四 築地鉄砲洲 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照
作左衛門は、佐十郎の江戸滞在にお目こぼしを得たことをいいことに、これまでどおり佐十郎を片腕として仕事に当たらせた。時々、長崎奉行から佐十郎を返してほしいと若年寄の堀田に要請があるらしい。『新鐫総界全図(しんせんそうかいぜんず)』が完成したのだから、もう佐十郎を返してくれてもいいではないか、と恨みがましい愚痴を聞かされるという。作左衛門が登城するたび、苦笑を浮かべた堀田から佐十郎の様子を尋ねられた。
作左衛門は、来年には『新訂万国全図』の刊行が控えているなど、あれこれ理由を構えて佐十郎の帰郷を是が非にも断ろうとした。この大判地図こそが『新鐫総界全図』の試作を経た最終目標だった。ほかにも多くの仕事が佐十郎を待っている。今ここで、佐十郎を失うわけにはいかなかった。
これほどの男を長崎だけの視点で使うことなどあってはならず、日本全体の立場で活躍させなければならないと、常に作左衛門は堀田に建言した。堀田もそうと認めた。老中支配の長崎奉行と、若年寄支配の天文方とは幕府内で異なる指揮系統に属す。
「まあ、事を荒立てず、長崎奉行とうまくやれ」
堀田は作左衛門ににやりとしながらも、しかと命じた。
佐十郎は、幕府から蘭語塾開講に許可が下りたと聞いて、ついにその日がきたことを知った。満を持して塾を開く運びとなった。さらに嬉しいことに、天文方の所員以外、志ある蘭学徒に門戸を開くことも許されたという。佐十郎は、喜色を浮かべて伝える作左衛門に深く頭を下げた。
佐十郎は塾に三新堂と名付け、新しく三つの方針で蘭学を教授すると志を込めた。一つ、蘭語文法を中心に据え、これに沿う体系的読解を教授すること、二つ、蘭学を通して欧羅巴(ようろっぱ)人の世界観と動向を知ること、三つ、日本の行く道に誤りなからしむるよう、外交がわかり、外交ができる人材を育てること。二十三歳佐十郎の志だった。
魯西亜(おろしあ)から北辺を劫略(ごうりゃく)されて人が死に、英吉利に長崎港を蹂躙されて長崎奉行が腹を切った。勝手放題に振る舞う欧羅巴の国々に立ち向かうには、相手国を知らねばならず、知って堂々と交渉せねばならず、交渉して相手の非を咎(とが)めねばならず、咎めながらも戦を避けなければならず、そこに己の力が役立つのではないかと、真剣に考えた末の志だった。とは言え、己が外交に関わったことはない。己も皆と共に育つのだと決意を込めた。
三新堂は蘭学を志す者の間でたちまち評判となり、朝早い会読に大勢の者が参加した。夜明け前に家を出てくる者も珍しくなかった。その中に、神谷(かみや)弘孝(ひろよし)、通称、源内という男がいた。豊前中津藩十万石の藩士だった。ある日、講義とは別に是非とも話をしたいと申し出を受け、佐十郎は神谷と天文屋敷の座敷で会談した。
源内は、中津藩主、奥平昌高公の側近として、主従共々、蘭学を学んでいるという。昌高公は源内を三新堂に学ばせ、源内は佐十郎の講義を藩主に伝え、主従共々益するところが多いと、佐十郎は感謝の言葉を受けた。なにくれとない話を交わし、佐十郎に篤い信頼を寄せていると語って、源内は帰って行った。佐十郎が大名蘭学者と付き合い始めるきっかけとなった。
その後、佐十郎は何度も鉄砲洲の中津藩中屋敷に招かれ、昌高と源内と親しく語り合う仲となった。そんなある日、佐十郎は昌高から日蘭辞書を編みたいと相談を持ち掛けられ、協力を頼まれた。佐十郎は毎日、多忙を極め、気にはしていたが辞書編纂までは手が回らなかった。
――こん申し出は蘭学界にはよか機会ばい……
佐十郎は、奥平昌高、神谷弘孝主従が主体となって編纂作業にあたるのを手助けするほどのことなら、やれるかもしれないと思った。
佐十郎は、昌高の依頼を承知すると、これまで書き溜めた蘭語帳を源内に貸し与えるところから開始した。昌高、源内主従は、これを精査し、整理することに没頭した。幾度となく佐十郎の教えを請うて疑義を明らかにしながら編纂作業を進めた。昌高と源内が収集した蘭単語も入れ込み、佐十郎がVoorrede(序文)を蘭語で書いて、文化六年も終わろうというころ、『蘭語訳撰』が脱稿した。
