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第二章 重藤の弓―長行 

 

一 未来に射る矢 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 朝まだき、本所深川の町は元旦に降った大雪で、一面、真っ白だった。小名木川(おなぎがわ)の落ち口に近いほうから万年橋、高(たかばし)が架かり、あたりは大名屋敷や密集する町家(まちや)に深く雪が積もっていた。次第に川霧がうすれゆく中、東西に伸びた川筋が浮かびあがり、万年橋の高(たかはり)の橋脚がおぼろ気に見えてきた。

 水路が縦横に通ずる付近一帯では、橋の畔(ほとり)の舟(ふねがかり)で川波がたぷたぷと舟べりを打って、夜明けを待つかのようだった。じきに荷を積んだ舟が行き交い、寒いながら活気あふれる町に戻るまでの早朝の静かなたたずまいだった。

 満潮で水面がひたひたと高まり、潮の香が感じられた。大川の上に開(ひら)けた空では、群れた鷗が長い翼を広げ、冷えきった大気のなかをゆうゆうと飛び始めた。大川対岸には明けの空に白い富士が遠望され、江戸城三階櫓(やぐら)の脇に端正な高嶺が際立って見えた。

 陽が昇りくると、大名屋敷の大屋根に積もる雪が少しずつ朱(あけ)に染まり、明け初(そ)めの朝が神々しく変わり始めた。今日も寒い一日が始まろうとしていた。

 

 唐津藩小笠原家の下屋敷は、小名木川に架かる高橋(たかばし)の北詰めを一筋北にへだてた一角に建ち、鬱蒼とした木立を擁して一万坪を構えていた。文久二年(一八六二)正月四日、黎明の中、小笠原長行(ながみち)は邸内の林間の小逕を垜(あずち)に向った。外桜田の上屋敷で行われる藩主主催の弓始めの前に、これまでの習慣どおり、一人の弓初めを行なうつもりだった。

 ――唐津にいた三年間を除いて、今年で十七回目じゃ

 脳裏に来し方を思い年初の感慨を呟いた。

 林間に積もった雪に一筋の道が踏み固めてある中、先導の後ろを長行が歩み、そのあと二間の間をおいて、昔からの少数の近侍が従った。

 凍てつく空気に息が真っ白となり、新春に心が引き締まるのを感じた。左右の木立の奥では、時折、巨木から梢(こずえ)すべりに雪塊が落ちて大きな雪音をたてた。鳥のさえずりがところどころで聞こえ始め、早朝の寒気があたりを包んでいた。

 長行は小ぶりな門松が立てられた弓射舎に着くと、真新しい杉手桶に汲んだ神水で口と手を清め中に入った。射場に設けた白木の神棚に誠心を籠めて真榊(まさかき)を捧げた。手拍が朝の静寂に響きわたり、長行は小笠原礼法にのっとり粛々と手順を踏んだ。

 澄みきった大気の中、心が静まりゆくのを感じながら射場をゆっくりと眺めやり、紋服の弓手(ゆんで)(左手)を肩脱ぎに脱いだ。脇に恭(うやうや)しく片膝に控える近侍から、弓と矢をおもむろに受取り、静かに正面の的を向いた。弓は由緒の染みた重藤(しげとう)で気に入りの逸品だった。矢は塗籠めの黒漆篦(くろうるしの)に鷹の雪白羽(ゆきじろば)を矧(は)いである。

 雪に覆われた矢道の十五間先には、桜材を削り出した振々(ぶりぶり)の的が長さ一尺二寸、八角の面に松竹梅の絵模様を彫って、左右から紅白の組緒で端然と吊ってあるのが見えた。

 長行は手を腰に添え、わずかに屈体して揖(ゆう)をとった。揖は弓射における神式の辞儀で、弓手に弓を、右手に矢を保持し、こぶしを腰にあてがって射場と的に向って拝礼をなす。その恭(うやうや)しい心と所作から、弓射の一連の動きが始まる。長行は、この儀礼によって己の心を平静に保つのだと思い定め、敬虔(​けいけん)な心を籠めて射場に敬意を表した。

