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十 杜鵑の啼き音 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを読む 略年表を読む

 

 小笠原は、あれこれ京都の情勢を集めさせた。姉小路卿暗殺事件の調べで、賊の凶刃が薩摩藩士の佩刀と認定され、薩摩藩がこの暗殺に関ったと沙汰されたという。その結果、乾(いぬい)門の警衛を免じられたらしい。そうは言うが、薩摩藩が関与したとは全く信じられず、政治状況から推しはかって、長州系の攘夷論者の仕業と睨(にら)んでいた。

 暗殺事件の詳細はよくわからなかったが、小笠原の第一勘では、薩摩藩はまんまと濡れ衣を着せられたのだろうと思った。先々月三月二十五日、京都を去るまでこの地の情報を細大洩らさず熟知していたから、二ヶ月ばかり不在にしても、攘夷急進派志士らの考えそうなことは過(あやま)たず推測できると自信があった。

 姉小路も三条も奴らと手を組んだものの、かえって脅(おど)され、怯(おび)えているらしいと、かつての見聞を思い返した。京都は、攘夷急進派の勢いが伸張し、少しの異論も許さないぎりぎりの状況となっているのだろうと容易に想像できた。

 天誅が下ると脅かされれば、朝廷で異論を唱えようもない。ついには一方的に外国船を砲撃するような話がまかり通るようになった。長州藩の先鋭化した激派なら、昨日までの盟友であっても、姉小路が攘夷の危うさを唱え始めれば暗殺くらい躊躇なくやるだろうと思った。

 政治環境を改めなければ、この国は狂気によって膨(ふく)らむだけふくらんで、終(しま)いに破裂する。狂気に酔ってこちらから異国に戦を仕掛け、異国に反撃され亡国の道をひた走ることになる。姉小路は勝に西洋艦の上で説かれて、気付いたに違いない。

 この狂気を押し止めるのは、もはや将軍と幕府の権威ではない。それはここ数年で失われてしまった。帝の権威は弄(もてあそ)ばれるに過ぎず、偽勅が横行して、なにが本当の叡慮かわからぬことになっている。今や兵諫だけが狂気を抑える力を持つ。

 京都にいる幕閣に、兵諫を実行できるはずがなかった。

 ――できるなら、京都駐在の会津兵だけでやった筈なのじゃ

 板倉、水野は兵諫の道を捨てたと見るよりほかなかった。堂々と理を尽くして責任ある国の決定をくだせなくなっている。そんな姿は、対英償金支払いの審議の場で、いやというほど見てきた。将軍の江戸帰還でさえ、帝の反対の前にままならぬと聞く。

 こたび兵諫を試みるにあたり、小笠原は将軍、在京幕閣、京都守護職と打合わせる機会をもたず、独断でことを運ぶことをやむなしと覚悟した。相談すれば反対を受けることは間違いなかった。

 小笠原は、淀で全軍に宿営を命じたあと、本営を奥正寺においた。そこから目付の土屋民部と向山栄五郎を将軍への使者に立てた。幕府の慣例では、目付が将軍に面謁して上言することを願うとき、閣老でさえこれを止めることはできない。

 二人の目付は直ちに騎乗し、京都をめざして疾駆していった。必ず両人は、将軍家茂に小笠原の意図を伝えるはずだった。

 

                            *

 

 文久三年(一八六三)六月二日、京都守護職松平容保が召しに応じて参内した。内裏は公家らが右往左往し慌ただしい空気に満ちていた。武家伝奏らがしどろもどろの体(てい)で容保に勅旨を伝えた。

 小笠原図書頭が意を決してにわかに蒸気船で大坂に至り、兵を率いて上京するとの噂を聞くが、急ぎ会津の兵を発し、これを食い止めるようにとの下命だった。ひどく慌てた様子で、上ずった声は見苦しかった。

「はて、いかなる事やら腑に落ちかねまするが……」

「早よ兵を出して、小笠原の兵を防げというておじゃる」

「そもそも、図書(ずしょ)殿が意を決するとは、いかなることにござりますか」

「それは、死を決して京に攻め入るということや」

「これは、これは、とんだことを」

 容保は、ようやく伝奏衆の慌てふためく意味をわかった風を装い、敢えて大きく笑ってみせた。

「あはは。さようなことがあるはずもございませぬ」

「むっ。なにゆえ、そないに軽く考えるんや」

「図書頭を止めるには一人の使いで事足り申す。多勢の兵を動かすは無用にござる。図書頭殿が朝命を拒むはずもござらぬゆえ」

 伝奏衆は唖然としたが、不承不承の体で下がっていった。容保は公家に向かって、何も自分ではできぬくせに、と思わぬよう普段から自戒している。容保は早速、水野、板倉に連絡をとった。

 

 三日、京都では、将軍家茂が朝廷の召しによって老中、若年寄を伴い参内したところ、将軍の江戸帰還が突然に許された。これまで幕府が朝廷に幾度も願い、ついに許しがおりなかったのに唐突のことだった。

 それだけではない。将軍は天顔を拝して御剣と御衣を賜り、朝廷では将軍を急に厚遇しはじめたかのようだった。朝廷が小笠原の率いる兵力を不気味に感じていることは確かなようだった。

 朝廷を壟断する攘夷激派の公家は、将軍を人質のように不当に京都に留め置き、難題を吹っ掛けて幕府に圧力をかけ、将軍の権威を突き崩すやり口を続けてきた。それが小笠原の率兵上京を聞いて震え上がり、小笠原が何も言わないうちから、攘夷激派が方針をあらためたに違いなかった。小笠原がこれを知れば、兵諫の手応えをいよいよ感じるはずだった。

 在京の老中はこれまで、会津兵と将軍警固の幕兵を動かし攘夷激派を京都から一掃してしまうことを考えなかったわけではない。ただ議論のたびに、やるべからずという結論に落ち着いた。朝廷内に、幕府の側に立って取りまとめてくれる公卿がいなければ、成功は覚束ない。

 特に容保は、公武合体を一途に目指す以上、兵を動かすことを想定せず、兵は治安の維持のためだけに用いる原則を貫いた。会津藩は、足利将軍木像梟首事件のことで、兵を動かしたとは考えていなかった。

 それどころではない。誰も口にこそ出さないが、将軍と在京の両老中、京都守護職の四人のうち一人でも襲撃されれば、討たれないまでも、襲われたというだけで幕府が政治的に大きな打撃をこうむることは間違いないと思っていた。