『蘭語訳撰』は日本語を伊呂波(いろは)順の配列の下に、天文、地理、数量、身体、動物、植物など十九項目に分類して一語一行で日蘭対訳語を示し、蘭単語七千七十二語を収録する日蘭辞書だった。表紙は蘭語で表記され、Landschap Nakats Minamoto Masataka と中津藩主、源昌高の名が編者として書かれ、Kamija Filojosiと 神谷(かみや)弘孝(ひろよし)の名が共著者として下に並んだ。
最初の単語は、伊の部、天文の項目に配列された「Ondergaande zon」に対し、 納日(イリヒ)(入り日、日没)という日本語が挙げられていた。この辞引きは刊行されて江戸の諸侯に広く出回り、趣味が嵩じて蘭和辞書まで編んだ大名の主従と、それを助けた蘭学者の名が諸大名に知れ渡った。一歩ずつ蘭語の学習環境が整っていった。
*
文化七年(一八一〇)、佐十郎は相も変わらず多忙な年を迎えた。この年、ドゥーフが将軍に拝礼するため参府してきたことは格別な出来事だった。一行は二月二十九日、江戸に到着し、出迎えは当然のことながら佐十郎の役目だった。佐十郎は、懐かしい人々に再会する嬉しさをつくづく感じた。
商館長ドゥーフが随員の筆者(シケレイフル)ジルク・ホゼマンと上級外科医(オップル・メイストル)ヤン・フレデリック・フェイルケとともに参府し、江戸番大通詞中山作三郎と江戸番小通詞馬場為八郎が付き添って来た。佐十郎に英語を教えたブロンホフは出島に留守居役として残り、再会はかなわなかった。
夜、佐十郎は大槻玄沢、高橋作左衛門らに同行し本石町三丁目の長崎屋を訪ねた。ここが和蘭陀(おらんだ)人の出府で定められた宿舎になっている。佐十郎はドゥーフらと二年ぶりに、そして父とは一年ぶりに再会した。積もる話が多くあって、酒の出た座はくつろいで和やかな雰囲気に包まれた。
この晩、医学や、広く欧羅巴の社会や国情について質疑応答が交わされた。文化五年(一八〇八)八月、長崎で狼藉を働いた英吉利船フェートン号の船将がわかったとドゥーフが教えてくれた。
三月十七日には再び、佐十郎の通訳で会談が行われ、阿蘭陀の学校制度、病院のありかたなど、幅広い質問がとびかった。誰かが発言を始めると、即座に佐十郎が流れるように通訳を始め、会話が弾んだ。玄沢と作左衛門は目の当たりにする佐十郎の蘭会話力に肝をつぶして、あらためて驚きと賛嘆を惜しまなかった。
この日の最後、佐十郎はドゥーフに牛痘苗の状況を尋ねた。享和三年(一八〇三)残暑厳しい頃、初めてドゥーフから牛痘種痘のことを聞いてから、間もなく七年になる。
佐十郎が長崎を離れる一昨年まで爪哇(じゃわ)から長崎に牛痘苗が届いていないことは、長崎に住んでいたから知っていた。その後も届いていないことは、江戸に風聞が来ないから推測していた。
――一体、牛痘苗はどがんなっとんやろう
佐十郎は是非とも確かめたく、いくつか質問を発した。
「長崎に来航した阿蘭陀船は、一昨年は皆無、昨年は一隻。今年は来航するでしょうか」
「爪哇(じゃわ)総督府では牛痘苗を長崎に送ってくれるつもりでしょうか」
総督府がそのつもりでも、何らかの理由で船を仕立てられないなら日本に届かないことになると、佐十郎は懸念していた。
「なぜ蘭船が長崎に来航しなくなったのでしょうか」
質問は牛痘苗の範囲を越え、阿蘭陀のおかれた状況にまでつながる問いかけになった。
佐十郎の一連の問いに、ドゥーフは暗い顔つきで応じた。
「当分、見込みが立たない……」
短くつらそうに呟(つぶや)くだけだった。 佐十郎は、苦しそうな表情を浮かべたドゥーフを見て、阿蘭陀本国か、爪哇総督府がおかれた状況を想像した。
――よからんことの起きとうに違いなか
と、察した。懐かしい会合の最後に、つらい質問をしたことを詫びる思いで、がらりと話題を変え、再び、楽しい会話を盛り上げることに努めた。牛痘苗の来ないことに落胆が大きかったが、顔色にだすことを抑えた。
佐十郎は、この年、『和蘭(おらんだ)辞類訳名抄(じるいやくめいしょう)』を脱稿した。昨年から、大槻玄沢と協力して執筆にとりかかった蘭文法書で、恩師、中野柳圃から与えられた宿題でもあった。よく柳圃に言われたように、品詞を区別することが蘭文法を学ぶ第一歩だった。
それには、それぞれの品詞の意味と機能を明らかにして名称を定め、蘭文法を学ぶ諸生に混乱を起こさないよう整理しておかなければならない。ところが、そこが十分に手当てされていなかった。
佐十郎が江戸に住んで以来、玄沢と頻繁に行き来する仲になった縁で、ある日、玄沢から辞類(品詞)名称について相談を受けた。佐十郎には柳圃以来の志があったので、玄沢の強い勧めを受け背中を押されるようにして、研究することを約束した。佐十郎にしかできない仕事であり宿願だった。