 揖を終えると、乙の気合の足作法で左足を太く踏まえ、ゆっくり右足を払って広く踏み開き胴造りに入った。弓構えまで流れるように自然な動作を続けた。

 肘をわずかに張って手を腰に備え、左肩から弓手、腰、右手、右肩となだらかに円を形作り、円相の弓構えで不動の体勢を取ると、長行の息遣いが穏やかに通(かよ)った。矢番(やつが)えから取懸けて、視線を篦(の)に添って板付(いたつき)から十五間先の的に向けた。

 数呼吸の十分な間合いをとったのち、腹に息を収め、腰と足裏に気合を籠めた。長行は、的を見詰めながら、弓手(ゆんで)の手の内に弓を持ち右手に矢を押さえる姿勢に入った。

 虚空に香一炷の立ち昇る気韻をもって斜め頭上に静かに構え、弓の打起こしをとった。肩の線、腰の構え、両足の開きはまさに地に平行、的を見通す視線は鋭く定まり、静中動の姿勢が澄(すみ)を求めて凛々しい気配が辺りを払った。

 一挙手一投足を揺るがせにせず基本に忠実、一点の隙のない構えをとりながら、長行は心が澄むのを感じた。何も衒(てら)うものはない。幼少から体の覚えた動きはなめらかで、一切の無駄を除いた所作になった。

 ここから、十分にふた息を吸ってなだらかに引分けに入り、左の手の内で的に向けて弓をきりきりと押し開き、右手は肘が曲がるにつれ弓をしぼり徐々に緊張を高めた。

 押大目引三分の一まで弓を虚心に引いて弓勢(ゆんぜい)の力の振り分けを変えながら、弓手を的に向けて力強く伸ばし、右腕で弓をしぼって満ちるまで引いた。

 筋肉がきりりと締まり、張り詰めた姿勢でじっと弓を保った。目は的を無心にとらえて神韻として会に至った。右肘を静かにしめ、右大指を十分に撥(は)ねて離れの因を完成させていく。心身合一、機が熟し、全身の気合が体の中心一点に横溢した感を覚えた。

 伸び合いのうちに満を持し、その瞬間、弓が自ずと放たれた。無心で自然の離れだった。弓は冴えた弦音を発して弓返りし、矢は十五間の距離を一気に飛翔して的に突き立った。凍てつく大気を切り裂き、一筋の無我の精神が閃光のように矢道を駆け抜けたと見えた。

 長行は、しばしの間合いをとって張り詰めた空気を和らげ、一矢を一生一度の矢と思い定め悔いなき弓射をなしたかと心静かに自問した。長行の心の澄(すみ)が残身となって気息が平らぎ、弓倒しのために引き回した弓の末弭(まつじ)が冷えた空気の中、鋭く地表をかすめた。

 今年がどのような年になるのか、長行は、全霊を籠め未来に向けて唯一本の矢を放ち、己一人の弓始めを終えた。幔幕の外で、梢から雪の落ちる音がまた響いた……

 

                            *

 

 小笠原という家は古い。先祖は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光まで遡(さかのぼ)り、そのひ孫に至って、甲斐武田氏の祖信義の弟に当る遠光(とおみつ)が家祖である。遠光は源平の動乱期、信濃守を号して華やかに活躍した。

 遠光の次子長清は甲斐国巨摩(こま)郡小笠原村に拠ってこの姓を始め、承久の乱には中山道方面の大将として幕軍の大兵を率い、京都に進軍した。際立った武威の一族だった。

 この後、騎射乗馬礼法の家伝を確立し、この芸をもって鎌倉幕府に仕えた。武士は常に美しくあらねばならぬという、考えようによっては不思議な意識を育み、武と美を兼ね備える誉れ高い家となった。

 時代は下って鎌倉時代の末、小笠原家は足利尊氏に従って堂々たる勲功を立てた。鎌倉幕府が滅亡した後、信濃安曇(あずみ)郡に領地を安堵されてからは、松本平を根拠地とし隆々と栄えた。

 戦国時代に林城に蟠(ばんきょ)し、深志城など多くの支城を要所に配して安曇野の地に威光を輝かせた。天文年間、小笠原長時は信濃に侵攻する甲斐の武田晴信に対抗し、村上義清と組んで反武田勢力の一方の旗頭となった。武田勢に痛撃を与えたこともあったが、ついには桔梗ケ原の戦に破れ亡国の憂き目をみた。