 あり得ない事では全くない。現に、禁裏から下がる途上に将軍を襲うという噂が信頼すべき筋から伝えられ、会津藩兵が厳重な配備についたことさえあった。

 こうした攘夷派の反撃を避けたかった。幕府は、井伊や安藤の前例を恐れた。これまで攘夷激派に煮え湯を飲まされる思いをしながらも、もはや、武力でことを決するやりかたはとれなかった。百歩譲って兵を動かすにしても、水野と板倉の両老中は、十分に朝廷工作を行なってからでなければならないと固く心を決めていた。

 両老中は、勝が小笠原の意を受け姉小路にはたらきかけて、ことを運んだ経緯をうすうす知っていた。姉小路が摂海視察から戻った直後から勝の話を再び聞きたがったことを聞いていた。姉小路が攘夷一辺倒の考えを少しずつ改め始めた気配を報告されていた。ただ、小笠原が新陸軍の精鋭を引き連れ上京する計画において、姉小路に朝廷工作を期待したことばかりは想像もしていなかった。

 朝廷から許しがおり、晴れて将軍が江戸に帰れるだけでも、小笠原の此度(こたび)の働きの成果ではないかと在京の幕僚は皆、内心、喜ぶ気持ちだった。ただ小笠原がそれ以上のことに踏み込むのは、少なくとも現時点ではまずいと思った。幕閣会議で、今はここまでと将軍が申し渡し、小笠原の計画を中止した。あとは、小笠原を説得する仕事が残っていた。

 六月四日、将軍は早速、老中水野忠精を使者に立て、淀に陣を構える小笠原の許へ遣わした。従者には尾張藩家老成瀬(なるせ)隼人正(はやとのしょう)、会津藩士小野権之丞、秋月悌次郎を添え、上京の理由を尋ねさせた。

 秋月は、水戸藩に下った戊午の密勅を幕府に返納するよう水戸藩を説得した者だったと、口には出さないが気付いた幕僚も多かった。

 老中水野忠精は、小笠原が兵を引連れ入京することのなきよう朝廷から厳命を受けていた。水野一行が淀に説得にきても小笠原は上京を諦めなかった。小笠原の属僚にとって、京都から攘夷激派を一掃するため精鋭を率いてきたのであり、このまま空しく兵を引くとは容易に承知しなかった。水野らは、小笠原とその幕僚と終夜、激論を交わした末、ついに小笠原軍を説得することができず、五日朝、空しく京都に引上げていった。

 政治的、軍事的に、京都に入るのは暗くなってからがよいと考え、小笠原は、この日、七つ半(午後五時)に淀をたって京都に進発すると触れを出した。兵の士気はいよいよ騰(あ)がった。

 小笠原軍は奥正寺に本営をおき進発の時刻を待っていた。昼すぎ、京都から使番の能勢金之丞が到着した。能勢のもたらした書状は小笠原図書頭宛の将軍親筆だった。将軍は小笠原に宛てて、この挙を嬉しく思うと懇(ねんご)ろに宥(なだ)めたうえで、入京を見合わせるよう言って寄越した。

 ――此度の挙は、余の為を思ってくれてのことと悦んでいる。現に江戸に帰還する許しが出た。ただ図書頭に不為の事が出来(しゅったい)しては宜しくないから、御所へ申上げ呼寄せる段取りをつけるまでは入京を見合わせてほしい

 

 小笠原軍が入京すれば、幕府は、朝廷に名を借りた攘夷激派公卿から強い譴責を受け、それをはね除ける朝廷工作がなされていないために受諾するしかなくなり、おそらく小笠原に切腹を命じざるを得なくなることを将軍が恐れているという。

 小笠原の命だけではない、政治的に幕府がまた一段と苦境におちいる懸念もあるという。朝廷内に協力者を持たない弱みだった。

 小笠原に己の命を惜しむ気持ちはないが、将軍を輔佐する任を安易に投げ出すことは潔しとしなかった。書状を手に持ったまま遠くを見つめ、長いこと沈思した。そして、将軍の意図を慮(おもんぱか)って、ついにことが熄(や)んだと従容として受け入れた。

 姉小路卿亡き今、ことを荒立てて攘夷激派公卿や志士らを京都から追っても、政治的に好転するとは限らない。いや、今は、その可能性は低いのかもしれなかった。朝廷に幕府の代弁者がいなければ、結局、幕府がしてやられてしまうだろうと予想できる機微を小笠原はわきまえている。多くの者の報告や将軍の御親筆から京都情勢がはっきりわかった。将軍が江戸に帰れるだけでひとまず、満足すべきかもしれないと納得した。

 よく考えれば大きな成果ではないか。水野癡雲らを説得するのは骨が折れるだろうが、これを終えたら、あとは、朝廷から譴責を受ける仕事が唯一、己(おのれ)に残ることを考えた。切腹を申し付けられれば、それはそれである。

 己のなすべきをなし、弓を引いて機が満ちれば矢は自(おの)ずと的をめざして解き放たれる。小笠原は己の人生を締めくくるときがきたのかもしれないと心を鎮めた。

 小笠原は、水野はじめ、主だった奉行を集めて評定をもった。小笠原は将軍からの親筆を皆に読んで聞かせ、己が心情を率直に語った。なんの衒いも言い訳めいた言辞もなく、己の見通しの甘さを淡々と申し述べた。

 されば、将軍の帰還が許されたことをよしとして軍を退けば、機が熟してまた別の機会に委ねることができようと静かに説いた。

 小笠原の言葉に、皆が平伏したのを見た。評定は多く意見がでて穏やかとは言えなかったが、ともかくも終わった。

 小笠原は兵諫断行のため、姉小路卿亡きあとの対策を練ってきたが、これを放擲(ほうてき)した今、卿を人として悼(いた)んでやらなければならないと思った。

 

                               *

 

 小笠原は一人になって、卿の浅黒い精悍な風貌を思い浮かべた。あの口から雄弁で律動的な弁舌が始まると、おかしな理窟だと思う間もなく、その話術に引き込まれ反論できない気分になったことを思い起こした。雄弁と言ってもいい、煽動と言ってもいい。巧みな話術だった。

 それでいて、思考は柔軟、理を受入れる度量は立派に備わっていた。勝の説明と西洋艦視察は卿に新しい目を開いたはずだった。自身が手練(てだれ)を使って天誅に暗躍したと聞くが、今度ばかりは天誅の刃がおそらくは盟友から突きつけられ横死することになったに違いない。卿にとって、新しい目を開かれ新しいものが見え始めたころだったであろう。