佐十郎は公務をやりくりしながら何回も玄沢と討論し、マーリンとハルマの文法書をもとに、初めて品詞の訳名を定め、その釈義を論述した。寝る間も惜しんで著作に没頭し、ほとんど一年間を費やした。
文法用語、特に品詞名の日本語訳を一定化することを意図し、佐十郎が蘭文法を体系立てて詳説する始まりとなる著作だった。序文に文化七年仲冬望月と記し、十一月十五日付けとした。
この年の冬、上総(千葉県)、伊豆、相模(神奈川県)の三州では鮪(まぐろ)が夥(おびただ)しく上り、一日一万本を獲(と)るほどの豊漁が続いた。江戸の庶民は大喜びで、毎日のように立派な切り身や刺身を喰うた。佐十郎は、この著作の完成祝いに玄沢の招待を受けて、鮪(まぐろ)の刺身で祝杯を交わした。
佐十郎は、玄沢から研究をなしとげた感謝の言葉を聞き、今年も忙しかったと振り返った。気持ちよく盃を傾け、いよいよ来年はパームの文法書 『Nederduitsche Spraakkunst voor de Jeugdt 青年のためのオランダ語文法』の翻訳を完成させる決意を固めた。すでに構想を練って、題名を『西文規範』とすることを窃(ひそ)かに決めてあった。
この著作は、三新堂の塾名に込めた三つの志の最初の目標になる。佐十郎は玄沢とともに高く盃を挙げながら、来年、二十五歳にふさわしい確かな成果とすることを心に誓った。
文化八年(一八一一)三月朔日、天文方にショメール翻訳の命が下った。高橋作左衛門の待ちに待った下命だった。日本で云うショメールとは、フランス人神父ノエル・ショメールの編んだ「日用百科辞典」の蘭語版で、一七七八年(安永七年)にアムステルダムで刊行された「家庭百科辞典」七冊本のことだった。
フランスで好評を博し版を重ねて増補され、蘭訳版も重版となった。日本に舶来され、大槻玄沢もかつて『蘭学階梯』の中で重要な蘭原書にあげた辞典である。各巻およそ六百頁の大冊で、一般家政、博物、道徳、技術を広く扱っていた。
ショメールの広範多岐にわたる実利実用本位の記事は、日本人がヨーロッパ技術を大掴(づか)みに理解するのに最適だった。ただ、原書の刊行年からして、一七九八年に発表されたジェンナーの牛痘種痘を掲載していないのは当然だった。
天文方では、前年にドゥーフ所蔵の続輯一冊を銀六貫目(金百両)で幕府に買い上げてもらい、全冊を揃えることができたばかりだった。
前年に『新訂万国全図』が一応の完成を見てからというもの、作左衛門は江戸在任の長崎奉行から、佐十郎を返してほしいと言われることが多くなり、このままでは、天文方から佐十郎を失うことになりかねないと心配した。ついにショメール翻訳の新事業を若年寄の堀田摂津守正敦に上申し、承認をえたのだった。
この翻訳新事業は蘭学界にとって力を付ける絶好の機会であり、しかも長期間を要するため、その業務に任命すれば佐十郎が江戸滞在を続けるまたとない理由となる。まさに一石二鳥の手だった。若年寄を説得し、ことは作左衛門の思惑通りに運び始めた。
そして五月、作左衛門は天文方に「蕃書和解(ばんしょわげ)御用」と称する翻訳の一部局を新しく設けることに成功した。「地誌御用」の発展した部局だった。言うまでもなく、佐十郎が中心的な訳員となって幕府御用を担う。もう、長崎奉行にあれこれ言われないで済むはずだった。
佐十郎は、これから江戸の蘭学界を牽引するだけでなく、外国と実際の折衝をこなし、欧羅巴(ようろっぱ)から技術を導入する中心になれ、と作左衛門が期待を込めた人事だった。佐十郎の才を最大限、発揮させることが己の務めだと作左衛門は心得ていた。
幕府は、蕃書和解御用の組織によって、蘭書翻訳機能を内制化したことになった。一々、長崎奉行所にやらせなくて済む。この組織で、外交に関わる文書を整え、適宜、ショメールなどの蘭書翻訳を進めていく構想は、幕府の基本政策の一つに位置付けられた。
作左衛門は、堀田と相談しながら、江戸随一の蘭学者と目される大槻玄沢を新部局の訳員に加え、事業に、幅と権威と人脈を付与することを忘れなかった。玄沢、五十五歳、佐十郎とぴたりと息が合っていた。二人は早速、話合い、ショメール翻訳が幕府の歴史的な事業になることを意識して、翻訳方針について「訳編初稿大意」を起こした。