 晴信は同族の故に長時に降参をすすめたが、小笠原家は京に出て将軍近く仕えた誇りを持ち、武田の下風には立たないと、降伏を拒んだ。ついに信州は武田の領国となり、長時は蘆名(あしな)家の治める会津に逃れ逼塞したと家譜は伝える。

 時を経て、小笠原家は武田勝頼滅亡後、苦心の末に深志の地によみがえり、その後、豊臣、徳川、北条、上杉の大国の狭間(はざま)で揉みに揉まれた。一度は、徳川配下の保科(ほしな)家を高遠に攻め、大敗を喫したこともあった。ここまで家史を遡(さかのぼ)れば、長行は保科家から出た会津松平家と三百年来の因縁があると言えた。

 ともかく、小笠原家は興隆した後、ひとたびは家を失いながら時宜を得て復興し、大勢力の大波を懸命に泳ぎ切って、ついに徳川家の譜代の地位に納まった。

 家系は幾度も存亡の淵に立ちながら長命を保ち、家伝には、その種の武勇談に事欠かない。家は粘り腰で容易に挫けない野性があった。江戸時代は、この家系から五家が譜代大名となった。

 そのうちの一つ、宗家に次ぐ石高を持ち、特に転封相次いだ家があった。長行の家である。譜代大名の常で転封をしばしば命ぜられた。それにしてもこの家は豊前杵築(きづき)、三河吉田、武蔵岩槻(いわつき)、遠江掛川、陸奥棚倉、肥前唐津の六地を転封して回り、今日(こんにち)に至った。

 

 小笠原家が掛川藩の藩主だった頃、浜島庄兵衛なる大盗賊が藩領付近を荒し回ったことがあった。庄兵衛は五尺八寸の長身、月額(さかやき)濃く、引(​ひききず)一寸五分が苦み走った男前に凄みを与えていた。

 庄兵衛は豪家しか狙わず、不義非道な蓄財を奪って、困窮した民百姓に与えるのだと豪語する大盗で、大百姓と富商を恐怖に陥れた。庄兵衛は大規模な盗賊集団を率い、東は金谷から西は浜松今切あたりまで大胆に盗みを働き廻った。

 押入った家に高張提燈の二、三十張を持込み、明るくした中、顔を隠さず堂々たる物腰で盗みを働いた。家人は縛って殺さずというやり口だが、少しでも容色ある女を見れば必ず手籠めにしてから、ゆうゆうと引上げた。

 疾風迅雷の動き、義を唱える大胆不敵な盗み働きから何時の間にか日本左衛門の通り名で恐れられた。その鮮やかな手口と小気味よさが悪党どもに敬仰(けいぎょう)され、一時は一味総勢百人を超えた。

 出没した東海道筋は大名領、幕府領、旗本知行、寺社領が複雑に入り組み警察権が他領に及ばないため、その地を治める大名にも手が出せない有様だった。

 延享二年(一七四五)三月、とある晩に日本左衛門一味は、掛川領内大池村の豪商宗右衛門の息子と向笠村大百姓三右衛門の娘の婚礼の宴席に押入った。華燭の祝宴が大混乱におちいり、縛り上げられた新郎新婦、親戚家人が転がされる場に成り果てた。

 日本左衛門は、黒皮の兜頭巾(かぶとずきん)に薄金の面(​めんぼお)、黒羅紗(くろらしゃ)金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬(くろちりめん)の小袖、黒繻子(くろじゅす)の小手脛当という豪儀な黒尽(づ)くめのなりに、銀作りの太刀を帯び、手には神棒と唱える六尺有余の樫の六角棒を握ったと古記は伝える。やや小首をかしげて床几にどっかと構え、盗みの指揮を執った。

 一味は宗右衛門の千両を奪っただけでなく、気立てよし器量よしで近隣に評判だった花嫁をはじめ、一家親族の女をことごとく手籠めにした。宗右衛門は、この半年前にも千両を盗まれたが、金銭的に蒙った二度の被害よりも、一家の女の屈辱が心にこたえた。この恨みを晴らしてくれんと、江戸北町奉行、能勢肥後守頼一に訴え出た。この時より、日本左衛門は幕閣の知るところとなった。

