寿と従兄弟(いとこ)の悪童仲間だった。
安政五年(一八五八)、八十八卿列参の頃はほんの青公家だったが、文久三年(一八六三)ともなると、西四辻公業は二十六歳、姉小路公知は二十五歳、滋野井公寿は二十一歳となって、それなりの年齢に達した。
昨年の冬、公知は持ち前の度胸と、弁舌と、負けん気によって抜擢され、攘夷別勅使の副使となって江戸に下向した。従兄弟の公業、公寿の目には羨ましい限りの栄誉と映った。
公知は「吉野拾遺」などの書物で、公寿の先祖、滋野井実勝とその正室が南朝に忠を尽くした哀切な美談を知っていた。公知は、文和元年(一三五二)、実勝が八幡合戦で非業の死を遂げたことで公寿をひどく羨(うらや)んだ時期があった。この年、足利尊氏が弟義直を殺すという事件が起こり、日本の政治が混迷を極めた頃の話だった。公寿にすれば、なぜ公知が、五百年も前の先祖を、しかも非業の死をとげた先祖をそれほど羨(うらや)むのか、よくわからなかった。
公知は勅使の輝かしい業績を帝から誉められたこともあって、文久三年になると、いよいよ攘夷激派の重きをなす人物になって大活躍するようになった。二月には一橋慶喜に攘夷実行の日取りを決めるよう迫り、政治的に勝利をえた。三月に賀茂神社行幸、四月に石清水八幡行幸を成功させ、華々しい世評を受けるに至った。
この時期、公業は公寿と語らい、学習院に巣食う他の下級公家らと連名で国事掛に一案を建白したことがあった。その要点は、「天下を三分になさん」という政権、国土の三分割案だった。その過激さは、愚昧とも拙劣とも言いようがなく、国事参政、寄人でさえ、ほとんど皆が目を白黒させて直ちに不採用としたほどだった。公寿の父、滋野井実在は国事寄人の一人だったが、審議の場に欠席していて幸いだった。
公業と公寿は、国事参政から直ちに建白を不採用とされたことに自尊心を傷付けられ、中心人物の公知へ悪感情を抱いた。気持ちの奥には親戚ゆえの強い嫉妬があった。さらに、公業にしてみれば、公知から借りを返してもらうどころか、後足で砂をかけられた気がした。
公業と公寿は、これを機に一気に公知を怨むようになった。しかも、その怨(うら)み嫉(ねた)みを世に隠そうとせず、騒ぎ立てることによって世の同情と喝采を浴び、公知を非難しようという魂胆だった。見よいものではなく、いちはやく衆目の知るところとなった。当然のことながら、京都で活動する寺島忠三郎にも聞こえてきた。
*
文久二年(一八六二)閏八月六日、薩摩の田中新兵衛は武市に初対面の挨拶を交わしながら、重苦しい印象を受けた。堂々たる偉丈夫で領袖たる押し出しを感じながらも、どことなく暗い影があるように思えた。話題に事欠いたが、五月に大文字屋で土佐の那須信悟ら三人と面識を得たと話すと、武市もほっとしたように、何かと話が通うようになった。
新兵衛は敬意のこもる扱いを初めて受け、武市に強く惹かれた。森山を除いて、こうした接し方をしてくれた人物を知らなかった。
新兵衛が武市の面識を得て十日余りが過ぎ、新兵衛は昼前から武市の宿所を訪ねて国事に関する互いの意見を交わした。武市は丁寧に多くのことを教えてくれ、新兵衛は目から鱗が落ちるような思いで世情をあらためて理解した。武市から提案があって、この日、新兵衛は武市と義兄弟の約を結んだ。新兵衛に否も応もなく大感激で盃を受けた。
新兵衛はよほど嬉しかったか、この日夕刻に再び武市を訪ね、日暮れまで飽きずに語り合った。多くは武市が話し、新兵衛は目を輝かせてひたすら聞いた。
武市は、京の地に一藩を挙げて勤王の旗を立てられたのは、吉田東洋を斬ったからだと語った。これが土佐藩の尊王攘夷の転機になったという。闇討ちという非常の手段をとったことは自らの英断だったと誇る気持ちが武市の口ぶりににじんでいた。
新兵衛には、武市らの働きが井伊大老を暗殺した水戸浪士の働きと遜色のないように思えた。新兵衛は、数年前、井伊大老暗殺に呼応して薩摩から義兵を挙げる計画が突然、中止されたことを思い出しながら、武市の話に聞き惚れた。暗殺を政治手法に取り入れる領袖と、その働きを支えんと決めた弟分の血盟だった。新兵衛には二つ目の腐れ縁となった。
新兵衛が武市の弟分になって二日後、新兵衛は本間精一郎を殺(や)れと依頼を受けた。早速、声がかかったというわけだった。本間は越後寺泊で醸造元を営む豪商の息子で、武士になりたい一心で、有名な幕臣川路聖謨に奉公したこともあった。今ではいっぱしの尊王攘夷志士ということに成りあがり、それなりに振舞っているが、実は幕府の間者(いぬ)ではないか、と疑う向きがあった。