「新しい目で見たことを伝えたき思いがあったはず」

 小笠原は姉小路卿の心残りを思いやった。卿は、咽喉を破らんばかりの勢いで攘夷を高々と説き終わり、新しい知見を得て今度は全く別のことを唱導するはずだった。名残を惜しみ、無念を懐いて、凶刃を前についに逝(ゆ)いた。深き洞察なければ攘夷は危ういと、唯それだけを言いたかった。そのために卿は死ななければならなかった。姉小路公知卿の口に出さざる遺言といってもよい。

「わしと勝が謀(はかりごと)を巡らせ、卿を順動丸に乗せたのじゃ。目を醒(さ)ますには最適の場所であったろう。それが命取りよ」

 小笠原は小さく呟き、姉小路卿が死ななければならなった理由の一半は己にあると断じた。

 ここ淀の奥正寺天空から、しきりに杜鵑(ほととぎす)の甲高いさえずりが聞こえてきた。杜鵑は夜も啼く。昨夜、三日月の冴えた光の中、杜鵑が沈黙(しじま)に啼(な)いたことを想った。

「杜鵑と淀に相応しい七言詩があるのじゃ」

小笠原は、姉小路を悼(いた)む心にまかせて、やや放恣に詩想を馳せた。

 

    八幡、山崎、春暮れなんと欲す

    杜鵑、血を啼いて落花流る

    一聲月有り、一聲は水

    聲裏、離人、半夜の舟

 

 先ごろ行幸のあった石清水(いわしみず)八幡宮あたり、さらには、その昔、羽柴秀吉が天下分け目を争った山崎、天王山あたりは、ここ淀と指呼の間である。春の日の暮れなずむとき、杜鵑(ほととぎす)が血を吐くごとくに啼(な)いて、淀の川面(かわも)に桜のはなびらが流れ去る詩境は、姉小路卿を悼む小笠原の心情にしんしんと響いた。

 夜がとっぷりと更(ふ)け、杜鵑の一声は煌々と照る月から聞こえる。また一声は水面(みなも)からとどく。啼き声の聞こえ渡るあたり、旅中、真夜中の舟にあると詠ずるのは、作者が京に使いした帰途の哀歓か。おそらく使命は思うにまかせなかったのだ。かつて、横井小楠が座談に聞かせてくれた郷里の友の作という古詩を小笠原は低く嘯(うそぶ)いた。

 帰るがよい、帰るに越したことはない。血を吐き甲高く啼く不如帰(ほととぎす)はまさに、姉小路卿が逝ったあとの己の心境だった。千兵を擁し国の誤りなからんことを期しながら、ついに容れられず、志を諦めざるをえなかった。帰るに如(し)くはなく、涙をのんで兵を引くことを決断した。

 よかろう、この策は機が熟していなかったかもしれない。いや、熟した策から重要な一人が不意に欠けてしまって、満たされざる策になってしまった。しかし、遠からざる将来、この企てを異なる形で実現する者が必ず出るだろう。狂気に膨らんで破裂する道からこの国を救い出すよう、その者に托すしかあるまいと思った。

 一の矢は放たれなかった。二の矢こそは的を射抜くだろう。小笠原はせいせいとした心持で多くの思いを断ち斬った。淀の西空にかかる三日月から不如帰(ほととぎす)の声が不断に響いていた。

 




佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十節「杜鵑の啼き音」(無料公開版)









 

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 西暦一八六三年六月二十五日(文久三年五月十日)、米蒸気商船ペンブローク二百噸が長崎経由で上海に向かうため、馬関海峡(ファン・デル・カペレン)を通航しようとしていた。当夜、風雨激しく波高く、潮流は逆行だったため、ペンブロークは九州北岸の田ノ浦沖に碇泊し天候の回復を待っていた。

 そこに静かに近づいてきた日本の三檣木造帆走船によって、何の警告もなく突然に砲撃を受けた。さらに遅れて、もう一隻も加わって挟撃されるように砲撃を受け、索具が破壊された。ペンブロークは慌てて蒸気圧を一杯に上げ、逃走をはかり豊予海峡あたりで辛うじて日本の二艦を振り切った。

 ペンブロークは航海に支障なく直接、上海に向かった。被害がなくはなかったが、その程度のものだった。横浜には七月七日(文久三年五月二十二日)まで事件が伝わらなかったが、伝わってからは米国の対応は速かった。長州藩の無法な行動を咎めるため駐日公使が報復に出ることを決断した。

 西暦一八六三年七月二日(文久三年五月十七日)、駐日仏国公使館は、報知艦キンシャンを長崎に向けて横浜港を出航させた。幕府から通商貿易を条約通り維持する旨回答を受けたことを長崎在留の自国人に伝えるため公使館書記を長崎に派遣する船だった。

 七月七日(文久三年五月二十二日)夜、馬関海峡の手前に到着、明朝、海峡を通過すべく豊浦沖に碇泊して一夜を過ごした。朝が明けるや西航し海峡に入ろうというとき、長府城山の砲台から号砲が放たれた。朝の海に砲声が響き渡って、キンシャン号は何事かと驚きながらも西航を続けた。未だペンブロークの事件を知らず警戒の必要を感じていなかった。

 間もなく、次々と砲台から砲撃を受けはじめ、小弾が艦首を破って船中に落ち、巨弾が海中に落ちた。仏国書記官は長州に直接、抗議に及ぼうと、弾雨を冒して端艇を繰り出し士官とともに上陸を試みた。砲台から端艇めがけて連射され書記官は負傷し水夫四名は死亡した。砲撃を受けて本艦は蒸気機関を損傷し艦内に浸水する有様となった。

 書記官の乗った端艇を本艦に撤収し、舷側の大砲で反撃しながら馬関海峡を突破し、巌流島あたりまでなんとか逃げ延びた。長州の艦二隻が追跡してきたが、これを振り切り、昼夜、喞筒(ポンプ)で排水に努め、翌日、ほうほうの体で長崎に入港した。この惨状を長崎奉行に訴え、本格修理のため上海に去った。

長崎に碇泊中の蘭艦メデューサは、キンシャンの惨状を知っても、予定通り馬関海峡(ファン・デル・カペレン)を通過して横浜に向かう予定航路を変更しようとしなかった。三檣蒸気船は蘭東洋艦隊中、最も武装の充実した艦だという誇りもあった。

 七月十日(文久三年五月二十五日)、馬関西口の藍島沖に碇泊し、翌朝の出航を待った。明けて早朝、彦島と宮の原あたりから号砲が鳴って砲煙の上がるのが六連島の先に認められた。

 緊張を高めたものの、それ以後、何事も起こらなかったのをいいことにメデューサは東に航路をとって海峡に入っていった。門司周辺の海域を見ると、多くの和船が帆檣林立、普段通り平和な風景だった。

