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六 大獄の余波 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 長行といささか風変わりな面談を終えた数日後、容堂は常盤橋御門内の越前藩上屋敷を訪ねた。

「余が再三、呼び立てたもの故、やっとのことで図書頭が重い腰を上げての。先日、藩邸に罷りこした」

「ほう。して……」

 春嶽は興味津々と容堂の話に引込まれた。

「余が仕組んだ通り、酒の途中で一喝して杯を投げてやったわさ」

「それは図書頭も辟易しておったでござろう。ふふっ」

 春嶽は容堂のあくの強い振舞に微苦笑した。

「それがの。何もなかったごとく平然としておっての。余が席を立った後も、家臣相手に大いに膳を喰って歓談を続けたのじゃ」

「ほう。それは面白き御仁でござる」

「最後は湯漬けまで所望していったわ」

 容堂は、春嶽に長行の振舞いを上機嫌で語って聞かせ、時折、愉快そうに大笑しては強く長行を推した。

 春嶽は、長行が冷静で理知的な人柄でありながら、なお豪胆沈着であるという話を面白く聞く様子だった。これは幕府の力になる人材だと思ってくれればいいと、容堂なりに注意深く春嶽の顔を観た。

 この同志らは、一橋慶喜を将軍家定の継嗣に就けようと運動を本格化させたところだった。長行がいずれ藩主になればこの運動の一端を力強く担うだろうと期待をかけた。長行のひととなりから推測すれば、当然、慶喜公の肩を持つだろうと思われ、ふさわしい要職を与え同志に加える日を楽しみにした。

 容堂は、小笠原家で世子になったばかりの長行を国許に帰す計画になっていることを春嶽に伝えた。これはどの藩でも行われることで、世子が然るべき年齢になれば将来、藩主になる前に国許に帰し、藩政をみる最初の経験を積ませる。

「それはそれでいいではござらぬか。世子になったばかりで、さほどに政事向きの動きもなるまい」

「図書頭の藩政ぶりを楽しみに拝見仕ろうではないか」

 という相談になった。

 安政五年(一八五八)二月二十八日、長行は将軍の謁見に臨み、藩主小笠原佐渡守長国の名代として帰国の暇(いとま)を賜わった。

 

 四月、老中堀田正睦が日米修好通商条約に勅許を得ないまま空しく京都から戻った。その四日後、井伊直弼が大老に就任した。五月朔日、将軍家定の継嗣は紀州徳川家の慶(よしとみ)、十三歳と決定した。一橋慶喜、二十二歳を継嗣に就けようとした春嶽、容堂らの運動は潰(つい)え、井伊側が勝利した。慌ただしい日々が続いた。

 六月十九日、井伊は勅許がないまま日米修好通商条約に調印し、その二日後、老中筆頭堀田正睦を罷免した。七月には、徳川斉昭、慶篤父子、徳川慶勝、春嶽の一橋派に、将軍家定の命として謹慎処分を下した。あくまで将軍存命中の台命だった。その直後、十三代将軍家定が三十五歳にして薨去したと公式に発表した。

 当初、容堂と春嶽は早目に長行を江戸に呼戻そうと考えていた。長行が江戸を出達して四ヶ月後、七月には春嶽が隠居を申渡された。十一月には容堂が戸塚静海の診断書を添え、体調悪く藩主の任に堪えないとして、形式上、自主的な隠居依願を提出した。

 戸塚静海は伊東玄朴と共に、この年七月に井伊から将軍侍医、法眼に任じられた蘭方の大家であり、こうした蘭医の診断書を添えるということは、容堂流の強がりか皮肉のようにも見えた。

 安政の大獄が進行し、一橋派の二人は井伊大老によって政治の舞台から締め出された。それは、長行が早めに江戸に帰るきっかけを失うことだった。

 井伊が大老の専権を揮(ふる)い、度を越したため政治的な反発が強まって日本は大きく軋み始めた。安政の大獄を着々と進めた結果、ついに安政七年(一八六〇)三月三日、桜田門外の変が勃発した。