実力がどこまであるか分らないが、りゅうとした美服に堂々たる風采で大言壮語を吐くため、それなりに志士たちの名声を勝ち得ていた。容貌偉大、頗(すこぶ)る風采よく、常に雄弁をふるい、座客を圧倒する勢いあり、とまで言うものさえいた。本間は、薩摩藩士にむかって島田左近を殺ったのはおれだと虚言を吐いて、信用を失ったことがあった。どうやら朝廷と薩摩、土佐両藩の離間を工作しているとの噂も嘘ではないのかもしれなかった。
閏八月二十日夜分、大雨の降りしきる中、先斗町(ぽんとちょう)の狭い露地が木屋町通りに出るあたり、高瀬川河畔の柳並木の下で、新兵衛が土佐藩の岡田以蔵らと共に待ち伏せていた。本間が先斗町で芸妓をあげたのち、祇園の一力に向うところを襲う手筈になっていた。岡田が不覚をとったあと、新兵衛が紫電一閃、凄まじい斬撃で本間の肩口を切下げた。本間、即死。首を獲(と)って、遺体は高瀬川に蹴り入れ、首は青竹につるして四条河原にさらした。手慣れたものだった。
閏八月二十二日夜分、九条家家士、宇郷玄蕃が在宅中を襲われ梟首された。新兵衛も加わったように世間では取沙汰された。
一ヶ月がたった九月二十三日、危険を感じた京都町奉行与力、渡辺金三郎らが避難のため江戸に下る途中、初日の宿泊先、石部宿で襲われた。薩摩、土佐、長州の刺客が二十人を超えて集まり、京都三条大橋から九里十三町(三十七キロメートル)を駆け通して凶行に及んだ。集まった刺客の中に新兵衛も寺島忠三郎もいた。
三人の与力の首は京都の粟田口刑場付近に晒された。七月の島田左近以来、二十日あたりになると、凄惨な天誅が起こると京雀は言い交わしたものだった。
そして、この直後、新兵衛は見掛け上の密命を与えられ国許に帰された。人斬りとして有名になりすぎ、薩摩藩はほとぼりを冷ます必要を感じたためだった。
新兵衛は、国許に帰り、ようやく森山新蔵の消息を聞いた。驚くべき話だった。新蔵は、久光の怒りを買った西郷吉之助とともに国許に送還され、薩摩山川港で船中に軟禁された。
この待命中、森山は息子の新五左衛門が寺田屋事件の翌日、主命によって、重傷を負った身で切腹して果てたと聞いた。新蔵は腹を切って息子を追ったという。
森山新蔵は新兵衛が師とも父とも仰いだ恩人だった。その父子の惨烈な運命に、新兵衛は泣くのをこらえきれなかった。森山新蔵は成り上がった武士だから、侍社会の人間関係で悩み、常に侍らしく正々堂々たる振舞いを心掛けていた。その気持ちは息子の新五左衛門にも伝わり、侍にもまして侍らしく振舞った父子の心は新兵衛に痛いほどよくわかった。
新蔵にしても、万が一、元の身分のために侍の身分をけがす処断が下ることを怖れ、息子のように侍にふさわしい死を選んだのかもしれなかった。新兵衛は、このときから人の価値は死に様で決まると思うようになった。
新兵衛が再び京都に上ってきたのは、翌年、文久三年(一八六三)三月の下旬だった。今度は、東洞院蛸薬師下ルの小森典薬頭の持ち家を薩摩藩が買い取り、藩士が住まっていた許に寄宿した。
新兵衛は、近く高知に帰る武市とわずかな期間、再会できた。四月四日、武市の京都を発ったこの日が義兄弟最期の別れとなった。京都で新兵衛はもう暗殺に手を染めることはなかったが、かつての人斬りの威名が新兵衛を放っておかなかった。
*
寺島は、準備にかかった。準備と言っても今までの天誅とはわけが違う。昨日までの同志を殺(や)る。しかも公家である。これまで公家は、天誅に遭ったためしがなかった。
寺島の狙ったのは、攘夷急進派の領袖の一人、攘夷が危険であることを悟ったと騒ぎ、急に腰が引け始めた男である。攘夷をやり遂げる自信を己(おのれ)が失っただけではない。他の公家に説いて、攘夷実行は危ないと言ってまわっているような男だった。
五月十日をもって攘夷を行なえと幕府に公布させておきながら、攘夷決行を考え直したらどうかと発言したと聞いた。嫌がる幕府を相手に、あらゆる手を使って圧力をかけた攘夷激派の不断の努力を踏みにじる行為だった。
寺島が、いまさら何を言うかと腹に据えかねていたころ、国許から藩邸に書状がとどいた。十日深夜、予定通り外国船を砲撃したところ、当の外国船はほうほうの体で逃げて行ったと報せてきた。まずは戦果が上がったようだった。
天誅は、怨みを晴らすための人殺しではない。誤った方向に導く者を排除し、誤った考えに導かれる者たちに警告を発する力強い政治行動であるはずだ。寺島は攘夷実行の邪魔になる幾人かを頭に浮かべ、数日間で天誅の計画を練り上げた。