 潮流は五ノットの逆流、艦の機関出力は六ノット相当だったから、進航速度は遅々たるものだった。何も警戒せずにいたところ、前方の長州艦と見られる二隻から、突然、砲撃を受け、それを合図にしたかのように陸上の砲台からも砲撃を受けた。

 海峡は門司の辺りが最も狭く、七百碼(ヤード)(六百五十メートル)の水路に過ぎない。射程距離と航行速度からして、蘭船の不利は明らかだった。メデューサはたちまち幾か所もの損傷を受け、吃水線上にも弾痕の穴が開いた。長州艦の二隻とは二百ヤードほどの接近砲撃戦となり、ようやく豊予海峡方面に逃れた。

 長州藩主毛利慶親は五月十日、二十三日、二十六日の攘夷砲撃の成功を京都に報告した。長州には攘夷成功を誇る気分が濃厚だった。ただ、攘夷熱が長州に燃え盛る陰で、五月十二日、ジャーディン・マセソン商会のチェルスウィック号が長州侍五人を乗せて横浜を発ったことは厳に伏せていた。英国に留学生を送ったと知れれば、攘夷の金看板にひびがはいってしまう。

 

 西暦一八六三年七月十六日(文久三年六月一日)早朝、米艦ワイオミングは周防灘姫島南岸沖の碇泊点から航路を西北西にとった。昨晩は月がでなかったから漆黒の闇の中、安心して碇泊できた。

 目的海域は馬関海峡(ファン・デル・カペレン)、四十海里(七十四キロメートル)の航路は四時間を要する。真夏の太陽が水平線から昇り、海が穏やかに煌めく中、一路、過激攘夷の巣窟に針路を取った。

 ちょうど同じ頃、大坂天保山沖では幕兵千六百を乗せた幕府艦三隻が碇泊し、上陸のため夜になるのを静かに待っていた。この日、瀬戸内海の東と西で何か大きなことが起きそうだった。

 ワイオミングは亜米利加国の北軍海軍所属の三檣スクリュー戦闘スループで、排水量一四五七英噸、十一吋(インチ)ダルグレン砲、六十封度(ポンド)パロット砲、三十二封度(ポンド)半加農(セミカノン)砲、計六門を具えていた。横浜を出港したのが、七月十三日(文久三年五月二十八日)早朝。昨夕、豊予海峡を通過し姫島南岸沖に投錨するまで、丸三日の航海だった。

 艦長マクドゥガル海軍中佐は、出航時、駐日米国公使ロバート・プルインから重大な命令を受領した。長州に反撃し、二度と米国商船に理不尽な攻撃をしないよう思い知らせなければならない。長州藩の理不尽な行動が許されると思わせてはならず、痛烈な打撃を与えるのがワイオミングの任務だった。

 目的海域に到着し、午前九時、艦長マクドゥガルは総員戦闘配置を発令し厳重に警戒しながら航行を続けた。長府城山の岬角沖に至ると沿岸砲台から号砲が放たれ、日本側に発見されたことがわかった。

 気を引き締め、ファン・デル・カペレン海峡を目指し 沖合を南西方向に行くこと二海里弱で別の砲台から新たな砲撃を受けた。さらに一海里も行かないうち、御裳川(みもすそかわ)の河口あたりから至近の砲撃を受けた。この辺りが海峡の最狭部である。

 マクドゥガルは覚悟を決めて少しも動じなかった。敢えて応射せず、ことさらに米国国旗をはためかせ南岸、九州寄りに海峡に入った。

 門司の岬角を回り込むと海峡内の町並、行き交う船舶、丘陵、砲台などが一気に視界に入ってきた。一海里先、砲台から号砲が放たれたらしく砲声と共に、森のなかから砲煙の上がるのが見えた。その先、岬の沖合には長州軍艦三隻の布列する様が遠望できた。

 マクドゥガルはその砲台が海面よりずいぶん高いと見て取り、砲台真下の海面に向かって艦を進めた。砲台直下、一定の範囲に入ると、相手は砲を下向きに照準しなければならず、それをやれば砲丸が砲口から転がり落ちてしまう。内懐に入れば高台の砲台からは砲撃されないことを咄嗟に判断した。

 相手も内懐に入り込まれる前に砲撃を始め、その一弾によって、ワイオミングは前檣、中檣の間の綱具を断たれた。日本の三檣大型木造軍艦からも砲撃されるに及んで、戦機が熟したと見て、丘上の砲台と軍艦に向けて応戦を開始した。

 マクドゥガルは、先方に見える船が甲板上に紫の幔幕を張り、旗幟(きし)を立てているため、これを旗艦と見て捕獲せんと進んだ。甲板上に多くの兵士がいることを見て捕獲を諦め、撃沈することにした。まずは丘上の砲台に激しい砲撃を加えて沈黙せしめ、残る三隻を相手に縦横に進み転進して砲撃を加え、時に舷舷相摩(あいま)す航跡を見せた。

 一時間余りの砲撃戦で、二隻を撃沈し、一隻を大破した。マクドゥガルは長州海軍をほぼ壊滅させたと思った。街並みから幾筋もの火煙が立ち上り、町を焼いたことを確認した。発射した砲弾は五十五弾、当方は二十余弾を浴びる激戦だった。任務を果たしたと判断して帰途につき、七月十九日(文久三年六月四日)横浜に帰投した。

 

 米国がワイオミングで反攻したように、仏国東洋艦隊水師提督ジョーレス少将は、自ら旗艦セラミスに座上し、僚艦タンクレードを率い横浜から馬関に来航してきた。 西暦一八六三年七月二十日(文久三年六月五日)朝まだき、二艦並航して海峡に向かうと、長府城山から号砲が上がって長州側が警戒態勢にはいったことがわかった。

 仏艦隊はいったん、田ノ浦沖に碇泊し、小倉藩領に上陸した。長州藩が故なく仏国艦に砲撃を加えたため、これを問罪するため来航し、戦う趣旨を説明した。小倉藩側の了解を取付け、南北から挟撃される怖れを除いた。

 ジョーレス提督は、水夫百八十人、陸戦隊七十人をもって、三個の上陸部隊を編成し、タンクレードに真正面の砲台下まで迫って砲撃戦を始めるよう命をくだした。タンクレードが砲台から三百四十碼(ヤード)(三百十メートル)の至近距離に至ると、砲台から二十四封度砲と思われる砲弾数弾が飛来し、前檣、後檣、右舷吃水線上に命中した。

