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五 天守聳ゆ 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 安永九年(一七八〇)四月六日、意次は相良に向けて江戸を出達した。相良城がようやく竣工し、検分する旅だった。三万七千石の大名行列に持鎗二本をすっくと立てた。明和六年、老中格に任命された折に許された老中本職の堂々たる格式だった。

 意次は道中、駕籠に揺られながら先月以来の懸案を振り返った。一橋民部卿治済(はるさだ)から、越前松平家の財政の窮状を何とか助けてやってほしいと書状で頼んできたのが発端だった。越前家は以前から幾度も財政の逼迫(ひっぱく)が幕臣の間で話題になっていた。

 当主は松平越前守重富。治済の実兄にあたり一橋家から養子にいった。重要な御家門であり、助けないわけにはいかなかった。今までも重富自身から支援を頼まれたことはあったが、今回に限って治済のねちっこい添え状がついてきた。

 家基が急逝し、幕府が新たな将軍世子を選ぶ最中(さなか)にあって、一橋家の豊千代が有力候補の一人であることは誰しも知っている。治済は、幕府の意向を知ろうと、このような依願状を書いて、幕府の対応を見ようとしているのかと意次は疑った。そんな小細工を好む男だとわかっていた。

 豊千代を世子に据える気があれば、治済に気兼ねして、この依願を断りはすまい、いやそれ以上に大きな支援がなされるに違いないと読んでいるのかもしれなかった。

 ――あの御仁は、そのくらいのことは考える。これからも用心を欠かしてはならぬ

 意次出達前に、特旨によって向後三年間、越前家に毎年一万両を下しおく旨、幕閣が大盤振る舞いを決定した。ことさらに特旨という語を用い、例外措置だと強調した。意次は複雑な思いを噛みしめ、駕籠の窓から見事な富士の嶺を望んで苦い笑いを洩らした。

 

 四月十三日、意次は竣工なった相良城三重櫓に登った。新しい木の香に満ちた高楼を急階段で最上階まで登り詰めると、雄大な景観が広がっていた。御前崎が右手に小さく突き出て見え、正面に遠州灘の大海原が遮(さえぎ)るものなく広がる。海と空の大観の中で、左に伊豆半島が遠くうっすらと陸影を棚引かせていた。

 伊豆の根元の辺り、艮(うしとら)(北東)の方角に遠く富士の峯が屹立し、なだらかにして広大な裾野を展(ひろ)げていた。意次は乾坤の雄大な力を感じ、近頃の天災を思うと、しばらく何も考えられないような気がして大景観を凝視し続けた。

 ようやく視界を転じると、眼下には大きく外堀とした萩間川が穏やかに南流し、その流れから本丸を守るように帯曲輪が廻っていた。その南端、三之丸の隅を構える一角が仙台河岸だった。外堀南側の町家側に大和明神社の木立がこんもりとたたずみ、その先の平田口から萩間川にかかる湊橋がよく見えた。掛けてから五年がたって城下には無くてはならぬ橋になった。

 橋の先、田植えが終わって薄緑になった広い水田が山裾に接するあたり、不動山に抱えられるように平田寺の大屋根が見えた。意次は、江戸の駒込勝林寺と並ぶ国許の菩提寺に遠く一揖した。

 城下を見下ろすと小振りながら穏やかにまとまり、相良三町と浜近くの福岡に建つ三百軒の町家におよそ千五百の民が住む世界が見えた。家臣は百五十人。それだけの人が眼下で幸福を紡いでいると思った。

 ――大手門、東門も立派な出来じゃ。二之丸、三之丸の堀と石垣も見事に組み上がった。本丸御殿もよくできた

 意次は、途中中断の三年間を含め十二年を費やした築城工事の期間中も城下の民を指導し続けたことを振り返った。大火の苦い経験を踏まえ、藁葺(わらぶ)きから瓦葺きに替えるよう町を促し助けた。塩田を造成して塩を、養蚕を興して生糸を、櫨(はぜ)栽培をすすめて蝋燭を、毒荏(どくえ)栽培を手掛けて燈油を造るよう農民に教え、街道と湊を整えた。意次の知恵によって商品作物は有望なものばかりを選んだ。

 仙台河岸のある萩間川河口は、相良水運の要となった。従来の浜道などを改修拡幅し、湊橋から藤枝まで七里に達する街道に整備したのは意次だった。田沼街道と呼ばれて当然だった。