 政治の嵐が吹きまくる中、長行が江戸の緊迫した情勢を知るのは唐津に届く書状によってのみだった。江戸、京都の大獄の混乱はそれとして、長行は藩政に没頭し治績を挙げつつあった。天は、長行を嵐から遠ざけて唐津の地に温存し、長行の本当の活躍を未(いま)だし、と思っているかのようだった。

 

                             

 

 文久元年(一八六一)五月十六日、長行が唐津から江戸の小笠原家上屋敷に帰り着いた。江戸の大政変のせいで帰府がのびのびとなった。唐津で三年間、藩政に明け暮れて過ごし、ようやく江戸に戻ったことが嬉しく、たまらなく懐かしかった。

 長行はすでに世子として上屋敷に住む身の上だが、懐かしさの募るのは何といっても下屋敷の背山亭だった。帰府後落ち着くと、早速、美和を連れて出向いてみた。背山亭は長行が国許に帰って不在の間も美和の配慮が行き届き、綺麗に整えられていた。

 ここに来れば、恩師にして亡父、松田迂仙を追憶し、美和の幼い頃の残照に浸り、安井息軒の息遣いを髣髴した。美和としか共有できない過去の貴重な陰影だった。美和と水入らずの会話を交わし、合間に合江園の風景を楽しんだ。美和は唐津や長崎の話を聞きたがった。

「唐津舞鶴城から長崎へは二十五里十二丁、四日の旅じゃ。城を南に行き駒鳴峠、大川野を経て嬉野から長崎街道の彼杵(そのぎ)通りを行く。大村から日見峠を越えれば眼下に長崎の町と湾が一望できる」

 美和は上屋敷で、長行の持ち帰った長崎土産の肥州長崎図を飽かず眺めていたから、長行の話を聞きながら長崎の街並みを目に浮かべているように見えた。長崎の風俗絵などもよほど好きで、長行に長崎の町中の話をよくねだった。

「それはそうと、江戸は四月から痘瘡が流行(はや)っていると聞いたが、そなたは大事なくてよかったのう」

 長行は江戸に帰って懸念したことを繰り返した。

「わたくしは、幼少の折、軽く罹(かか)りましたので、その心配はございまぬ」

「そうか、それはなによりじゃ」

「大名家でも、罹ったお方が幾人かいらっしゃると伺いました」

「そうか、それは気掛かりな……」

「なんでも、会津中将様の奥方様が罹られたとのことにございます。わたくしより二つ下でまだお若いのに、心配のことにございます。おとなになってからでは重く罹ることもございますれば……」

 美和は美和で、江戸の町の様子をあれこれ長行に伝えてくれた。二人揃って健やかで、何より仲のよい夫婦だった。

 

 長行は江戸に戻ってからというもの、政治情勢を整理することに身を入れた。前年に大獄の反動で井伊大老が無惨な死を遂げ、その後は安藤信正、久世広(ひろちか)が老中となって幕府を支えてきた。幕威の衰えは著しいものがあった。幕府は弱り目にあって朝廷を頼り公武合体を今後の方針とした。朝廷と協力して政治を行う方針は弱弱しく、いかにも危なげだった。

 かつて長行を世に出してくれた容堂と春嶽は隠居、急度慎(きっとつつしみ)の身と成り果てて、逼塞(ひっそく)を余儀なくされ面会も禁じられたままだった。長行は挨拶に行くこともできないでいた。長行は、時に外桜田の上屋敷で養父と歓談し、時に深川高バシの下屋敷で美和とともに慎ましく過ごした。身のほどに合った生き様が快かった。

 外国貿易が始まったためか物価は高騰し、世上騒然として江戸民衆の暮らしぶりは悪かった。五月は日照りが長く続き、六月下旬になってようやく雨が降る有様で農作物が心配された。

 江戸の町では六月まで貧民に御救米(おすくいまい)が施(ほどこ)された。七月朔日、虎之御門内で火事があり、小笠原家の上屋敷でも危ういところだった。井伊大老が討たれて一年余、江戸では、ざわついた世上のままに時が流れていった。