 タンクレードはこれに屈せず、砲台に猛射を加え沈黙せしめた。兵が林の中に退くのを見たから、林にも激しく砲撃を加えた。上陸隊は端艇数艘に分乗し艇首の軽砲を撃ちながら上陸するや、三隊がそれぞれの目標に向かって前進した。途中、林間から射撃してくる敵兵を蹴散らし掃討した。

一隊は砲台を攻略し鉄釘をもって砲口を閉塞し、砲車を破壊し、火薬庫を開いて火薬弾丸を海中に投じた。もはや再度の砲撃は不可能だと確かめた。一隊は長州兵の屯営となった寺に入り、甲冑、刀鎗、訳書の類いを奪い、残りは寺ごと焼き尽した。最後の一隊は村里に向かい、敵兵を掃討して村に火を掛けた。

 敵の援兵隊列が海岸線沿いに西から進軍してきた。この部隊が壇ノ浦から御裳川(みもすそがわ)を通過するのを狙いすまし、仏艦は左舷砲で猛烈な砲撃を加えた。海峡沿岸を逃げまどい蜘蛛の子を散らすように敗走する長州兵の体たらくを確認した。これでは砲台守備兵と合流し援護するのは不可能と判断した。

 仏艦隊は悠々と上陸部隊を撤収し、活発だった長州砲台一基を潰し終えた。ジョーレス提督は命を下し、仏艦二隻を田ノ浦沖に戻した。長州側の海岸や森から立ち上る火烟が天に立ち昇っていた。穏やかな夏の海との奇妙な対比を見て、ジョーレスは今回の長州攻撃の意義を振り返った。

 ――これで長州の奴らも懲りたであろう。キンシャンが襲われたときは長州の軍艦三隻がいたというが、今日は姿をみせなかった

 ――四年前、副領事ジョゼ・ルーレイロの従僕が横浜の外国人居留地で何者かに殺(や)られた。清国人だったから我々の大きな損失というわけではないが、不穏きわまる事件だった

 ――三年前、江戸では三田済海寺においたフランス公使館の旗番人が襲われた。

 ――三年前、公使館がまだ誰も住んでいないのに火事が出た。放火されたに決まっている。

 ――何件もの事件で犯人は見つかっていないが、長州の奴らも一味なのではあるまいか。今回のことで、へたなことをやれば、どういう目に遭うか思い知っただろう

 上陸して陸戦でサムライをこっぴどく叩きのめしたことが、大きな成果に数えられると思った。

 ――武勇を誇るサムライの鼻柱をへし折ってやったのだ。精神的な痛手になっただろう

 

                           *

 

 文久三年(一八六三)六月一日、久坂玄瑞が長州から入京してきた。それを耳にした三条は早速にも会って、馬関の攘夷砲撃の様子を聞きたかった。それだけでない、一応、暗殺に遭った姉小路の最期(さいご)の様子を久坂に伝えてやらねばなるまいと思った。

 なんと言っても、当日の夜遅く一緒に内裏の宜秋門を退出したのだから、最期に姉小路の顔を見たのは三条だった。かつての盟友として、姉小路の内裏における最期の振舞を久坂も知りたがるだろうと思った。ただ、寺島忠三郎の名は一切出すまいと考えていた。へたなことを言えば、己にとって命取りになりかねないと嫌な予感があった。

 久坂が三条邸にやって来ると、挨拶を交わしたあと二人して北を向き、姉小路邸の方に向かって黙祷を捧げた。三条は、姉小路の話をし始めたが、久坂があまりに興味なさそうな様子なので早々に切り上げ、話題を馬関の攘夷砲撃の件に転じた。

 久坂の話では、五月一日夜間、庚申丸、癸亥丸の二隻で窃(ひそ)かに米船に近づいて砲撃し、米船は逃げたということだった。五月二十三日、二十六日には前田台場、壇ノ浦台場、亀山台場などから砲撃し、仏、蘭の異国船はほうほうの体で逃げ去ったという。まずはめでたいということで、久坂は三条邸を辞去していった。

 六月三日、久坂は桂小五郎と会った場で、外国船を砲撃した時、隣藩の小倉小笠原家は傍観するのみで、一切、応援することがなかったと語った。小倉藩は親藩で幕府寄りであるから、こうした態度を取るのだろうが、勅許に反する行為は許しがたいと力を込めて小倉藩を糾弾した。

 小倉藩の態度がそのまま看過されれば、他の藩も攘夷砲撃に関して拱手傍観の態度をとり、ひいては大きな犠牲を払って攘夷砲撃に邁進する長州藩が、一人先行して孤立するきっかけになりかねないと話した。桂はこの話を深刻に受け取ったようで、久坂に善処を約束した。

 久坂は、帰国後、小倉藩に申し入れて田ノ浦の地を借り受けここに砲台を築くつもりだと桂に語った。田ノ浦に砲台があれば壇ノ浦砲台や前田砲台と力を合わせ、門司沖を進む異国船を挟撃できることに目を付けたという。

 最後に、老中小笠原図書頭が大きな兵を率いて枚方まで上ってきていることが話題となった。京都を突くつもりなのか、朝廷では不安が募り、将軍の江戸帰還を呆気なく許してしまったという。

 この日の会談で、久坂はまずまず覇気に満ちていた。六月一日、米軍艦から長州軍艦二隻撃沈、一隻大破の大打撃を被ったことを二人ともまだ知らなかった。長州海軍が壊滅したと言ってよかった。

 六月七日、久坂は京都を出達し国許を目指した。藩主父子の内、一人が京都に来るよう命じた勅書を携えていた。帝が毛利に来てほしいと望むはずもなく、偽勅であることが久坂にもわかっていた。

 ――小笠原の率兵上京の騒ぎで、対抗上、三条らが手元に信頼のおける兵をほしがっちょるのじゃろ

 あとは、鼻先で冷笑した。

 

 五月二十五日、真木和泉が例年通り、楠公を祀って王政復古の信念を自ら励ました。この年、馬関の豪商白石正一郎の屋敷で祭祀を執り行ったのには訳があった。真木は文久二年(一八六二)四月の寺田屋事件と関わったと自藩から咎められ、七月、久留米藩内に幽囚の身となった。その報が伝わると、学習院に拠る攘夷派公家や長州激派の赦免運動が展開され、ついに文久三年(一八六三)二月、禁を解かれた。自由を回復し京都に上る途上、馬関に立ち寄って白石から手厚い歓迎を受けた。

 この機会に、久坂を始めとする長州攘夷派と互いに考えを確かめ合った。真木が明晰な言葉で倒幕の手立てを語ることによって、長州藩の基本方針が揺るぎない確固たるものになったように見え、会談は成功したと真木は満足だった。楠公の祝福があるに違いなかった。