 ――帰路は是非、この街道を使ってみよう

 宝暦八年にこの地を拝領し、以来二十余年、常に民政に心を配り、穏やかに治めてきた。そこから生まれる民の活力を豊かさにつなげる。それが一貫した政治信条だった。

 ――相良の地に三重櫓の聳(そび)えるのが嬉しい者ばかりではない。儂(わし)のような者が遠江(とうとうみ)に築城したのは、先例と古格を重んずる者には我慢ならんことだろう

 これまで駿河、遠江、三河の三国に門閥譜代でなければ領地を与えなかった幕府の大方針を改めて振り返った。

 ――上様と儂(わし)は、その破壊者じゃ

 一両日中に、嫡男意知が上様の謁見を賜るはずである。雁之間席となって十一年。見るべきものは見た筈だった。江戸出達の前、上様の方から意知の歳を聞かれ、そろそろ時期ではないかと仰せを賜わった。

 ――上様は御世子を亡くされ、意知こそ次代の改革を担う者とますます嘱望されておられる。意知をご自身の手足に育てようと、御役に就かせる初手のおつもりだろう

 惇信院様御遺言を継ぐ者たちの次代につなぐのだと意次は思った。

 ――儂(わし)が城を竣工させ、意知が遠からず抜擢を受ければ、妬(ねた)みと嫉(そね)みは避けられまい

だからこそ決して恨(うら)みは買ってはならぬと肝に銘じた。己の城下を眺める喜びと、自ら戒める緊張とが複雑に入り混じって、意次は三重櫓から城下を眺め続けた。

 

                            *

 

 四月二十八日、意次は江戸に帰還した。わずかの期間の留守だった。翌日、家治に帰着を報告し、現職の老中ながら例外的に帰国許可を賜った温情に深く礼を述べた。特に、出達前、御暇(おいとま)の拝謁で野袴、羽織に加え、久保山と名付ける馬一頭を賜る厚遇を受けたから、相応の御礼品を進献した。

 六月三日、江戸で大きな雷雨があった。それ以降、危うげな天候が続き、中旬から関東一円は大豪雨に見舞われた。降って降って、幾日となく降り続き、二十六日ついに関東の大河で堤防決壊が始まった。利根川、荒川、戸田川の各流域では村々が一面の泥水の海と化し、家と橋は流され、田畑は作物の植(う)わるままに水没した。

 江戸では永代橋、新大橋が流され、あふれ出た水によって本所、深川がひたひたと水に没した。屋根やら大木によじ登って、ようやく溺(おぼ)れ死(じに)を逃れた者のために助け船を出す騒ぎとなった。各地の水害被災地の中でも、特に下総(しもうさ)国の印旛沼(いんばぬま)周辺は被害が大きかった。

 印旛沼は、普段、長門川を通じて水を利根川に流している。流れが非常にゆるやかなのは、印旛沼と利根川の水位に殆ど差がないからだった。六月の大豪雨で長門川には利根川の水が逆流して、あっという間に沼の水位を高めた。沼からあふれ出た水は、当然のように、出穂期の稲が植わる田を一面に呑みこんだ。

 印旛沼は付近が晴れても、雨が遠く日光一帯に降れば、鬼怒川が増水して利根川に合流し、数日遅れで利根川の逆流によって洪水となった。それだけでない。辺りに雨が降れば、沼に注ぐ鹿島川から川水が流れ込み、水位が上がった。

 この辺りでは、沼の洪水の原因が、逆流した利根川の水なら外水(そとみず)あるいは日光水(にっこうみず)と呼び、印旛沼に流れ込む川水なら内水(うちみず)と言い習わしてきた。印旛沼は外水と内水の両方によって洪水を起こす沼だった。日光に降り、印旛沼周辺に降れば、直ちに二回分の水害となった。

 享保の頃、初めて掘割工事を試みたが、工事の難しさから村が資金を使い果たし中断となった。その後、水害の村であり続けた。

 此度(こたび)六月の洪水被害に奮起した印旛郡草深(そうふけ)新田名主、香取平左衛門と千葉郡島田村名主、信田(しのだ)治郎左衛門が語らって、掘割を作る計画を立てた。沼の西端、平戸村から検見川村海岸まで九千間(百五十町、十六キロメートル)を掘り抜き、江戸湾に沼水の吐き口を設けるという計画である。目論見書を代官手代伊達唯六に提出したのは八月のことだった。

 そこには、枝利根川(将監川)の埜原(やわら)新田から安食(あじき)村に到る八十間(百四十メートル)を埋め閉じて本流から締め切ること、長門川上流の布鎌(ふかま)新田マケ俵口と、下流安食(あじき)口六観音下に閘門(こうもん)を設け、外水を防ぐことが盛り込まれていた。江戸湾に沼の水を吐き、利根川の外水を防ぐのが骨子だった。これによって百四十四か村、石高四万三千石相当の田が水害を免(まぬが)れると成果が大きく謳ってあった。そればかりでない、新たに拓(ひら)かれる新田は三千四百町歩、五万石にのぼるという。