 明けて文久二年(一八六二)正月に坂下門外の騒動があった後、三月五日、藩主小笠原長国は国許に向けて江戸を出立した。長行は名代として江戸に残った。

 その十日後、安藤、久世は、板倉周防守勝静(かつきよ)、五十四歳(備中松山藩主)と、水野和泉守忠(ただきよ)、三十一歳(山形藩主)を新たに老中に任命して、次の道を模索し始めた。

 四月二十五日、春嶽や容堂らの他人面会、書信往復の禁が解かれ、亡霊のように残った井伊大老の禁圧措置が徐々に廃止されはじめた。これを聞いて長行は、早速、容堂の謫(たっきょ)先を訪ねることにした。土佐藩の品川鮫(さみず)別邸である。帰府の挨拶と励ましとを言う義理があった。

 長行の国許から戻った挨拶は、すでに一年以上たって、遅ればせながらのものになった。容堂は三年間も押し込められ、これだけの目に遭ったのだ。少しくらいの毒気に当てられても慰めてやりたいと思った。長行は容堂と蜂須賀斉裕の仕組んだかつての筋書きを知るに及んで、今は深い感謝の念を抱いている。

 鮫洲の屋敷では、容堂の豪放の意気はすっかり回復していた。よく来られたと、即座に居間に通され、容堂は長行を前に気炎を上げて見せた。ただ政事向きの話をそれとなく避けるそぶりがあり、おのずと話題は詩談となった。

 謹慎した時期、容堂は多くの佳句をものにし、書き溜めた草稿を長行に見せてくれた。その中に、桜田門外の変を詠んだ痛烈な一首があった。

 

        櫻 花 門

   亢龍元(げん)を喪(うしな)ふ櫻花の門

   敗鱗(はいりん)散って、飛雪と翻(ひるがえ)

   腥血(​せいけつ)河の如く、雪また赤く

   乃(だいそ)の赤装、勇の存する無し

   汝、地獄に到り、成仏するや否や

   万(ばんけい)の淡海、犬(けんとん)に付(ふ)せん

 

   天高く、上りつめたる昇り龍

   その元(くび)を、喪ったのは桜咲く頃、桜田門

   鱗(うろこ)ひらひら敗(やぶ)れ散(ち)(ひるがえ)っては飛雪のよう

   生臭い血はどくどくと流れ出て赤く染めるは雪の上

   家祖から受継ぐ甲冑の赤備えにも勇気なし

   汝(おまえ)など地獄に行って、仏には、決してなるまい、なれるまい

   見遥かす近江の領地(くに)など犬豚に、はよ、くれてやれ、くれてやれ

 

 古楽府一篇に事寄せて詠じたものだが、もはや詩というものではなく、罵詈雑言を漢学の素養で彩(いろど)った悪口と冷笑の戯言だった。ざまぁ見やがれと、伝法に啖呵をきったに等しい。井伊に向けた怨嗟がいかほどのものか、長行は切実に感じた。

 容堂は、草稿を読み終えた長行を見て、片頬だけをにやりと笑って見せた。このような怨念を大獄で処罰された者一人一人が抱いているのであろう。井伊を討ち果たしただけではこの恨みが消えず、安藤もこの怨念に襲撃された。これが幕府に向うとしたら、それは幕府を倒すという気運に繫がりはしないか、この負の遺産を背負って、水野、板倉にやっていけるだろうか、長行は幕府のために深刻に懸念した。

 

 五月三日、松平肥後守容保二十八歳に、曖昧な言い方ながら幕政に参加するよう幕府から下命があった。四日後、松平春嶽三十五歳に同様の命が下った。そのうちに大きな役を任せるから、とでも言いたげな待機の命のようだった。幕府内で何事かが動き出した。

