安永七年(一七七八)三月十八日、十七歳の大納言家基が、童形をあらためる日だった。家基は五歳にして加冠の儀を行い、朝廷から従二位権大納言に叙任されて以来、童形のままに過ごしてきたが、もう、月代(さかやき)を剃ってもいい年頃だった。
およそ加冠の儀は十代半ばごろに行うのが普通で、吉宗の長男家重、二男宗武、三男宗尹(むねただ)はともに十五歳で済ませた。ただ家重の長男家治は、五歳にして執り行い、早々と従二位権大納言に叙任された。竹千代という幼名と官位によって、早い時期から将軍継嗣が誰であるか明らかすぎるほどに示す必要があった。
家治は、我が嫡男家基に同じように早い加冠を行った。幼少より倫子と共に存分に可愛がり、西之丸に移ってから見事な青年に育ったものだと家基に期待する心で一杯だった。
家治は、本丸に渡ってきた家基と対面し、父として訓示と祝辞を与えた。紙を敷いた素木(しらき)の三方に大小の鋏(はさみ)が運ばれてくると、家治自ら家基の前髪を鋏で切ってやった。別室で理髪の済んだ家基が再び現われるのを見ると、その凛々しい若武者振りに胸に迫るものがあった。家治は、家基の拝礼を受けながら、倫子にこの姿を見せてやりたかったと切に思った。
時折、遠雷にも似て、轟音が小さく城内に聞こえてきた。昨年七月、大島三原山が火を噴き、焼け熔けた岩が海に流れ出た。当時、夜になると、品川あたりから三原山の火光が天に赤黒く映じるのが見えたと話題になった。ここしばらく山焼けは収まっていたが、前日、再び噴煙を上げたと早馬が駆け入ってきた。島に大きな被害が出なければいいがと、家治は理髪役の家臣の挨拶を受けながら思った。
ここ数年、夏は異常に寒く、不作が続いている。今年の作柄も気になる。噴火、風水害、冷害、旱(ひでり)、疫病など自然の災禍はいかんともしがたい。せめて民だけはなんとか救ってやらねばならないと、家治は奥歯を噛みしめた。
――将来、家基が将軍になって、天変地異に苦労しなければよいのだが……
三原山から発せられる轟音が、はるか彼方から小さく響きわたってきた。
安永八年(一七七九)正月、連日続く年始行事の合間、家基が鷹狩りに出ようと家臣に言い出した。行事の一段落した九日、小松川の畔(ほとり)に出かけた。供奉する人数はさほど多くせず、派手にならないよう配慮した。
払暁、寒気の厳しい中、西之丸大手から西御丸下を通り、和田倉御門から神田橋御門を騎馬の一群となって駆け抜けた。門衛に当たる譜代諸藩の藩士から挨拶を受け、早朝の急な出陣があっても普段からその準備がしてあると確かめた思いだった。
筋違御門前八つ小路の大広場で道を右にとって柳原通りを騎行した。両国橋を渡って本所にはいり、竪川(たてかわ)北岸沿いの元佐倉道(もとさくらみち)を東に進んだ。早朝そろそろ人が出始める頃だった。将軍の鷹狩りは珍しくなかったから、蜆(しじみ)売りの童児が、この一団にとりわけ驚いた風もなく道の脇にすっと寄った。
竪川と横川の交差を過ぎる頃から道幅が広くなってきた。十間川の交差を過ぎると、右手、竪川の向うに冬枯れの田が一望に広がるのが見え始めた。
六ツ目橋辺りは竪川口の町並が続き、前方に中川の水面が見えてきた。竪川が中川に合流する辺りが逆井(さかさい)の渡しで、昨日のうちに出発した家臣が、早朝から船頭と数艘の舟を用意して待っていた。江戸湾満潮時には中川の水が逆流し一帯の支流に流れ込むことにちなむ地名だった。
渡し舟で渡河した一帯が小松川村だった。小松川畔(ほとり)に蘆原と松林と畑の広がる中、一筋、元佐倉道が東の小岩に続いていた。この一帯は白鷺や雁が多く、時に鶴も獲(と)れた。
家基は畑に青々と植わる葉物が小松菜だとすぐに気付いた。三年前、このあたりで放鷹した折にも見た風景だった。好物だった家基は、小松川の地菜(ぢな)をわが目で見分けられるようになって、鷹狩りは学問以上に物を知るよき機会だと父親に訓(おし)えられたことを思い出した。
――獲った鳥の吸物に入れるよう、小松菜も買(こ)うて帰ろう。今が旬の小松菜は美味(うま)いから父上にも届けよう
家基は狩場を眺めながら、心が弾んでくるのを感じた。十八歳の若さが満ち溢れる身に朝の冷気が爽やかだった。肢体に力が漲(みなぎ)り、この日の豊猟を心から信じた。彼方には下総(しもうさ)、上総(かずさ)の山なみが朝日に稜線をくっきりと浮かべ、ゆるやかに連なる山影から後光のさす姿を美しいと思った。