 日本左衛門を知った老中堀田相模守正亮(まさすけ)が火付盗賊改の徳山(とくのやま)五兵衛秀栄(ひでいえ)にその捕縛を下知した。五兵衛は地道な探索によって、日本左衛門の配下を徐々に捕らえていった。これまでは主殺し、親殺しに限って人相書を発行してきた前例を破って、幕府が盗賊として初めてその人相書を公開し、ついに日本左衛門は全国に人相の知れたお尋ね者になった。

 幕府は、単なる盗みと言うにはあまりに大胆な事件のために、それなりに責任者を処罰する必要に迫られた。被害地域は浜松藩主松平家、横須賀藩主西尾家、掛川藩主小笠原家、相良藩主本多家の各藩領に及んだ。江戸城内で様々の政治力学が働いた末、延享三年(一七四六)、小笠原家は陸奥棚倉(たなぐら)に、本多家は陸奥泉に転封になった。

 両家の転封に懲罰的な意味合いを込め、盗賊召捕り不行届きとして咎めるものだった。特に、棚倉は公称六万石、実収は四万石そこそこという地味の瘠せた領地で左遷のためにあるような藩領だった。

 当時、掛川藩六万石の小笠原藩主は土丸君(ぎみ)と呼ばれる三歳の幼童だった。幕府から無理筋に近く見せしめのような責めを負わされて棚倉に追いやられた。以後、七十余年、小笠原家が財政的に散々に苦しむ始まりとなった。幕府始まって以来の大盗とは言え、たかが盗賊にこうした目に合わされる屈辱は、小笠原家中に沈潜した。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」一節「未来に射る矢」(無料公開版)

 

 

 

 

 

 

 

二 数奇なり 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 小笠原家の転封から明けて延享四年(一七四七)二月四日、日本左衛門は、京都所司代牧野備後守配下、京都町奉行永井丹波守の玄関先に悠然とあらわれ、堂々と名乗って出た。そのいでたちは、黒繻子の小袖の下には小紗綾(こさや)の浅黄(あさぎ)無垢(むく)に羽二重白無垢を襲(かさ)ねた二重の襦袢(じゅばん)、これに金もうるの帯を締めていた。鶏の蒔絵細工の印籠、巾着に珊瑚珠の大玉緒占め、象牙の根付、黄羅紗の鼻紙袋、金拵(きんこしら)えの大脇差、金骨の扇子などを持って、大層な物ごのみで罷(まか)り越したと伝わる。

 奉行所に詰めた同心、与力が呆気に取られ、一瞬の後に、はっと我に返り、門を閉ざせや、人を集めよ、とひしめき立ち騒ぐのを尻目に、

「自ら名乗りをあげた上は、逃げも隠れもするものではないわいっ」

 役人どもを冷笑し低い声で一喝するや、その気迫に、あたりはしんと押し黙った。

 数日間にわたり永井丹波守がお白州にて自ら細かに吟味し、その最後に自首した理由を問うと、日本左衛門は、天網恢恢(てんもうかいかい)(そ)にして漏(も)らさずと老子の一節を引用し自身の心境を朗々と述べるに及んで、お白州は静まり返って寂として声がなかったと伝わる。

 幕府は、この月、強盗の処罰法度令を発布してかろうじて為政者の体面を保った。その後、日本左衛門は、斬首、獄門となって、幕府空前の盗賊事件が終わった。小笠原家中は一連の騒動のあらましと賊の処刑を陸奥棚倉の地で聞いた。

 

 小笠原家が棚倉から逃れ出たのは七十年後、文政元年(一八一八)、水野忠邦が自ら望んで唐津から転封になったあとに移されたためだった。唐津藩は公称六万石、しかし、その内実は二十六万石とも噂され、物成りのいいことで知られた領地だった。しかも長崎御固(おかため)十八家の一つで長崎警固以外の諸役は御役御免とされ、長崎で得られる隠れた利得は莫大である。水野家がこの地で満々と富み栄えたのも当然だった。

 この地を懇望しない大名は一人もいない。ただ一つ、唐津藩に難があるとすれば、長崎警固の職責に専念させるため長崎御固(おかため)大名を閣老に取り立ててはならないとする幕府の慣例だった。特に、水野忠邦のように若い頃から老中を目指す野心家にとって、唐津がいかに膏(こうゆ)の地であろうとも、自らの志望を伸ばすには致命的に不都合な藩地だった。