 六月朔日、在府の諸侯は総登城し将軍家茂に謁見した。長行は藩主名代として登城し式が終わった後、限られた一部の譜代諸侯とともに、松の廊下から竹の廊下を通って黒書院に召された。ここは将軍が親藩、譜代を謁見する座敷で、白書院に比べ儀礼性は低くい。その分、内密な話、高次な話が親しく交わされ、幕府枢機の間といってよい。

 黒書院の障壁は彩色の山水画で飾られ、入側(いりがわ)の長押(なげし)上には漢画風の人物、花鳥を描いた四角や団扇型の色紙を貼り付け、長行は有名な押絵の意匠を初めて目にした。

 親密な雰囲気の中で、一同は将軍から御言葉を賜った。十七歳の家茂は若々しい早口で、近年、容易ならざる時勢であり、これから政事向きの格別の変革を行なうよう老中に命じたところであると告げた。ついで老中が将軍上洛の計画を伝え、国事に関して譜代の意見書を求めた。

 間もなく勅使大原重徳が勅諚を持って江戸に到着する。厳しいことを求めてくると予想され、幕府は譜代の力を頼りとし新しい幕府の体制作りに協力を求めたのだと長行は了解した。

 ――上様もお若いのに大変なことじゃ

 翌日、首席老中、久世大和守広周が正式に辞任し、井伊大老の後を引継いだ安藤、久世から板倉、水野へと名実共に政権が移った。

 

 六月七日、勅使大原重徳が、島津久光率いる八百の薩摩藩士に護られ、江戸に到着した。長行が人づてに聞くところでは、幕府は一橋慶喜と松平春嶽を幕閣に任ずるよう求められ対応に追われているという。長行には、縁遠い話だった。

 この頃、長行は黒書院で求められたことに応え、意見書を提出した。この意見書は長行が初めて幕府に建議する試案で、後になって振り返れば、長行抜擢のきっかけになった。

 意見書で長行は、将軍上洛によって街道筋の庶民が人足に駆り出されれば、生業(なりわい)が妨げられ中には餓死する者少なからず、ひどく苦しむことになりかねず、民衆の怨嗟が将軍に集まるようなことは避けるべきであると説いた。天保十四年(一八四三)四月、将軍家慶の日光御参詣と文久元年(一八六一)十月、皇女和宮様御下向の事例を引いた緻密な論考だった。

 さらに、長行はこの意見書の後半で、公明正大の賞罰が必要なことを強調し、

 

   恐れ乍(なが)ら、近来の御賞罰、往々姑息(こそく)に御流れ遊ばされ候(そうろう)よう人々申し居り候(そうろう)

 

 と現状にきつく警鐘を与えた。井伊大老の施政を否定し去って、あらたに公武合体を目指す以上、かつて井伊に協力して幕府独裁体制を推し進めた者を、姑息に流れることなく厳然と処罰しなければならないと献策した。

 長行は、井伊直弼の前半生が世に埋もれて過ごした己と似ていると感じるものの、個人的に井伊の検断的な専権体質を好きになれなかった。世に埋もれる生活から得たのは互いに随分、違ったものだったのだと思った。

 長行は、そうした好悪を別にしても、公武合体で国内の和合同一を図らなければこの国難に立ち向かえないと考えていた。国が一つにならなければ、いかんともしがたい。公武合体の策をとる以上、かつて井伊の下僚、協力者だった者は、不憫ではあるが何らかの処罰を下すべきだった。それこそが幕府の立ち行くための出発点になるであろう。長行は井伊の下僚だった者には気の毒だが、それもまたやむなしと断じた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」六節「大獄の余波」(無料公開版)

七 月に乾す杯 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを読む 略年表を読む

 

 老中水野忠(ただきよ)は、板倉勝(かつきよ)とともに勅使を迎え多忙な日々をおくっていた。水野は、長行の上書を読んで小笠原図書頭長行の名に着目した。数年前より、折に触れて家中の儒臣から聞く名だった。訳あって、今なお藩主でなく世子に過ぎないことを思い出した。水野にとって、父の妹を嫡母とする義理の従兄弟の間柄に当ることも、である。