 六月八日、真木和泉は京都に入った。すでに久坂は出達した後だった。真木は、京都でも倒幕策を在京攘夷派に説いて、これからの活動に齟齬のないよう確認するつもりだった。

 入京したその日に、早速、三条を始めとする攘夷派公家や桂小五郎、宮部鼎藏ら、在京の有志と集まりを持った。真木は、その場で、攘夷を目指して帝が親征に出る策と、近畿五か国を朝廷の直接所有とする策とを説いた。領国の兵馬の権を朝廷が握る事こそ手始めであると具体的な目標が見え、座の者は感服した眼差しで頷いた。

 この会議は、十七日、さらに議論を深めるため東山翠紅館で開かれ、大和行幸を実施する方策を検討した。真木は、帝が大和の神武陵と春日社に行幸し,親征の軍議を行い,伊勢神宮に参宮することを献策した。攘夷の祈願行幸の一行を状況次第で、途中いつでも倒幕軍に変えられるよう準備することになった。思想的な支柱と具体的な政略、軍略が提示され、攘夷討幕派によって活発な運動が展開されることは間違いなかった。

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十一節「馬関の潮路」(無料公開版)

 

十二 錦江湾砲撃戦 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 長州藩は、異国船へ砲撃する最中、小倉藩士が対岸の田ノ浦から傍観するだけで、長州を援護砲撃しなかったことが気に入らなかった。勅命を奉じる攘夷を蔑(ないがし)ろにし、長州藩の奮闘する姿をのうのうと見物していたと非難を始めた。

 早速、京都で、小倉藩が長州の砲撃攘夷を応援しなかったと非を鳴らし、罪状を朝廷に訴えた。朝議で、小倉藩を違勅の罪に問うと決まり、小倉藩では大騒ぎになった。泡を喰ったように小倉藩の主だった者が京都守護職を頼って苦境から救ってほしいと頼みにきた。

 容保は、小倉藩の言い分を丁寧に聴き、直ちに尾張の慶勝と謀って二条斉敬(なりゆき)卿を訪れた。幕府が攘夷の勅を奉じたと言っても、まだ戦端を開いたわけでもなく、諸藩が異国船を見つけ次第に砲撃していいはずがなく、したがって小倉藩が違勅にはあたらないと条理立てて話した。二条もそれで納得し、ことはひとまず納まった。小倉藩は拝まんばかりに容保に感謝した。

 この頃、三条たちは長州と呼応して、あれこれ手を打って、急激な攘夷実行に反対する帝(みかど)、中川宮、近衞父子、二条斉敬(なりゆき)、德大寺公純らに圧力をかけ始めた。これまで後ろ盾だった薩摩藩も姉小路暗殺事件の嫌疑がかけられ逼塞の状態になっている。

 三条らに屈するもならず、帝、中川宮をはじめ四卿は、それぞれ島津久光に書状を送り、上京してくれるよう頼みに頼んだ。三条たちに対抗する手立てを持たず、久光に頼るしかなかった。

 応えは一向にはかばかしくなかった。頼まれても久光が京都に上れない深刻な理由を一応わかってはいた。久光は、英国艦隊が鹿児島に来襲するかもしれない深刻な情況に置かれているらしいと聞いてはいたが、京都の情勢も看過できなかった。

 

                            *

 

 西暦一八六三年六月二十四日(文久三年五月九日)、駐日英国代理公使ジョン・ニールは生麦事件の賠償金を小笠原から受け取った。その上で小笠原から、英国が薩摩に対し直接行動をとらないようあらためて要望された。賠償金交渉の最中から、しばしば頼まれてきたことだった。

 幕府から受け取った十万ポンドは十分すぎる額で、英国としては、これ以上薩摩から受け取らなくともよかった。しかし、ニールは、薩摩を懲らしめるために高い支払いを課すことが将来、問題再発を抑止することになると考え、薩摩には、生麦事件の犯人処刑と二万五千ポンドの賠償金を要求するつもりでいた。

 幕府でさえ英国艦隊の武力を恐れ、賠償金をすごすご支払ったのだから、一領主に過ぎない薩摩侯を屈服させるのは容易であろうと踏んだ。多くの艦数で乗り込み十分に武力を見せつけてやればことは足りる。

 ――小笠原には悪いが、これが強国のやり方なのだ

 ニールは海軍中将オーガスタス・キューパーに、麾下の英国艦隊の協力を依頼した。

 西暦一八六三年八月六日午前十時(文久三年六月二十二日)旗艦ユーリアラスに率いられ、パール、コケット、アーガス、パーシュス、レイスホース、ハボックの七隻からなる艦隊が横浜港を出港した 。旗艦のユーリアラスは木造三檣のスクリューフリゲートで、三十五門の大砲を搭載し乗員五百四十名を擁する有力艦である。ここにニールも同乗した。

 

 薩摩側では、三月から、英国が幕府に申し入れてきた賠償の内容を知っていたから、英国艦隊の来襲に備えてきた。錦江湾には島津斉彬の整備した砲台が、その逝去後、父親の斉興によって破壊され廃止された。斉興にとって、こういうことをやるのが息子の許し難いところだった。意味ないことに金を投じ天保のころの貧乏藩に戻りたくはなかった。

 旧来の大砲を欧州製新式砲に一新しようと考えていた斉彬の計画は、父親から憎しみを籠めて破棄された。それでも、父親の死後、国父となった久光はなんとか砲台を復活させた。土台まで撤去されてはいなかったのが幸いした。

 砲台の構造と配置は斉彬の構想によるだけあって見事なものだった。斉彬は、城下の前の浜に北から順に、祇園ノ洲、新波止場(はとば)、弁天波止場、大門口(だいもんぐち)、天保山に砲台を築いた。桜島対岸には袴越(はかまこし)、洗出(あらいだし)に二砲台、湾内小島の烏島(からすじま) 、神ノ瀬(かんのせ)島、沖ノ小島に三砲台を築いて周辺を固めた。錦江湾口から城下まで烽火台(のろしだい)を数珠のように配し、異国船の侵入をいち早く報(しら)せる体制も復活させた。

 城下武士を六組に編成し、砲台を始めとする種々の受持ちを決め終わった。外城士(とじょうし)と称す郷士も一旦急を聞けば、領内各郷から駆けつけることにしてある。

 藩は英国が無理無体を言って砲撃を交わす事態にいたると腹を括(くく)った。町方の老人、女子供の避難場所を定め、寺社仏閣や主な建物はきちんと復元図を作成し、什器、建具、畳、欄間を撤去し安全に保管することにした。屋敷や町は灰燼に帰すと覚悟を決め、一戦に臨む心づもりを固めた。いつまでも楽観論にとらわれず、いざという時の覚悟を速やかに決められるのが薩摩の凄味だった。