 こうして小笠原家は奥州棚倉で七十年余を過ごし、今度は豊かな領地に移ることになった。家中が喜びに沸いてもよさそうなところ、棚倉時代に積もりに積もった二十三万両の大借金のために転封の費用さえままならなかった。棚倉から遠路、青息吐息の体たらくで家臣団が唐津にやっとのことで辿(たど)り着いた。

 時の藩主は主殿頭(とのものかみ)長昌(ながまさ)といって、このとき二十三歳。棚倉に転封を命ぜられた土丸、成人した後の長恭(ながゆき)の孫にあたっていた。

 唐津転封からから四年が経ち、文政五年(一八二二)五月、長昌の妾腹に行(みちわか)が生まれた。長昌は翌年、早くも二十八歳にして江戸外桜田の上屋敷で死んだ。唐津には、行若が二歳にして舞鶴城天守下に広がる御住居曲輪(おすまいぐるわ)に残された。

 唐津藩は長崎御固のために諸役一切御免である。裏返せば、それほどに長崎警護に専念せよと幕意が籠められている。肥前鍋島家三十六万石と筑前黒田家五十二万石の大藩が防衛の主力を担い、譜代の唐津小笠原家と島原松平家が監察となる体制だった。

 唐津藩主と島原藩主は、毎年一回、必ず隔番で自ら長崎を巡視し、その動静を幕府に報告するよう義務付けられている。その職責の重要性のゆえに十七歳以下の幼少の藩主を一切認めない。小笠原家は長昌を喪(うしな)い、もし二歳の幼童に家督を相続させれば、唐津に移り僅か五年で再度、転封しなければならなくなった。

 老臣たちは悩んだ。再度の転封費用はなんとしても捻出できず、挙句の果てに、あろうことか、行(みちわか)を聾唖(ろうあ)の廃人という体(てい)につくろって幕府に廃嫡届を提出し、庄内酒井家から六男長泰(ながやす)十八歳を貰い受けて長昌の末期養子とした。こうして唐津藩の家督が繋がった。

 その長泰は病弱で、はやばやと養嗣子長会(ながお)に家督を譲り、長会がまた二十七歳で早死にし長和(ながよし)を末期養子に取った。この長和がまたも早死にし養嗣子に迎えた長国が跡を継ぐという具合だった。長昌早世の後、十八年間に長泰、長会、長和、長国と四人の養子藩主が立った。不自然な家督相続であることは否めない。長国は廃嫡された行(みちわか)、長じて長(ながみち)より二歳の年下でさえあった。

 長行は小笠原家の正統の血筋を引くというのに、家中の多くから黙殺され、幕府はその存在すら知らなかった。長行の人生は、初めからおかしな具合に漂い始め、止め処(ど)なく浮遊して、もはや世にでる機会など考えようもなくなった。どこか運命が掛け違ったとしか言いようがなかった。

 

                             

 

 長行は長ずるにつれ、小笠原家の来(こ)し方と己(おの)が生い立ちを知って愕然とした。かつて藩は、大盗賊が領国を荒らしまわってもこれを捕縛できず、その不行届きを咎められ僻陬(へきすう)の地に追われた。家中はこの瘠せ地で貧窮して借金を重ね、その後、富裕の地に移ったのも束の間、長行は幼時に父を喪(うしな)った。

 唐津藩は幼い藩主を許されず、長行は聾唖の廃人と幕府に届けられた。聾唖のために他家に養子に出るわけにも行かず、他家から来た養子藩主の厄介になって、生涯、飼い殺しの身上に甘んじなければならない。何と言う宿命であろうと長行は思った。理不尽の余り、怒りの持っていきようがなかった。

 天保四年(一八三三)、小笠原家の血筋を引く長行を世子につけようと、老臣らが十二歳になる長行を連れて江戸に上ったことがあった。老臣らは、廃嫡届を破棄し世子につけてくれるよう老中水野忠邦に願い出た。

 水野は長行の嫡母の兄だったものの色よい返事をなさず、素っ気なく断ってきた。老臣らは、血は繫がらずとも伯父甥の仲ではないかと憤懣を残し、一行は悄然と国許に帰ってきた。