正月二十日、家基は東叡山寛永寺に詣でた。この日は歴代将軍の霊廟ではなく、霊牌所に参拝するためだった。心観院殿と祀(まつ)られる母倫子(ともこ)、至心院殿と祀られる祖母お幸の方、乗台院殿と祀られる姉万寿姫に詣(もう)で、日々、元気に過ごしていると心の内に報告した。
――明日、また放鷹に出るつもりです。馬を駆って鷹を放ち、弓を引いて獲物を射るのは、家臣の剛と臆とを知り、駆引きを学ぶためでもあります。民の暮らしや百姓の苦労を知る良き機会です。父上の訓えに順(したご)うて放鷹に励んでおりますれば、御見守りくださいますよう……
心を込めて長い間、手を合わせていると、位牌の奥の辺りで、かたりと小さな音がして、風もないのに蠟燭の炎が一斉に揺らめいた。
二月十五日、家治は朝会を終えてから、西之丸に向かった。家基から招待を受け、共に昼食をとることになっていた。近頃、家基は、めっきり青年らしくなって、若さあふれる風貌と逞(たくま)しさを増した体つきが家治の目に眩しいばかりだった。数日前、招待を受け喜んで承諾してからというもの、家治は幸福な気分をずっと感じ続けた。
――考えてもみよ。血を分け秀でた世継ぎと共に食をとり、時に弓と騎射に見入り、武道の意義を談じ、放鷹の楽しみを語らう。御歴代とて、このような父子(おやこ)の幸せな時を持てなかった……
祖父吉宗が父家重と幸せな気分で心通ずる話を語り合ったとも思われない。初代御神君の頃はさておき、己の息子を持たず、持っても成人した世継ぎの姿を見られなかった将軍は随分といた。家治は、德川宗家の家史を思い浮かべた。自分一人、初めてこのような幸運に出会えたのではないかとあらためて思い、何か天の配剤を感じるような厳粛な気持ちになった。
西之丸御座所に迎えられた家治は、丁重にして心の籠もったもてなしを受けた。料理の一品ごとの出来栄えの話ではなかった。共通の時間を過ごし同じ先を見つめる同志のような心のつながりを感じるひとときとなった。
「近頃、鷹狩りに出ることが多々あるそうじゃな」
「父上の訓えを承って以来、そのように心がけておりまする。今年になって、小松川、二之江、目黒川の畔(ほとり)を回りました。家臣の力添えもあって、獲物を狩る楽しさを存分に味わいました」
「それはなによりじゃ。そもそも、そなたが初めて鷹狩りにでたのはいつであったかの」
「はい、安永四年、十四歳のみぎり初めて浅草の畔(ほとり)で鷹を放ちました」
「もう四年になるか。鷹狩りが次第に面白くなる頃であろ」
「楽しゅうて楽しゅうて仕方ないほどです。されど、そうした幼げな心を戒(いまし)め、自ら弓馬の技に励み、家臣の振舞(ふるまい)を見通す鋭き目を養うつもりでおります」
「まあ、そう固く考えずとも存分に楽しめ。目黒ではどのあたりを回ったか」
「大猷院公を偲(しの)び、父上のお気に入りを試さんと、勇(いさ)みて立ち寄りましたのは……」
家基は当ててみよ、という目つきで話を切った。
「ふふっ。爺々(じじ)が茶屋か」
家治は可笑しそうに相好を崩し、にやにやしていたが、我慢ならず、ついに爆笑した。家基も大きく笑って、父子(おやこ)は二人、言わずに分かり合った茶屋のことで、膝を叩いて大笑いした。
荏原(えばら)台地から目黒川に向かって下る茶屋坂中腹に一軒ぽつりと建つ茶屋は、景色の良さで江戸中に知られていた。将軍家光は鷹狩りで立ち寄った茶屋の主(あるじ)、彦四郎の味のある素朴な人柄を殊のほか愛し、その後しばしば立ち寄って、店主を爺々(じじいじじい)と親しく話しかけたという伝説が伝わっていた。
主(あるじ)は、代々、彦四郎を名乗り継いだ。家治は若い頃、子孫何代目かの彦四郎に団子と田楽でもてなされて以来すっかり気に入って、よく訪ねたものだった。いつだったか家基と雑談した折、餡と甘味噌が旨いから機会あれば喰うてみよと、奨(すす)めたことがあった。本当に奨めたいのは、親父の人柄が醸(かも)しだす茶店の雰囲気の中で民のしみじみとした暮らしを見知っておくことだった。
団子と田楽を巡ってかつて交わした会話が父子の心にありありと浮かび上がり、些細なことであればこそ、却って心に触れる共有の時間が流れた。
――亡き父上とあれこれ政(まつりごと)のことを話した時にも、このような心の琴線に触れる気分を味おうたことがあった
家治がそれを倫子に話したら、倫子はこう言って喜んだものだった。
――それは、御二人の御心がお通いになられている証(あかし)でございましょう