ここにショメール翻訳の由来と目的、原書の説明と内容、「厚生新編」という訳書名の来歴、出典などを詳述した。翻訳に当たり単なる逐語訳ではなく、独自の論考を加えて一つのテーマを広く解説する方針を示した。結尾に、「文化八年辛未之秋」と日付を記し「長崎和蘭(おらんだ)譯官馬場貞由」「仙臺醫員(せんだいいいん)陪臣大槻茂質(しげかた)謹議」と格式高く名を記した。
幕府最大の翻訳事業の概要が公式に成文化され、この年から弘化二年(一八四五)まで三十五年間にわたり時の第一級の蘭学者たちが営々と翻訳、著述を続けた。その名をあげれば、大槻玄沢、佐十郎のほかに、宇田川玄眞、杉田立卿(すぎたりゅうけい)、大槻玄幹、宇田川榕庵(ようあん)、湊長安(みなとちょうあん)、小関三英、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、竹内玄同(たけのうちげんどう)ら、文化、文政、天保、弘化から幕末にかけて、蘭学分野で日本を支えた人々だった。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」四節「築地鉄砲洲」(無料公開版)
五 ペトロパブロフスク 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
ロシア暦一八一一年四月二十五日(文化八年三月一五日)、ロシア海軍のスループ艦ディアナ号は船首斜檣(バウスプリット)に三枚の三角縦帆(ステイスル)を張って、ペトロパブロフスク港からしずしずとアバチャ湾に移動を開始した。時々、海氷を砕き割る音が湾内に鈍(にぶ)く響いた。ふとした瞬間に、長く厳しい冬が終わろうとする予兆を感じる頃だが、湾の周囲は白一色に閉ざされ、まだまだ荒涼たる冬景色を守っていた。
カムチャッカ半島東岸に口を開くアバチャ湾は直径二十二露里(ベルスタ)(二十四キロメートル)の円形の湾で、幅三露里(ベルスタ)の湾口を北太平洋に開く。この湾の北、湾口に近いあたりで深く入江が切れ込み、その奥がペトロパブロフスク港だった。天然の良港で、なにより素晴らしいのは、不凍港で船の越冬が可能なことだった。
官舎と倉庫がぽつんと建つだけで港の周辺に満足な民家はなく、貧寒たる土地が広がっていた。港内にはほかに船影もなく、座礁沈没した船が朽ちかけた三本の帆柱を天に突き出し、空しく傾いているだけだった。町に通りらしい通りとてなく、郊外に農園も牧場もない。たまに、襤褸(ぼろ)をまとった現地住民が寒々しく行き交うだけだった。
湾内のいずこからも、北にコリャーク火山と、そのやや東にアバチン火山が見えた。冠雪した三角錐の山が二つ聳(そび)え立ち、暗い北国の海を従える魔王のような威容を誇っていた。この二つの山は秀麗というより不気味に威圧的で、口の悪い水兵たちが、このあたりに悪魔が天幕(テント)を張ったのだと言うのも無理はなかった。
ディアナ号艦長ワシリー・ミハイロビッチ・ゴロウニン少佐は、『失楽園』に書かれた悪魔と天使の戦いの場面で、ミルトンが悪魔の陣営を描写する前に、カムチャッカの山を見ておけばよかったのに、と二つの高峰を見るたびいつも思った。
日中の平均気温はまだ三十二ファーレンハイト(氷点)を下回るが、来月を過ぎれば気温が上がる。
――北の平原は一気に早春の芽吹きに包まれるだろう
この地で二冬を過ごしたゴロウニンは、若緑に覆われた大地に、黄色や紫の花が点々と咲き誇る辺り一帯の春の素晴らしさを知っていた。その一方で、解氷期は雪解け水で馬車が泥に埋まり、小川でさえ水嵩を増して渡れなくなり、この地方は陸路が完全に途絶する厳しさも知っていた。
「そんな所なのだ」
ゴロウニンは独り言(ご)ちて、三角縦帆(ステイスル)の操帆を命じた。
ゴロウニンが皇帝からディアナ号を任されクロンシュタット港を出帆したのは、四年前、一八〇七年七月二十五日。クルーゼンシュテルンに次ぐロシア第二回目の世界周航の航海だった。ロシア船が択捉島と樺太の日本人を襲い、一矢報いた頃だったとペトロパブロフスク港に入港してから知った。
クルーゼンシュテルンが世界周航に用いた希望(ナジェージダ)号は英国で建造されロシアが購入した船だったが、ゴロウニンの乗船ディアナ号は釘の一本に至るまでロシア製で、自力の世界周航という壮図に込めた祖国の期待がゴロウニンにはよくわかっていた。
ディアナ号は、ロシアと敵対関係に入ったイギリスから南アフリカのケープ港で一年以上も拘留された。隙を見てここを脱出し、一八〇九年九月二十三日、二年余りを費やし、ようやくカムチャッカ半島ペトロパブロフスク港に到着した。ナポレオンを震源とする激浪渦巻く国際政治の海を航海してきたのだった。