 長行は生前の因縁と宿世(すくせ)の理不尽に落胆し、悲歎した。

 ――数奇というも悲運というも、これ以上、理不尽な境遇はない。あってたまるか

 唐津に帰って、長行は忠義を誓う少数の家臣から懇々と諭された。しばらくして何かが吹っ切れたかのように、長行は懸命の修練を自らに課し、四書五経と史書を学び武術に励む日々を始めた。当てがあるのではない、何事かを期すというのではない。しかし決して修練に倦(う)まなかった。

 長行は武芸に上達した。騎射を得意とし乗馬にかけて大名の中で出色の技量だと、見る者は見た。正統の小笠原流を身に付け、美しき武勇を体現する見事な若武者振りだった。

 長行の気品高い書にしても、小笠原流弓術の折目正しい身のこなしに通じ、傷心を吹き飛ばすためひたむきに体得した教養だった。

 長行の闊達は弓術の潔さと通ずるものがあった。人が見ずとも精一杯の弓を引き、何人(なんぴと)が見ても力量以上の弓を衒(てら)わない。将来の望みは全く持たず、かと言って拗(す)ねもせず、淡々と明朗で、素晴らしく頭の切れる眉目秀麗な若侍に成長した。

「その御心術、見事なり」

 忠義を立てる近臣だけが思っていた。

 

 天保十三年(一八四二)、著しく学問の進んだ長行は唐津から江戸に移った。深川の小笠原家下屋敷一万坪に住むことになってようやく長行の願いがかなった。屋敷は、小名木川高橋(たかばし)北岸にあって、広壮な敷地の片隅に、小さな茶室からなる茅葺(かやぶき)屋根の書斎を修築して住まいとした。 

 藩主厄介という曖昧で、決して未来に繫がらない立場にふさわしく、質朴な居所だった。なにより、母屋とは没交渉の位置に建っていた。長行は学問をするのに十分だと、すっかり満足した。

 下屋敷の庭は合江園と呼ばれ江戸でも屈指の名園と称えられていることを知った。本庭から始まる小逕(しょうけい)が樹々の間を抜けた先に長行の庵があった。露地の始まりに檜皮葺(​ひわだぶき)の中門がささやかな佇(たたず)まいで客を迎えた。小ぶりな編笠屋根の下にごく簡素な風合いの扁額を掲げ、長行の達筆で背山亭(はいざんてい)と読めた。

 国許で愛される領巾振山(ひれふりやま)は古代史に彩られる哀話で名高い。山頂からは虹の松原の向こうに唐津湾の明るい海を見渡せる。

 

    遠(とお)つ人 松浦(まつら)用比賣(​さよひめ) 夫恋(つまご)ひに

       領巾(ひれ)振りしより 負(お)へる山の名

 

 万葉集巻之五にこんな一首がある。小夜(さよひめ)は、新羅(しらぎ)征討軍を率いる将軍、大伴狭手彦(​さでひこ)と恋仲となった。出航の日、唐津の浦を埋め尽くす大船団の中、ひときわ大きな大将船に、この山から涙ながらに別れの領(ひれ)を振ったと伝わる。

 長行は背山亭の亭号を撰び、故郷の名山に拠る己の心意気を艶めかしく示した。さらに、本来の山名、鏡山(かがみやま)の「鏡」に通ずる「明」を以て自らを明山と号し、二十一歳の新天地をここ深川に得た。

 長行はこの庵居で数人の家臣と家僕を使い、月僅か十五両の捨扶持で暮らした。その境遇で充実した日々を送った。儒学は松田迂仙に師事し熱心に学んだ。

 迂仙は高崎藩の儒者で、藩主松平右京亮の右筆とその世子の侍講を勤めた経歴をもつ。のちに藩のごたごたに巻き込まれ、重臣から疎(うと)まれたために藩を退去した。自由の身となって私塾を構え、多くの門人を育て上げた。門下三千と称され、名文、達筆、流麗を極め、栄達を度外視して志操一世に鳴った。