 水野が聞いたところでは、もともと、長行は一橋派の山内容堂、松平斉裕らに才器を見出され、これをきっかけに春嶽を巻き込んで長行を抜擢する筋書きが進んだという。長行の在国中、安政の大獄によって一橋派が思いもよらぬ仕儀となり、長行を幕政に参加させる計画が頓挫している。

 水野にとって、これから公武合体を目指し幕政を改革する時期に、優秀な人材はどうしても欲しかった。それだけでない。長行は、安政の大獄に全く無関係であり、その後始末をつけるにも井伊と関りのない中立の立場を標榜できるのが好ましかった。

 井伊に罰せられた側が井伊を支えた側を処罰すれば、公正な判断に基づいたとしても、周りから、いかにも意趣返しと思われかねない。幕府の求心力を高め一丸となるには、少しでも井伊大老と、良くも悪しくも関った者は、処罰の事にあたらないほうがいいに決まっている。

 同僚の板倉は、寺社奉行として安政の大獄の捕縛者の審理に加わり、厳罰を与えてはならないと強く主張したせいで井伊から罷免された経歴を持つ。板倉が井伊大老派に追罰を申しつければ、まだやりたらないのか、と必ず悪く言われ、ひいては幕府に反感が募ることは避けがたい。

 小笠原図書頭長行なる者は、幕閣のこうした微妙な心理まで、さも見通したように意見書を書いてきた。

 

      恐れ乍(なが)ら、近来の御賞罰、往々姑息(こそく)に御流れ遊ばされ候(そうろう)よう

      人々申し居り候(そうろう)

 

 小面憎いようでもあり、世評通り、見通しの利く男のようだった。

 ――ずけりと痛いところを突きおって……

 水野は板倉を誘って、黒書院脇の老中御用部屋で相対した。沈黙を保ったまま、水野が囲炉裏(いろり)の椿灰に火箸で

 

      

 

 と書くと、板倉は大きくゆっくりと頷(うなず)いた。水野は頷き返し、火箸で椿灰を掻き均した。御用部屋の囲炉裏には、椿炭を用いるのが昔からの習いである。長行の最初の公職人事は、無言の内に、椿灰に描かれた一文字だけで決まった。

 

 七月二十一日、月番老中板倉勝静は長行を召し、黒書院において将軍家茂の御前で奏者番に任命すると申渡した。奏者番は一万石から六万石までの譜代大名が任じられ、諸大名が将軍家に謁見を賜るときに、これを先導して献上物を御前に披露する役目である。諸藩とのやりとりと駆引きを学び、指導力を発揮するいい機会となる。

 この中から器量次第で寺社奉行や若年寄が選ばれ、大坂城代、京都所司代を経て老中への道につながる若手俊英の登竜門だった。板倉勝静にしても、水野忠精にしても、若い頃、奏者番から寺社奉行を兼任し、今の地位に上った。

 当然ながら、世子にすぎない者がつく職では絶対になかった。老中の板倉と水野が、いよいよ長行を使ってみる気になったと、この人事で幕僚の誰もが知った。世子だ、藩主だと言うより、できの良し悪しで人事に踏切った。ましてや、唐津藩は長崎御固(おかため)専一などとは言う気もない。そろそろ格を破る時期が来ていた。

 

 驚いたことに、長行は、若手登竜門たる奏者番の弊害を八月十日付けで老中宛に上書した。奏者番に任命され芙蓉の間に詰めることわずか二十日余りである。文中、激烈な警句と隠喩(いんゆ)譬説(ひせつ)がちりばめられていた。

 長行は言う。

 奏者番にあっては、新古の礼は格別に厳重に守らなければならず、箸のころびたる事も一々間合いが寸分でも古例に違(たが)うことを許さない。新参の者から古役の者へ口を利くことも差控え、新古の差別は天と地の如くで、扇の取様から辞儀の致し振りまで種々無量の手数がある。このような有様は衰世の弊害と嘆息するのみである。