 文久三年六月二十七日(一八六三年八月十一日)薩摩では、昼八つ(午後二時過ぎ)英国艦隊七隻を山川沖に認めるや直ちに警報の烽火(のろし)を発し、国中が即座に臨戦態勢に入った。英国艦隊はゆっくりと湾内を北上し、谷山郷の沖合二十町ほど、七ツ島岩の辺りに投錨した。錦江湾は岸から急に水深が深くなるから、岸の近くでないと錨が海底に届かない。すぐに谷山郷の村役人が船を漕ぎ寄せ、来意を問うた。夜も間近かった。

 翌二十八日(西暦八月十二日)六つ半(午前七時)艦隊は七ツ島岩付近の仮泊海域を出航し小艦を先頭に測深しながら北上した。神ノ瀬島と天保山砲台の間を通過し大門口砲台の正面、沖合十町の海に投錨した。ユーリアラスを中心に単縦陣を組んだ艦隊の威容は堂々と憎げに薩摩藩を恫喝していた。五ツ半(午前九時)の前だった。

 軍役奉行折田平八、軍賦役伊地知正治ら一行四人が旗艦を訪れ、ニールから国書を受け取り帰って来た。藩庁で読むと、国書はニールから薩摩侯松平修理大夫へ宛てて、、生麦村で英人を殺害した犯罪者を英国海軍将校の前で死刑に処し、二万五千ポンドを支払うよう言って寄越した。ひどく強圧的な論調だった。

 薩摩は家老から返書し、英国人に藩の他国人応接所にて談判したいので上陸するよう提案した。英艦隊に必要な薪水、野菜、卵、果物などを供するから藩の番船を送ろうとも言った。英人を陸地に誘い込んで捕らえる計略を伏せ、必要品を運び込む名目で剣術達者を英艦に送り込み、乗っ取る計画も窃かに練ってあった。

 子供騙しのような策に英人が引っかかるわけもなく、英艦に乗込んだ藩士は、百姓姿に化けたうろんな物腰によって即座に見破られ追い返された。薩摩の計略は当たらなかった。だめで元々である。

 翌二十九日、薩摩藩主島津忠義は国書をニールに届けさせた。その主旨は三点。

 一つ、犯人を死罪に処すのは当然なるも、逃走した犯人は未だに捕らえられずにいる。性急な催促で期日などを切られては、別の罪人を当該犯人と偽って足下の面前で斬首する手もないではないが、足下を欺(あざむ)くのは先祖の名誉を穢(けが)すからわが藩ではやらない。捕まえるまで待ってもらうしかない。

 一つ、幕府が外国政府と結んだ条約の中に、外国人が街道筋を往来してもよいという条項があるにしても、大名の往来を妨げてよいとする条項のある筈がない。仮に足下の国内のことを考えても見られよ。多数の従者を従えて往来する資格のある有力者の行列を制禁かまわず犯す者あれば、突き倒すか打ち殺すかしなければ、国王の進行すらできないであろう。

 一つ、被害者の妻子の養育料の件は、前条の議論決着の上、相談に及ぼう

 日付は六月二十九日、署名は家老川上但馬とあった。堂々たる書状だった。

 

 ニールは薩摩から書を受け取って、内心、薩摩の言い分に多少なりとも正論あるのを認めざるをえなかった。かつて、駐日英国公使オールコックが自国の横浜商人を「ヨーロッパの滓(かす)」と呼んだことをニールは知っている。英国商人が一旗あげようという野心と、思い上がりと、アジアへの蔑視がない交ぜになった下劣な手合いであることをニール自身、見聞きしている。

 そうした者どもが礼をわきまえず、無礼にも薩摩侯の行列に騎乗で乗りかけたために生麦事件が起こったのだと言いうることを心の底ではわかっていた。

 ――薩摩の言い分にも、一理ある

 そうではあるが、そんなことはおくびにも出してはならなかった。

 ――理屈ではない、力なのだ。世界を動かしているのは……

 薩摩は怯えることなく正論を吐き、英国を嘲弄する気配さえ示した。幕府の交渉態度とは随分違うと思った。

 たっぷりと英国艦隊七隻の脅威を見せつければ、相手は折れてくるに違いないとニールは疑いもしない。幕府の卑屈にも似た態度はこの国の対外交渉の先例と考えていいだろう。であれば薩摩と戦になる筈はなかった。幕府でさえ英国艦隊に歯向かってはこなかった。列島の南端に位置する一領国の薩摩に、我が艦隊に立向かう覚悟があるのかと首を捻った。

 ニールは、戦端を開き薩摩の砲台を破壊してやるべきか、談判をもって交渉に応じてやるべきか、丸一日、考え抜いた。薩摩を焦らす意味もあった。

 翌日は八月十四日(和暦七月一日)。朝から東風が強く浪が高かった。気圧計は降下し続けていた。風浪が立って荒れ模様の海を薩摩のサムライ達が小舟でやってきたが、ニールはこれを厳(きび)しく追い返した。

 昼を過ぎ夕方になるにつれ、風はいよいよ吹きまさり暴風雨の襲来は必至だと思われた。ニールは暴風雨の中、行動するのは我が方の不利かと一瞬思ったが、たかが薩摩相手の威嚇行動に不利も何もあるまいと思い返し、キューパーに強圧手段をとるよう頼んだ。キューパーは艦隊に信号をもって、明日から出動すると命令を下した。今晩は暴風雨に備えなければならない。

 翌日、強い風の吹き荒れるなか、キューパーは桜島西端近くに碇泊する五隻の艦に薩摩船三隻を拿捕するよう命じた。数日前の偵察でキューパーは、鹿児島北方海岸沿いに薩摩の汽船三隻が繋留してあるのを知った。ここから繋留地まで七海里の距離である。賠償金二万五千ポンドを取れない時の抵当に丁度いい。三十万ドルの価値はあろうとニールは考えた。

 拿捕にあたって薩摩側の乗組員は強く抗議したが、そのうち諦めた様子で収まり、さほど抵抗しなかった。乗組員を下船させ、英艦隊が午前十時、三汽船を曳航してもとの停泊海域に戻ってきた。