ゴロウニンは、十四歳、海軍幼年学校在籍中に実戦に参加し、勇敢な戦いぶりに勲章を授与された。将来を嘱望される若き士官となって英国海軍に留学を命じられた。長い英国海軍勤務で、洗練された航海術と透徹した戦略眼を鍛えられ、ついに国の威信を賭けた世界周航を託されて艦長になった。ロシア海軍の若き星と目されていた。
ゴロウニンに与えられた任務は、太平洋北部の主としてロシア領内の地理学的探査測量とオホーツク港に各種の海軍用品を輸送することだった。日本との通商交渉は命じられていなかった。ましてや、日本に対する侵略的な意図は毛頭なかった。欧露がナポレオンによって緊張している時であり、日本との関係を平穏に保つに越したことはない。
ゴロウニンはペトロパブロフスク港に滞在した一年半に、全カムチャッカ沿海を航海し、さらにアラスカから北米大陸北西海岸を測量し、露米会社の多くの植民地に穀物を送り届けた。食糧難に苦しむ植民地が多く、食料輸送がロシア植民地経営の制約的要因である実態を知った。
この年四月に入って海軍大臣から命令書を受けとり、噴煙吐き(クリールスキー)列島(千島列島)の南部とシャンタル諸島周辺海域、および北緯五十三度三十八分以北のタタール沿岸からオホーツク港の間を正確に測量せよと命じられた。
五月四日朝、ゴロウニンはアバチャ湾にて天候回復の予兆を見定め、出帆を命じた。命令を発する口調は威厳に満ち、総員に向けて大音声を発する伝令員にも艦長の自信が伝わった。このあたりの海域は春から濃い海霧が発生するため、ゴロウニンは風と霧晴れを待っていた。
艦長の号令一下、士官、候補生、下士官、兵卒、総員五十一名が力を合わせて第二接檣(トップ・ガラント・マスト)を引き起こし、前檣(フォアマスト)と大檣(メインマスト)の展帆準備を始めた。最下段の前檣帆(フォアスル)と大檣帆(メインスル)に取り懸かり、檣楼(トップ)と帆桁(ヤード)の上できびきびと作業を始めた。接ぎ立てた第二接檣(トップ・ガラント・マスト)に中檣帆(トップスル)と第二接檣帆(トップガラントスル)を展帆すると、山から吹き下ろす冷たい風を受けて、ディアナ号はゆっくりと湾口に向かって進み始めた。
艦上では後檣帆(ミズンスル)を展帆し、いつでも副帆(スタンスル)を大檣中檣帆(メイントップスル)脇に揚げられるよう索具装着(リギング)の作業が続けられた。物慣れた掛け声が甲板(デッキ)と帆桁(ヤード)の間を勢いよく飛び交った。ディアナ号は三檣と船首斜檣(バウスプリット)に帆をまとい、次第に本来の雄姿を表わしてきた。帆は、北の風を満々とはらんだ。
二時間をかけず、乗組員総がかりで展帆作業をこなしたのを見て、ゴロウニンは一人頷(うなず)いた。手ずから英国流の操帆技術を乗組員に叩き込んだ成果だと満足した。艦は静かに湾を抜けると針路を南南西にとり、クリール列島めざして航海を始めた。北太平洋の潮流は速かった。
五月十四日、四百海里(七百四十キロメートル)を航行して松輪(マトゥワ)島と羅処和(ラショワ)島の間に広がる希望(ナジェージダ)海峡に到着した。ゴロウニンが測量開始を予定した海域である。ここから順に、羅処和(ラショワ)島、宇志知(ウシシル)島、計吐夷(ケトイ)島、新知(シムシル)島、知理保以(チリボイ)島、得撫(ウルップ)島を測量するため周辺海域を回航する日々が始まった。
クリール列島の多くの島は、海岸から三海里(五・六キロメートル)の沖合で百五十尋(二七〇メートル)から二百尋(三六〇メートル)の水深に囲まれている。測鉛が海底に達しないほど深くなっているから、島に近づけばどこかで急に浅くなることがあり得た。島への接近によほど神経をすり減らした。絶え間ない濃霧と変化の激しい潮流に悩まされながら、作業を進める航海となった。
六月十七日、ようやく得撫(ウルップ)島まで測量を終えて択捉(イトゥルップ)島北端アトイヤ岬沖合に差し掛かった時、遠く、浜に仮小屋が建ち並び、あたりを歩くクリール人とおぼしき姿を望遠鏡の視野に捉えた。相手がクリール人なら水と食料を調達できると考え上陸したところ、一帯を警護するのは日本人だと判明した。一時(いっとき)、両者に緊張が走った。
ゴロウニンは、自船に乗艦させたクリール人に通訳させ、日本警備隊の主将と思(おぼ)しき者に上陸の理由を伝えた。いくつかのやりとりのあと、四年前のロシア船による樺太、択捉の略奪放火に話が及び、日本人は敵意と警戒心を抱いてロシアを責めるように発言していることが見てとれた。