 さらに、鋳型にて鉄砲玉を鋳(い)るように、奏者番という職は、剛柔緩急(ごうじゅうかんきゅう)、総(すべ)て同じように行なう人間を仕立てているかの如(ごと)くであると書くあたりから、肺腑を抉(えぐ)る筆勢で批判を展開した。

 匠工の家造りに譬(たと)えれば、鑿(のみ)は鑿、鉋(かんな)は鉋と用途の異なる道具立てが要るように、幕府も多彩な人材が必要であろうに、今のやり方ではものの用に立つ人材は育ちようがないと結んだ。

 こうした痛論が栄光ある奏者番の御役に向けられたのは空前のことだった。あっという間に、長行の上書の内容が多くの御役に知られるにつれ、城内大騒ぎとなった。本丸御殿の廊下の脇、支度部屋の片隅など、ここかしこで、ひそひそと耳打ちが交わされる日々となった。

 

                              *

 

 長行が奏者番批判の奉書を老中水野忠精に上呈して以来、幕府から何の沙汰もない。幕吏の間の噂では、図書頭は切腹を仰せつかるに違いないと持ちきりだった。長行は登城せず届を出して、差控えの体(てい)を取って淡々と外桜田の上屋敷で過ごした。

 長行は、切腹になるとまでは思わなかったが、何事かのお咎めがくるかもしれず、それまでの与えられた時間を清遊に費やし、心を鎮めるのもいいではないかと考えた。悠々たる心境である。

 上書から五日後は仲秋の名月。長行は微行(しのび)で満月を眺めようと心を決め、あらかじめ人を遣わして安井息軒を誘った。息軒には公職に就いた日々の様子を伝える義理がある。

 中秋の月見となれば、明け方に帰る遊びで、かつて、厄介の身分では自由にできたが、今は立場上そうもならず、夜四つ(午後十時)までに帰邸しなければならない。そのため遠出はできず、長行は、舟めぐりの行程を早く終わるよう出入りの舟宿に頼んでおいた。

 八月十五日夕刻前、長行は早めに舟に乗込もうと、息軒と共に背山亭をでて、屋敷裏手の長慶寺脇、弥勒寺橋に向った。橋の畔(ほとり)には、放生会(ほうじょうえ)のため、亀売りが木枠にたくさんの亀をぶら下げて客を呼んでいた。

「えー、放し亀でございます。一つ逃がしてやっておくんなさいまし。お武家さま、いらっしゃいまし」

 今日は、富岡八幡の放生会で、江戸の者は功徳を積むため、生きるものを放して命を救ってやる日である。長行は大振りの亀を選び、言われるままに十六文を払い、一匹を手に提げた。細縄で甲羅を括(くく)られた亀は、四足を動かし揺れている。

 長行は、縄を解いて小名木川に放してやれば、心持ちがよかろうと楽しく思った。富岡八幡の祭りのせいで、町から川筋まで、大いににぎわっている。

 船頭は江戸に来て以来の馴染みで、長行の好みをよくわきまえた寡黙な老人である。六間堀から小名木川に漕ぎ出て、東に折れてすぐ高バシをくぐった。

 小名木川のゆったりとした流れに艪(ろ)を遣(や)る船頭の無駄のない動きを見ながら、長行は、ゆっくりと細縄を解き、そうっと亀を水面に放してやった。亀は、静かに泳ぎ、やがて舟の後ろに見えなくなった。

長行は息軒ににっこりとし、ぼつぼつと語り始めた。川の両岸には大名下屋敷が立ち並び、うっそうと木立(こだち)が連なっている。

「つい、五日前のことだが、奏者番の弊害を上書して水野様に差し上げた」

 長行は、このようなものを唐突に上呈したわけではなく、老中水野和泉守から、奏者番について思うがままに意見を述べよとひそかに言われた経緯を語った。

 老中御用部屋を下がる間際に、

「何なりと申して欲しい、貴殿の目を確かなものと信じてお願い致す」

 と、水野が、まるで謎でも掛けるようなしぐさであったことなどを穏やかな声で語った。

 長行は、無難な意見書を望まれているわけではないと察知し、信ずるところを上書したが、少しやりすぎたかと思い始めた。お咎めがあればそれはその時と、腹をくくって、息軒を今夜の中秋の名月に誘ったのだと、照れるように付け加えた。