薩摩藩は久光の主導のもとに公武一和の道を突き進み、幕府中心の政体を目指す態度を捨て去っていない。それでいて、生麦村で異人を斬って攘夷に先鞭を付けたと誉めそやされた。それもこれも、近衛と親戚で、中川宮の後ろ盾になって、朝廷での覚えもめでたいためであろう。
さらに、島津久光を京都守護職に任命したいとの叡慮もあるやに聞く。会津藩がこの職についているのとは意味が違う。あってはならないことだった。これが実現したら、長州藩はあっという間に薩摩藩に抜き去られてしまう。これからの政局では、必ず長州藩の強敵になるだろう。それこそが攘夷実行の第一の邪魔である。鉄槌を下すなら早いに越したことはない。
薩摩藩が引いていけば、近衛忠熙や中川宮などは後ろ盾を失ったも同然、すぐにおとなしくなる。特に中川宮の帝との親密さは実に煩わしいから、失脚に追いやりたかった。ここまで考えを進め、寺島は、姉小路を排除し、その罪を薩摩藩に着せ、できるだけ中川宮を無力化すると目標を定め、陰謀を必死に練った。
寺島の謀略の重要な点は、姉小路の暗殺を薩摩藩士の仕業らしく見せる一方で、寺島の関与を絶対に隠し通すことだった。そのためには、当初、殺(や)ったと疑われて、後から実は犯人ではなかったという人物を陽動に配置しておくことが効果的だと考えた。その筋書きなら、薩摩にいっそう疑いが強まる。
さらに、長州藩の仲間に助けを借りることを自ら固く禁じた。一人でできない仕事は、藩外の人間で姉小路に怨みをいだく動機ある人間を誘い入れ、事件の筋書きを知らせずに分担させることにした。こうすれば長州藩の関与はなくなり、藩外協力者は、あとで事件を知って、ことを洩らせば己(おのれ)の命が危うくなることに気付き、震え上がるだろう。藩の仲間を使うより、よほど秘密が保たれる。
姉小路を怨み、世間の誰もが知るものと言えば、まずは岩倉具視と大原重徳である。二人は三条、姉小路らに蟄居を余儀なくされた。ついで思い浮かぶのは西四辻公業(きんなり)と滋野井公寿(きんとし)である。国事参政に上書し即座に不採用とされた怨みがある。この四人が思い浮かんだが、寺島が、岩倉と大原はとても己の手に負えないと諦めたのは当然だった。
寺島は、学習院で何度か顔を合わせたことがあるだけの間柄だったが、西四辻公業と滋野井公寿に会いたい旨書状をやった。寺島の名は長州の攘夷激派として有名だったから、二人はすぐに密談に応じた。
寺島は、姉小路に対する二人の怨みを丁寧に聞いてやり、十分に心を獲(と)った。二人は、寺島がそれとなく水を向けると、姉小路への反感を際限なくしゃべり散らした。寺島は、それに相槌を打つだけで、すっかり仲間扱いされたようだった。
寺島は、頃を見計らいながら、二人に、ある日を期して京都を離れ数日して帰ってきてくれるよう持ちかけた。秘計の肝心な部分は明かさなかったが、姉小路に一泡吹かせることだと聞き、両人は喜んで協力を約束した。
さらに、藤堂(とうどう)藩士三人を紹介するから、朝廷の話などを聞かせ手なずけるよう頼んだ。田舎侍を勤王熱にかからせることなど、容易なことである。
最後に寺島は、諸々の費用という名目で両人に相当の金子(きんす)を置いた。金を惜しまない態度が特に重要であることを寺島はこれまでの経験でよくわきまえていた。特に、この手の公家ではそうだった。
寺島は藤堂家中の斎田(さいた)何某ら三人に滋野井と西四辻の二人を紹介してやった。三人は大いに喜び、出会えてよかったと、何度も寺島に感謝した。三人は、藩主の藤堂高猷(たかゆき)の京都警衛の一行とは別に、勤王に憧れ京都に出てきたもののようだった。伝手(つて)はなく、何をしたら勤王になれるのか見当もつきかねる様子だった。
寺島の目から見ると、こうした輩はすぐそれと知れた。紹介もなしに藩邸に訪ねてきたとき、追い払わず丁寧に応対してやったことが、役に立った。
寺島は、滋野井と西四辻の二人に頼んで藤堂藩士三人を一、二回会わせた。三人が勤王熱にかぶれたと思われるころ、今度は、三人に田中新兵衛を紹介してやった。田中新兵衛の名前もその筋では有名だから、三人の藤堂藩士は今度も大いに喜んだ。
新兵衛は、志士たるもの、同志と会うことを億劫がってはいけないとでも思ったのだろう、我が威名を慕う志士との面談を嫌った風もなかった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」六節「殺意の交錯」(無料公開版)