ゴロウニンから、あの略奪行為はロシア政府が命じたことでは決してなく、一民間人が弁(わきま)えもなく勝手にやったため政府が犯人をすでに捕縛し処罰を下したと弁明した。言うことが通じたのか、納得したのか、定かではなかったが、この地で双方が引き下がることとし、互いに無用の衝突を回避した。
ゴロウニンは、日本人との接触を避けたほうがいいと判断したが、ここまで来て国後(クナシル)島と松前(マツマイ)島(北海道)の間の海峡(根室海峡)を調査しないまま、目的地のオホーツク港に向かうことがいかにも惜しかった。
あたり一帯はヨーロッパにとって未知の海域であり、国後(クナシル)島と松前(マツマイ)島が、一応、異なる二つの島と思われていても、もしかすると、どこか陸地でつながっているのかも知れず、ゴロウニンは、この測量によって地理上初めての知見が得られる可能性を意識した。
松前(マツマイ)島は、オホーツク港に向かう航路からわずかに離れるに過ぎないから、少しの水と食料を調達できさえすれば、寄り道もなんとかなると欲を出した。
さらに、鼠によって船倉内の乾麺麭(かんパン)四プード(六十六キログラム)が喰い荒らされたと報告を受けたばかりだった。いずれにせよ、食料調達の必要性は高かった。
ゴロウニンは、国後島の南端、泊(とまり)の浜に大きな集落があるとクリール人から聞いて、水と食料の調達のため向かうことにした。もちろん代価に何か物品を置くつもりだった。ケラムイ岬を右手に見ながら泊の浜に近寄ると島から砲撃を受け、日本人の警戒が厳重で敵対的なことを知った。
ロシア船が略奪を働いたのは四年も前のこと、犯人の処断も終わっているので、誠意を尽くせばなんとか話を付けられるとゴロウニンは希望をもっていた。日本人と何回かのやりとりを重ねた。
日本の陣屋を訪問し、会談を行いたい旨、ロシア側から提案し、日本側の合意が得られた。ゴロウニンは貴族出身のせいか、楽観的で人のいいところがあった。
ゴロウニンらは浜の陣屋に案内され、当初、穏やかに話を進めたが、ある瞬間から異様な雰囲気を察知し、ゴロウニンと二人の士官、四人の兵卒は陣屋を飛び出した。浜においてきたボートに向けていっせいに逃げだした。
三時間に及んだ会談の間に、干潮によってボートが波打ち際から五尋(ひろ)(九メートル)も離れた浜に置かれた姿になったのを見ると、ゴロウニンは走るのをやめた。四年前、ロシア船が働いた略奪放火の代償を償(つぐな)わされることを覚悟した。
復讐を受ける己の運命に呆然と立ちすくんだゴロウニンらは、次々と武装日本兵が追いつき、その周りを静かに整然と取り囲み始めるのを黙って見ていた。ロシア暦一八一一年七月十一日(文化八年六月四日)、ゴロウニン以下七名は国後島泊(とまり)の浜で捕縛された。
ディアナ号から望遠鏡で一部始終を見ていた副長リコルドは、緊急事態に応じて一旦、沖合に避難した。総員五十一名では、上陸して艦長たちを奪還できる見込みはなかった。リコルドは、必ずや艦長ら七人を取り戻し日本人に復讐することを誓ったのち、オホーツク港を目指すしか道はなかった。
副長リコルドは、ディアナ号を国後島海域から離脱させ、樺太(サハリン)半島を左舷にみて北上した。艦上、南東方向を注視したが、霞んで水平線は見えなかった。リコルドは無念の思いをこめて泊(とまり)の浜を「背信(イズメナ)湾」と名付け、一人、唇を噛んで呟いた。
「艦長を取り返すには、有力な日本人を拘禁し、捕囚交換に持っていくのが最も現実的ではないか。それしかないだろう」
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」五節「ペテロパブロフスク」(無料公開版)
六 向島牛島 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
文化八年(一八一一)、佐十郎は年初から、コルネリス・ファン・デル・パーム著『青年のためのオランダ語文法』一七七四年版の翻訳に取り組んでいた。『西文規範』と題することに決め、首巻でアベセレッテル(A、B、C Letter)とその接続法、文字の読みと綴(つづ)りの連続(くさり)などを説き、本編前編で格変化と九品詞を総覧し、後編で諸品詞の連続運用法を詳説することにした。