 息軒はにこにこ頷(うなず)きながら聞いて、

「和泉守様は公の腕の冴えを御覧になりたかったのでございましょう」

 と応じ、宕陰から聞くところを長行に伝えた。

「和泉守様は、これから幕府の制度を大きく改めるのには、どこから手をつければよいか、と側近の者に問われたそうにございます」

 奏者番のように要職に直結する職でありながら、長年の弊が積もって用をなさない御役から変革し、幕臣に幕府の覚悟を示すのであろうと息軒は言葉を継いだ。

「その堅い岩盤のような牙城に切り込むため、和泉守様は公の鋭鋒をお使いになられ、公も度胸よく、これを斬り割って見せたというあたりではありませぬか」

「公が度胸あるお方であることを和泉守様も知っておられるのございます」

 長行は じっと息軒の話を聞いていた。

「御心配には及びませぬ。むしろ和泉守様は喜んでおいででしょう。奏者番の御役は、近く、廃止になるのではありませぬか……」

 息軒は驚くようなことをさらりと言ってのけた。息軒が言うのだ、きっと、そうだろうと長行は思った。由緒ある奏者番は、室町幕府の頃から申次衆の名で有力大名が勤めてきたほどの役柄である。典礼や故実にひどく煩(うるさ)い幕府でこの役を廃止するとしたら、相当の裏仕掛けが必要だろうと想像しながら、水野の仕組んだ筋が分った気がした。

 

 満月は、小名木川の川筋やや右、わずかに南に振ったあたりから大名屋敷の大屋根越しに昇ってきた。この日、月の出は暮れ六つ(午後六時)前である。玲瓏たる月光が空に浮かぶ薄雲を差し照らす。

 長行と息軒は川面を渡る涼やかな風に吹かれ、風雅の友となりきって杯を交わした。船頭の親父の用意した重箱をあけると船宿の心尽くしが豪勢に盛り付けてあった。息軒は相当の酒量がある。箸をとり、杯をかかげ、二人は川面の涼風を楽しんだ。

「聞くところでは、容堂公を幕閣に準じたお扱いになされる由。今日あたり、容堂公は将軍に拝謁されたとか……」

 さすがの消息通である。各藩の儒臣と広くつながり、幕府の奥の動きを逸早く知っている。四日前、容堂は鮫(さみず)の謫居を出て鍛冶橋御門内の上屋敷に戻り、そして本日、政務に忌憚なく意見を述べよ、と将軍直々に要請されたことまで知っていた。

「これで、一橋公は将軍後見職に、春嶽公は政事総裁職に、容堂公は幕閣に意見を忌憚なく言えるお立場になられ、近く、会津の容保公は京都守護職をきっとお受けになられましょう」

 息軒は見てきたように言い、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信、松平容保を新たに加えた幕府の人事体制の意味を語り始めた。

「そこに公も、近く……」

 長行もその一員に加わる筈だと匂わせた。月見にふさわしい長閑(のどか)な口調だった。

 二人の乗った舟は、右手、南岸の三千二百九十三坪の会津藩抱屋敷の門前をゆるやかに過ぎるところで、息軒はそれとなく指を差して見せた。その奥には一橋家が広大な下屋敷四万五千九百二十一坪を擁している。なにやら、息軒はこの屋敷に合わせて、話柄を選んだようだと、長行は思った。時々、息軒は洒落たことをする。

 そのすぐ先、左手に見えてきた五本松は、九鬼(くき)家下屋敷に生じた老松が大きく枝を張り、塀を越え、道を越え、川面にまで梢を延ばした江戸名松である。元は五本あったとも言われ、長行のこの時代、一本になっても人々から仰がれる巨松だった。