 二人の名主は、それ以降、調べを進め、十月には目論見書の改訂版を提出した。検見川村への掘割筋に二、三の候補をあげ、横戸村後通りが最適と指摘した。新たに、掘割長九千三百十三間(十六・八キロメートル)、一坪辺り人夫六人で計百四十万五百三十五人、一日人夫賃銀一匁五分で計二千百貫八百二匁五分の銀を見積もった。

 さらに長門川の締切り工事で一万九千百八十一人、銀二十八貫七百七十一匁五分、堀割のために潰れ地となる五十町歩の補償地代に銀六十貫、長門川締切りに要する茅、竹、杭木など工事資材に銀九貫、総計三万六千六百六十二両三分を計上してあった。

 意次は、代官、宮村孫左衛門高豊から上がってきた上申書と目論見書を興味深く読んだ。意次は新たに開かれると見込む三千四百町歩の新田が眼目とは思わなかった。むしろ、銚子から利根川を遡(さかのぼ)り印旛沼を介して江戸湾に抜ける舟運が開かれる可能性に注目した。完成すれば、素晴らしい水運路になると確信した。

 江戸に運ばれる米の多くは、仙台藩の登米(とめ)から来る。北上川の舟運を使って広大な田から石巻に集荷された米は、千石船に積み替えられ、海路江戸を目指した。

 江戸を目指すと言っても、房総半島の南端を北に回り込んで、直接、江戸に来ることはできない。滔滔(とうとう)と流れる大河のように黒潮が房総半島を洗って北流するため、流れを突っ切って江戸湾内に入れない。そこで、房総半島を遠く過ぎ去り一旦、伊豆半島の下田に行ってから、引き返すようにして浦賀経由で江戸湾に入るのが常道だった。この航路は大廻(おおまわ)しと呼ばれた。

 ただ冬季に、大廻しは危なくて航行できない。北流する黒潮と南流する親潮が房総沖で轟々と激突し、二つの大河は力余って東に押し出て、大洋の彼方に流れ去る。冬季、強い西風が連日吹いて、千石船は風と潮の両方の力で必ず東に持っていかれる。霧と相俟って、海難の多発する魔の海域だった。大廻しでは、登米の新米が正月の江戸に届かなかった。

 春になるまで大廻しがお預けになるので、冬は内川廻しという元々の水路を使った。海路は銚子までとし、米を川舟に積替え利根川水運に切り換える。舟は多くが高瀬舟で真岡(もおか)木綿の帆を張り、大きいものでは千二百俵、五百石を積んだ。

 銚子から利根川を遡(さかのぼ)って遠く北上し、分流点の関宿で江戸川に入る。あとは下るのみ、舟堀川と小名木川を通って江戸各町の河岸(かし)や問屋に難なく着ける。内川廻しは、荷の積替えに手間を要し、川の水量や風次第で所要時間が大幅に伸びた。一気に大量輸送ができない分、運賃は高めになったが、こんなことに目をつぶれば、海路よりずっと安全だった。特に冬は間違いなく選ばれた。

 印旛沼を経て、利根川が検見川村で江戸湾と繋(つな)がれば、内川廻しよりはるかに航路が短かくなって絶好の水運が発展する。河岸がいくつも新しくできる。意次が目を止めないはずがなかった。意次は、実施に向けて勘定奉行の松本十郎兵衛秀持と綿密に打ち合わせた。

 松本は、前年四月、石谷清昌が二十年に及ぶ勘定奉行の職を退(しりぞ)き留守居役となったその日に、勘定吟味役から勘定奉行に任じられた。川井亡(な)く、石谷退き、家治と意次のこれからの財政政策を担う役割だった。もともと天守番の閑職にいた身分低い御家人だったが、明和の初め意次に才を見いだされ、勘定畑を歩んできた。

 意次の相談を受けて松本は張り切った。石谷のあとを継ぐ者として、当然ながら年貢米の増産より流通の発展を喜んだ。早速、勘定吟味役を現地に派遣して検分させ、資金提供を申出る豪商探しに入った。

 松本は、大河川の改修なら大名に振るが、此度(こたび)の件では商人から資金を出させるのがよいと考えた。三股新地のように、幕府が金を出さずにすめば、民の力を最大限引き出したことになり、理想的だった。