前年にまとめた『和蘭辞類訳名抄(おらんだじるいやくめいしょう)』によって、各品詞の名称を確定し、品詞ごとの使い方を説いた経験を発展させ、蘭文法原書の主論各章は丁寧に全訳した。長崎に帰らなくてもすみそうだと、幕府の内情を知り、腰を落ち着けて丁寧に仕事を進めてきた。
佐十郎の訳業にとって、初めての体系的な阿蘭陀文法書である。青年向けに簡明にまとめられた原書が実に日本人に適していた。原書は、会話体の質疑応答で説明を進める形式だから、そのまま翻訳すると、親しみやすさがあって三新堂の塾生に最適のテキストになった。
佐十郎は、この著作によって蘭文法に適(かな)った会話体文章を大量に体得した。通訳にとって、即座に会話に使える例文は、まことに有益だった。佐十郎は、凡例の最後の条において、恩師、中野柳圃(りゅうほ)が最晩年に、セウエルの著(あらわ)した文法書によって蘭文法の体系を会得し、その直後に逝去したことに触れた。
最後の仕事をやり残した師の遺志を継いでこの書を執筆した己の心情を振り返り、文法に則って蘭語を読み解く重要性と抱負を述べた。凡例の日付は文化八年(一八一一)辛未(かのとひつじ)夏と思いを込めて記した。
この書が佐十郎にとって初めての本格文法書になったという以上に、日本の蘭学界にとって初めての体系的蘭文法書となった。広く蘭学生に読まれ成果が上がるにつれ、蘭学発展の鍵とまで絶賛の声が寄せられた。『西文規範』が世にでて、大槻玄沢と杉田玄白から驚きと賛嘆の言葉が寄せられた。
大槻玄沢は自著『蘭訳梯航』の中で、佐十郎の著作の意義を強調し、これまでの江戸の旧(ふる)い学習法を廃して新しい方法に一変させた名著だと、若い佐十郎に最大限の賛辞を贈った。
生(佐十郎)は弱齢を以て精力他に超え、その業ますます進みその精学を慕う者多くして、従游の
人日一日より盛んなり、皆柳圃の遺教を以てこれに授(さず)く、是れ即ち今都下の旧法を廃して新法
正式に一変せり
佐十郎は、この書をもって、品詞を判読し、文法に沿って文意を解釈する体系的蘭文法を世に問うた。日本の蘭学界にとって画期的な業績だった。
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一八一二年(文化九年)秋、ドゥーフは、呻吟するような不安を抱え、出島で悶々と日々を過ごしていた。毎年、夏になるとジャワから来港するはずのオランダ交易船が、このところ、全く姿を見せなくなった。一八〇八(文化五年)から、ここ五年間に来航したのは、一八〇九年(文化六年)のわずか一隻、今年も、夏を終えてオランダ船の船影を見なかった。
出島の商館員は皆が皆、見えない明日に不安を募(つの)らせ、することもない出島の毎日を、覇気なく無為に過ごした。出島に漂う沈滞した雰囲気が、次第に皆の心を蝕(むしば)み始めていることを感じた。
ドゥーフは、来航が途絶えた当初、不安な生活を強いられても、決められた祝祭の日には必ず、蘭三色旗(ドゥリ・クレール)を揚げさせた。出島の商館員全員で整然と掲揚して、国旗に黙祷を捧げ祖国を遠く想った。
――世界でこの旗を揚げられるのは、狭いこの島だけだ
ドゥーフは、商館員が不安で涙が出そうな顔をしていることに気付いていた。こういう時期だからこそ、自堕落に陥(おちい)らないよう、ドゥーフは生活の規律を厳格に保ってきた。しかし、それも、もう限界だった。商館員の心の張りはとうに切れていた。
陽暦七月から八月にかけて、屋根上に設けた見張り台に商館員が昇り、湾口を注視して過ごした年もあった。遠見番所から狼煙(のろし)の上がるのを見れば皆で喜んだが、一時間半後には支那の戎克船(ジャンク)だったという報せに落胆するのが常だった。
ドゥーフは、フランスの属領にされた祖国とジャワ総督府が、いっそう困難な状況に陥ってしまったのだと考えた。あるいは、ヨーロッパからアジアに至る航路や、ジャワから長崎に至る海域が、英国海軍に蹂躙されオランダ船が航行できなくなったとも想像した。
いくら考えても無意味だった。船が来なければ世界情勢を知らず、祖国の状況はわからず、補給が滞り、出島の賃借銀、年額五十五貫を払えず、食料、日用品を買えない。家族からの書信も完全に途切れた。ドゥーフは、長崎奉行所に借金して生き延びなければならなかった。