 ここまで正面に昇り始めた満月を望んで東に舟行し、南岸に広大な八右衛門新田をみる辺りで左に水路を取って横十間川に入った。

 八町ほども北上して、清水橋をくぐると左に竪川に入り、満月を舟の後ろに、西に舟をやった。時折、舟の舳(へさき)から飛沫(しぶき)が上がり月の光にきらきらと輝いた。二人は、時局を語り、幕府の狙いを論じ、板倉、水野、両老中の人物を評し、これからの時勢を検討した。時に、月の光をあびて静かに杯を交わした。

 一つ目橋をくぐって大川の流れに入ると、さすがに川幅が格段に広くなった。左手東岸、満月の下に御舟蔵の広大な構えに木立が黒々と続くのが見えた。正面には長さ百十六間(二百十メートル)、新大橋が東西に架かり、西の対岸の橋畔が三派(みつまた)と呼ばれる月見の名所である。

 箱崎川が大川に注ぐ中州の周りを幾艘もの月見舟が緩(ゆる)やかにめぐるのが眺められた。皆が皆、空高く昇った曇りなき満月を堪能している。国は危機に面し、幕府は土台が揺らいでも、月の美しさは変わらず悠久という詩興は、息軒も口には出さなかった。

 長行は、船頭の親父に言って、うろうろ舟に天婦羅と田楽を注文させた。このあたりは月見の舟が多く、うろうろ舟があたりを漕ぎ回って大いに繁盛している。うろうろ舟の親父が天麩羅を揚げるのを待って、二人は熱々の鯊(はぜ)を天つゆにくぐらせ、互いの健啖ぶりににんまりとした。

 三つまたの中州真向かいには、佐倉藩堀田家上屋敷の赤い門が月の光にうっすらと見えた。長行は、息軒が堀田家上屋敷を間近く眺めるのを見て、同じことを振り返っているとわかった。

 堀田正睦が筆頭老中として京に上り、ついに勅許を得られず空しく江戸に帰ってきたのは、四年前、安政五年(一八五八)のことだった。長行は、堀田が江戸を出達する朝、雪がしんしんと降っていたことをはっきり覚えていた。

 堀田の帰府から四日後、井伊が大老についた。二ヶ月後には日米修好通商条約が締結され、その翌々日に堀田は老中を罷免された。唐津で遅れて知った安政五年の大きな政局を長行は振り返った。

今は堀田家藩邸になったが、元は安藤信正の屋敷だった。三つまた前の堀田家上屋敷を見るだけで、これまで矢継ぎ早に起こった幕府の大事件がいやでも思い浮かんだ。

 堀田の老中罷免後に、安政の大獄が起こり、大勢の者が死罪、流罪、謫居、罷免を仰せつかった。その怨みが極点に達し、二年前、井伊は水戸浪士に首を獲(と)られた。安藤は彦根藩を守って二ヶ月間、井伊の死を秘匿し病人として扱い通した。

 安藤は松平容保の協力をえて彦根井伊家、水戸徳川家が江戸で相撃つ惨劇を未然に防いだ。安藤は、井伊亡きあと幕府を支え続けた。あげくの果てに水戸浪士に襲われ、四ヶ月前に老中を辞めたばかりだった。三つまた前の堀田屋敷の転変には、これだけの幕府の混迷が重なっているのだと、長行は走馬灯のように振り返った。

 息軒は息軒で思うところがあった。自ら奔走して世に出した明山公子こそが、このような激しい時勢にうまく幕府を導いてくれるだろうと、祈りにも似た切なる思いを新たにした。背山亭で清貧の中に文人として過ごす豊かな人生を長行から奪ったという自覚があった。幕閣の道の果てに栄光が待っているとは期待できないことを知っている。

 ――おそらくは公も同じ想いを抱き、そのために寡黙となられているのだろう

 息軒は、一点の曇りなき中秋の名月を仰いで思った。公とは思うことが同じだと、言わず語りにわかっている。月を愛(め)で、いい舟行だったと思い、黙して文人同志、心通う杯を莞爾と挙げた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」七節「月に乾す杯」(無料公開版)

二章七節「月に乾す杯」
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