 あとは薩摩側を威嚇して従順にさせる仕事が残っていた。

 ――どの程度で音をあげるか、薩摩サムライの心根がわかるというものだ

 ニールとキューパーは、事ここに至っても、戦争になるとは思っていない。大切な蒸気船が拿捕されたのだ。薩摩は真摯な態度で談判を申し込んでくるに違いないと考えた。もう特に急ぐ必要はなく、明日には天候が回復するだろうと思われた。風雨に揺られ流されるのを防ぎながら、艦隊はこともなげに碇泊を続けた。二人は午餐の食卓に向かった。

 正午になった頃、城下の河口付近の砲台が突然、砲火を上げた。ニールとキューパーはフォークとナイフを持った手を止めて何事かと顔を見合わせ、一瞬の後に慌ててユーリアラスの甲板に駆け上った。

 風雨が激しく、あっという間にびっしょりと濡れたが、そんなことに構っておれなかった。次々と海岸から砲撃を受け、命中はしないものの、艦の周りに着弾し波の荒れる海面から次々と大きな水柱があがった。

僚艦のパールは反撃するため、舷側十門の大砲を薩摩の砲台に向けようと艦の向きを整えつつあった。

 ユーリアラスも同じ操艦に入ったその刹那、ニールとキューパーは同時に、重大なことに気付いた。弾薬庫の入口に大量の木箱が積み上がって、砲弾を取り出すにはまず木箱を移動しなければならない。

 小笠原からむしり取った賠償金十一万ポンド相当のメキシコ銀貨四十四万枚、重さにして十二トン弱の銀貨が木箱二百二十箱に収まって、ずしりと弾薬庫扉を塞いでいる。一箱で五百五十キログラムにもなる銀貨箱は、乗組員総出で移動しても二時間かかる。二人は沈黙のまま向き合って、ユーリアラスの、いや英国艦隊の置かれた状況を思い知った。

 ――まさかユーリアラスの砲撃が必要になろうとは……

 

 久光と忠義父子は城下郊外の千眼寺を本営として指揮を執っていた。自慢の汽船、青鷹丸、白鳳丸、天祐丸が重富沿岸で英艦隊に拿捕されたと報告を受け、久光は激怒した。 怒りは英国だけでなく、船長の松木弘安(後の寺島宗則)と五代才助(後の五代友厚)にも向けられた。数日前、二人の進言を退け、備砲も何もない丸腰の輸送船を戦闘海域付近に繋留し続けたのが悪かったと久光にもわかっていた。怒りは我が身にも向いていた。

 もはや忍耐もこれまでと薩摩側は誰しも思った。英国が先に敵対行動をとったと見做し、薩摩は迷うことなく開戰と決断した。本営から最寄りの砲台は天保山砂揚台場である。

 昨日来の嵐はいよいよ吹き募り、風は強く雨は激しい。その中を、赤褌一本を締めた伝令が両刀を差して本営から馬上疾駆していった。間もなく、天保山から轟々と砲声が響き初めた。七月二日午(うま)の刻だった。

 桜島袴腰砲台は、対岸の天保山から砲声が聞こえてくると、迷うことなく直ちに、眼下に碇泊する英艦一隻めがけ、次々と砲撃を浴びせた。このあたりは急に水深が深くなるから沖合遠くに投錨できない。碇泊できる海域は沿岸からごく近かった。薩摩の大砲の射程は八町(九百メートル)ほど。さほど長くはないが、眼下の英艦に辛うじて届きそうだった。

 薩摩の幾弾かは命中し、大慌てに慌てた英船は、錨鎖を断ち切ったらしく、錨を海に投棄し射程外に避難していくのが見えた。その後、回頭し砲台に向かって猛烈に砲撃してきた。半里ほどの海を越えた対岸の城下から砲声が激しく聞こえてきた。英艦隊と砲撃戦が始まった。

 

 キューパーは拿捕した薩摩船を保持できなくなったとみて、焼き沈めるようコケット、レイスホース、ハボックに信号旗で命令を送達した。その間、ユーリアラス艦内では、水兵が必死に重量物の移動作業に取り組んでいた。これが終わらなければ、旗艦の攻撃力は皆無に等しい。

 パールが只一艦で海岸砲台を砲撃する最中、ユーリアラスの舷側十六門は砲弾が弾薬庫から送られてくるのをひたすら待ち、沈黙を守っていた。その中には後装施条(ライフル)式のアームストロング砲があり、今日が英海軍で初めての実戦使用になるはずだった。

 薩摩船三隻に火をかけ、ハボックは残留し、二艦が艦隊に戻ってきた。この機をとらえ、英艦隊は、ユーライアスを先頭に、パール、コケット、アーガス、パーシュス、レイスホースの順に単縦陣を組んで、北の砲台から次々と砲撃して南航を始めた。

 激しい風浪が荒れ狂う中、四百から八百碼(ヤード)(四百から八百メートル弱)の距離で砲台と撃ち合った。最も北に位置する砲台を破壊し沈黙させた。風浪が激しく、陣形が乱れたためユーライアスは単艦となり、ようやく撃てるようになって砲撃を始め、やがて、かなり岸寄りに近づいていった。

 その時、薩摩の巨弾が甲板に命中、砲弾はごろごろ甲板を暴れ転がって炸裂した。その爆発によって、艦橋にいた艦長ジョスリン大佐と副長ウィルモット少佐を吹き飛ばした。キューパーもその場に居合わせたため、撃ち倒されて艦橋から墜落し左腕に負傷した。一命は取り止め、艦隊提督戦死の屈辱を祖国に負わせずに済んだ。

 さらに、艦上第三番砲至近に命中した砲弾は砲員ほとんどを吹き飛ばした。士官と兵の二人が重傷を負って生き延びたにすぎなかった。

 さらに一弾はボート台を破壊し、一弾は舷側甲鉄に命中した。ある海域に入ってから急に被弾が増えたようで、キューパーは離脱したかったが、風浪のため思うように操艦できず命中弾が増え続けた。

 パーシュスは対岸で砲撃が始まった直後、桜島から突然に砲撃を受けて慌てふためいた。艦長は、まさかあれほどの至近距離に砲台があろうとは思ってもいなかった。被弾したことは許せるとしても、離脱するため錨を投棄し、英国海軍の名誉を穢(けが)したことをひどく気に病んでいた。自分で自分が許せなかった。

 その気持ちを引き立てるように、艦隊に合流してから積極的に砲撃に加わった。特に城下の町並めがけ、恨みを込めて火箭筒を打込んだ。大火災の起きるのを見て内心でサツーマに悪態をつき、ざまぁみろと呟いた。激しい風雨のなか、煙が濛々と立ち昇り町は激しく燃えていた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十二節「錦江湾砲撃戦」(無料公開版)

4章11節「馬関の潮路」
四章十二節「錦江湾砲撃戦」
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