 迂仙は長行を大いに気に入り、経史を講じて夜を徹することがよくあった。時に背山亭に泊まって長行と枕を並べ、床に就いた後も暗闇の中で経史を語って倦まない師弟だった。

 長行は学問が進むにつれ、持って生まれた英才がいよいよ磨かれた。その謙譲な人柄と好学の志は迂仙の口から次第に在府の学者に知られるに及んで、人縁は機縁を結び、同声相応ずるように、当世知名の学者が陸続と深川高バシの背山亭を訪れるようになった。

 長行は、羽倉簡堂、藤田東湖、塩谷(しおのや)(​とういん)、安井息軒、藤森弘庵、西島秋帆など錚々たる人物と親交を深める機会に恵まれた。長行には、大名の子という気負ったところはとうになく、学問の先達に恭(うやうや)しく教えを請う態度に終始した。背山亭を訪ねると、長行の配慮が清貧の中に満ちて、どの学者も颯颯(さっさつ)と涼風の吹き渡る心地よさを感じた。

 長行を訪ねる客は、東向きの裏門から下屋敷邸内に入る。柴唐戸を抜ければ合江園の片隅の小逕が林間に通じて客を背山亭に導いた。主屋の目に触れることはない。

 通される書斎は墨香漂う簡素な造りだった。障子を開ければ、眼前には合江園の景観が梅の老木の木ノ間隠れに広がり、水鳥が泉水に遊ぶ姿を見渡せた。

 訪れた客は、背山亭が天涯在りのまま、合江園の一点景となって庭園の風趣に溶け込んでいると感じるようだった。書斎からの庭園美に見惚れ、しばし時を忘れるのが常だった。庵(いおり)で学問を語り、文事に浸(ひた)ることは長行を訪れた学者の楽しみだった。

 合江園は、吉田藩時代、藩主小笠原忠知に召し抱えられた茶人山田宗徧が、後年、ここ深川下屋敷に作庭した名園だった。宗徧は若くして、千利休の孫、宗旦に師事し、宗旦から利休伝来の四方釜や古渓和尚筆「不審庵」の額などを与えられた。ついには、不審庵、今日庵の庵号を使う事を許されるほどの茶人に成長した。もはや宗旦の分身と言ってよく利休の茶の正統を継ぐ茶人になった。

 宗旦自らは、藩主、小笠原忠知に請われても高齢を理由に茶頭仕えを固辞し、代わって推挙したのが気鋭の二十九歳、山田宗徧だった。明暦元年(一六五五)というからよほど古い。

 長行が聞かされた話では、宗徧は、後に、森羅万象に相対する茶人の全霊を合江園に注ぎ、景観の随所に際立った工夫を凝らしたという。長行の目にも、眺めるほどに、この庭園の卓越した設計思想が感じ取れる気がした。宗徧の設計は、広闊(こうかつ)にして幽(ゆうすい)、艶(えんや)にして峻厳(しゅんげん)、華やぎの綾(あや)と侘(わ)びの締(し)めとを巧みに配し、精神性と渾然となった深い情緒を庭園に表現してあるように思えた。長行はその心のありようを学びたいと思った。

 微視すれば一木一草の生命(いのち)のいとおしさが胸に染み、巨視すれば壮大な自然の力強さが真理を語り、新たな発見と驚きが庭に織り込まれてあるように見えた。刻一刻と生命が転変し四季折々に自然がよそおいを変える哲理が、限られた天地に精妙に配され、観る者に大きな何事を伝えているに違いない。いささかでも茶事に心を寄せる大名のなかで、つとに有名な庭であるのも分かる気がした。

 それだけではない。宗徧はその晩年において、偽名を騙(かた)った赤穂浪士、大高源吾に弟子入りを許した。一見おずおずとしていながら実は策意を含んだ源吾の問いかけに、元禄十五年十二月十四日に吉良邸の茶会に招かれていると正確に答えてやったことが赤穂浪士討ち入りの名だたる一挿話だった。

 今となっては縹渺(ひょうびょう)とした時の流れに埋もれた話だと長行は思う。案外、この茶匠は大高源吾のたくらみを十分わきまえたうえで、人間の大きな営為に一点景を添えたのかもしれなかった。取りとめもなく、庭にまつわる話を振り返り、景色を眺めるのが長行の楽しみの一つとなった。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」二節「数奇なり」(無料公開版)

二節「数奇なり」二章「長行」
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