父子の考えが不思議と共鳴し、心が通うという経験は歴代将軍の中で己一人が味わった貴重なものだと思った。しかも、初めは息子として、後には父として……。そのような追憶の中に亡き妻の言葉が蘇ったのだった。
――父と、余と、家基と、そして倫子とは絆で結ばれた家族なのじゃ。心の通い合った家族なのじゃ
この昼食の席で、図らずも家基はそのことを実感させてくれた。家治は爺々(じじ)が茶屋の件で大笑いしながら、涙がこみ上げるのを感じた。それでよかった。
――家基には、笑い過ぎた涙と見えるに違いない……
*
二月二十一日早朝、家基は鷹狩りのため新井宿に向けて西之丸御門を出た。桜田御門から虎之御門を通って御成道(おなりみち)を騎行し、増上寺御成門に向かった。増上寺の参拝で何度も駕籠の夢想窓から見た町の風景を、この日、馬上から広々と眺めた。
御成門の先で東海道に入って金杉橋を渡った頃、ようやく海が見え始め、潮の香を感じた。橋詰めは大きな広場となって、江戸を出達する人々が行き交う賑わいが面白かった。
本芝町までくると芝浦の海が間近く、芝田町のあたりで道はますます海に近付き、高輪の大木戸を過ぎれば道は海浜沿いとなった。
家基は、北品川の宿場に到り、旅舎数百戸が軒端(のきば)を連ねる繁華の地を見て、京、大坂と江戸の間の活発な往来の証拠だと思った。
宿の背後に広がる高台には、中腹から台上にかけて満開の桜が点在していた。家基は、ここの桜を見に来たことはなかったが、桜名所の御殿山であることを知っていた。高台の南には輪奐(りんかん)を誇るかのように東海禅寺の高閣檣楼が木々の間に見え隠れした。この寺には将軍家の習慣通り帰路に寄ることになっていた。
その先の川を渡れば南品川だった。家基は、この川が、つい先日、鷹狩りで回った目黒川の河口だと知って江戸の地理が少しずつ身近になる気がした。少し行って東海道から分岐する不入斗道(いりやまずみち)を騎行した。
大井を過ぎると道は急な上りになった。馬を励まし八景坂を上り詰めると、台地の上から、江戸前の海が一望に広がり、彼方(かなた)には房総の山々が遠望された。家基は馬上、朝日が海を差し照らす中、遠く風をはらんだ沖合の白帆がいくつも浮かぶのを眺めた。海岸に沿って、松並木の下を旅人が小さく歩むあたりが東海道だろうと見て取った。
古来、この地は荒藺崎(あらいがさき)と呼びならわされ、所縁(ゆかり)の歌が多く詠まれたことを知っている。家基はこれまで、目をつぶり耳をふさぐようにして和歌を遠ざけてきた。一度でも和歌の世界に触れれば取り付かれそうで、武術修練の妨げになるのが怖かった。
――和歌は詠むまいぞ。されどこの大観を眺め浩然の気を養うことは許されよう
家基はなぜか今日に限って、風景を瞼(まぶた)に焼き付けるかのように、長いこと江戸前の海を眺め続けた。崖っぷちの鎧掛(よろいが)けの松が緑豊かに枝を広げるあたりから春風が軽(かろ)やかに吹き渡ってきた。
この先、平間街道から新井宿村に騎行し、いよいよ狩りとなった。平間街道沿いの低地には、鶴、鴨、白鳥、鴛鴦(おしどり)、雉子(きじ)、雲雀(ひばり)、鷭(ばん)、秧鶏(くいな)など多くの野鳥が生息し、絶好の猟場だった。
家基の乗り馬は、明和八年(一七七一)阿蘭陀から贈られた波斯馬(ペルシアうま)だった。以来八年、御召馬預(おめしうまあずかり)の下、御馬乗(おうまのり)の役人の手でしっかり調教され、馴れた馬となって久しい。大きく逞しい馬格の馬だが、性格はおとなしかった。落ち着いた馬齢に達したこともあって、家治から家基に譲られ、最近、家基もようやく乗り馴れてきた。
この日家基は、湿地や池沼の点在する草原を軽く駆けて愛馬の様子を見たが、普段より汗を多くかき、ひっきりなしに頭を振って、いらいらと興奮しているように思われた。瞳が開き大きく見えるのが少し不気味だった。家基は声をかけ項(うなじ)を軽く叩いて、落ち着かせることに努めた。
家基はしばらく常歩(なみあし)で歩かせ、もう鎮まったかと、駆歩(かけあし)から襲歩(しゅうほ)の馬勢に持っていったときだった。白い毛毬(まり)に似た小さな塊りが目の前を素早く横切り、兎かと思った瞬間、愛馬が急に向きを変え、後ろ肢で立ち騰(あが)った。あっと云う間もなく、家基は凄(すご)い勢いで地面に叩きつけられた。
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」三節「鷹羽を折る」(無料公開版)