 松本は、胸中、算盤を弾き算用を立てた。新しくできる三千四百町歩の新田を与えると聞けば、資金提供を申出る豪商は出てくると踏んだ。

 ――金を申出る商人がいても、印旛沼はこれほどの大工事。幕府からも資金を出さざるを得まい。それでもやる価値はある……

 

 安永十年(一七八一)四月二日、安永から天明となった。改元間もなく、意次は若年寄酒井忠休(ただよし)と留守居役依田政次とともに御養君(おんやしないぎみ)御用掛に任じられ、将軍世子候補を選定する任に当たることになった。家基の急逝から二年、世子の選定は大詰めに入り、決定は間近かと見られた。

 この頃から、西之丸の勤仕を命じられる者が続々と増え、大きな異動が相次いだ。閏五月、二人の西之丸若年寄と六人の西之丸御側が任命され、次いで西之丸で宿直が再開された。将軍世子の居城で家臣団が整えられ、世子の公表は間違いなく近づいたようだった。

 閏五月十八日、一橋民部卿治済(はるさだ)が嫡男豊千代を伴って御座所で家治の謁見を受けた。九歳の豊千代を世子にすると仰せを賜り、ありがたく受けた。そのあと、御三家はじめ主だった大名や旗本、西之丸勤仕を命じられた者など大勢から挨拶を受け、この日より、豊千代を若君と称すよう布達された。

 治済にとって、長年、温め、凝(こ)らした策謀の大きな到達点だった。内心、喝采を叫んで大笑して狂喜しても、不思議でなかったが、終始、謹直な態度を持した。社交上の快(こころよ)げな微笑を浮かべ内心は誰にも窺わせなかった。

 翌日、万石以上の全ての大名から拝賀を受けた。その大きな祝賀の裏で、一橋家家老、田沼能登守意致(おきむね)が西之丸奥勤御用取次見習となって、二千俵を賜うと人事発令が出た。豊千代にぴたりと寄り添う役で、治済にとって最も重要な人事だった。

 七月十五日、意次は世子候補を選んだ功を賞され、一万石の加増を賜って四万七千石の大名となった。田沼家の慶事は相次いだ。師走十五日、意知が三十三歳にして奏者番に抜擢された。

 この職は、殿中の年初、五節句の儀式の場で大名が将軍の拝謁を賜るとき、姓名と進物を披露し下賜品を伝達するのが役目である。将軍御前で大名がめでたく拝謁を終えられるか鍵を握る。表向き、儀典の役職だが、外様(とざま)を含め多くの大名と接触が生じ政治色は自ずと濃くなる。そこをどう捌(さば)くか試され、老中になるための登竜門とされた。

 奏者番には身のこなしと機敏さと品位が求められ、言語怜悧、容姿端麗にして俊英でなければ勤まらない。意知はこうした条件にぴたりと合致したが、重要な一点で異例だった。意知は独立した大名でなく、単に老中の息子で部屋住みにすぎない。奏者番はあくまで大名が就く職だった。

 通例から大きく外れた人事に幕臣の誰もが驚いた。岳父は岳父で、老中首座の松平周防守康福(やすよし)。意知は、衆人の妬(ねた)みと嫉(そね)みの渦に巻き込まれ、幕臣から老中を約束された者と悔(くや)しながらに見做(みな)された。不満は内向した。

 この年流行(はや)った三ツものにこんな戯句(ざれく)があった。

 

  よいゆめをみる 

    松平薩摩守 岩本内膳正 田沼能登守

 

 松平薩摩守とは薩摩藩主、島津重豪(しげひで)のこと。五年前、三歳の女(むすめ)を豊千代と婚約させたから、いずれ将軍の岳父になって夢見もよかろうと言い立てた。将来、岩本内膳正は孫が将軍になり、田沼意致(おきむね)は将軍最側近になり、三人が三人とも佳(よ)い夢を見ると、世間の名を借り幕臣が口さがなく言い囃(はや)した。

 ここに論(あげつら)われなかったが、さらに夢見のいいはずの人物がほかにもいた。その男は、幕府枢要の地に三重櫓を構える城を竣工させ、九度目の加増を受け、嫡男は空前の抜擢で将来の老中に間違いないと目される。老中首座だった松平武元(たけちか)と松平輝高が相次いで亡くなり、新たに老中首座となった松平康福は縁戚。もはや、掣肘を加えうる老中はいない。

 何より、将軍の覚えめでたく一貫した政策を長年実行し続けてきた。勘定所と評定所をがっちり握り、幕府財政を見事に立ち直らせた。威権の絶頂と誰もが仰ぎ見る巨樹だった。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」五節「天守聳ゆ」(無料公開版)​

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