ナポレオン戦争の激化に伴い、フランス支配下のジャワ総督府はアジア海域で、英国海軍に圧倒される日々が続き、長崎に船を出すどころではないのだろう、というほどの大雑把な推測話さえ日本側に知られてはならなかった。よくないことが起きているだろうと認めながらも、詳細は知りようがない、と白を切って長崎奉行所に借金を頼むのは辛かった。
出島ではバターを一切見なくなった。靴に困り、出島の通りは草履履(ぞうりば)きで足を引摺(ひきず)るオランダ人だけになった。古カーペットで作ったズボンを穿(は)いて、窮乏に耐える商館員を見るのは苦しかった。
最近は備蓄も何もなくなって、窓ガラスをはずし食料品に代えなければならなかった。これも辛かったが、何よりも、祖国がどうなっているのか分からないことが一番こたえた。悪い想像ばかりが膨らんで不安と焦燥が募った。
ドゥーフは、二年前、江戸で佐十郎から牛痘苗の状況を尋ねられたことを忘れていなかった。
――忘れるどころではない、常に気を揉(も)んで気にかけてきた
佐十郎に初めて牛痘種痘の発見を話してから九年たったと思い起すこともあった。残暑厳しい秋、佐十郎に講義し種痘の話を伝えたあの日の残影が瞼の裏に浮かんだ。
――牛痘苗をほしいと言って、どう足掻(あが)こうが、どう悔しがろうが、無理なものは無理だ
それどころではないことだけは確かだった。
ドゥーフは、このような時期に、嘆くだけでは心の均衡を保てないと思った。何かをしなければならないと、この年、蘭和辞典の編纂を思い立ち、出島乙名に相談した。
異常な状況のなかで、長崎奉行所も蘭通詞も阿蘭陀商館に同情的だったから、ドゥーフの提案は喜んで受け入れられた。小通詞中山時十郎、小通詞並吉雄権之助、小通詞並西儀十郎、小通詞末席猪俣伝次右衛門ら十一名の精鋭をドゥーフの辞書編纂作業に協力させると、長崎奉行から確約をえた。
ドゥーフは享和元年(一八〇〇)夏に来日して以来、日本語の習得に努めてきたから、歴代商館長の中では出色の日本語通だった。蘭和辞典の編纂にはいろいろと構想があった。
フランソワ・ハルマの蘭仏辞典、一七二九年刊第二版を底本とし、鋭意、作業に取り組んだ。交易船の途絶した時期だから、商館長自らが地道な辞書編纂作業に振り向ける時間は十分あった。ドゥーフは不安と空しさを鎮めるためもあって、営々と取り組んだ。
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文化九年(一八一二)十二月(しわす)、佐十郎は蘭書翻訳の出精をもって、幕府より十人扶持を賜り、帯刀を許された。作左衛門は、この報せを佐十郎に伝え、わがことのように喜んだ。
――これで、佐十郎も晴れて幕臣の身分じゃ
この処遇に伴い、佐十郎は長崎奉行の支配を離れ、正式に天文方の配属となる。作左衛門の部下たる身分がゆるぎないものとなった。近く小普請入りを経て御家人に取り立てる一連の手続きが進行中だった。
長崎通詞は長崎奉行支配の町人身分だから、この人事は異例の抜擢だった。佐十郎の力量を発揮させるには、この処遇が最適だと作左衛門は疑わなかった。
近ごろ、佐十郎は津軽藩医、浅越玄隆の女(むすめ)を嫁に貰って、天文方の官舎で新婚生活を送っている。此度(こたび)の十人扶持の処遇が生活の基盤になるだろうと作左衛門は嬉しかった。
浅越玄隆は若いころ、養父から家督と百五十石六人扶持の禄を受け継いだと聞いた。近習医に昇進して藩主家族を診(み)る役向きに就いて、江戸詰めとなった。最近、国許で加増を受け、今では百八十石の堂々たる身分である。佐十郎に蘭学を学びながら多くの蘭学者と交友をもち、漢方一辺倒でない柔軟な姿勢が作左衛門には好ましく見えた。
玄隆は、本所の津軽藩上屋敷七千八百八十五坪九合の敷地内の御長屋に住んでいた。それとは別に、向島の牛島に瀟洒な別邸を持っていた。作左衛門は、初夏の頃、佐十郎の上司として玄隆から牛島に招待されたことを思い出した。あれは綺麗に晴れ上がった爽やかな日だった。
その日、作左衛門は、天文方から、浅草橋通りを雷門に向かい、駒形堂の先で道を右に取って、七十六間(一四〇メートル)の吾妻橋を渡った。本所にでれば、源森橋(げんもりばし)を北に渡り越して向島に至り、左に浅草川の水面(みなも)が広がるのを眺めながら、右に水戸藩下屋敷の前を過ぎた。三囲(みめぐり)稲荷から料亭「平石」、牛の御前神社、弘福寺と続く土堤の道から、時折、翡翠(かわせみ)が青緑の矢のように川面(かわも)に飛び込み小魚を捉える姿を見ながら歩いた。牛島から長命寺、白髭神社の先まで、江戸きっての風光明媚な名所が広がっていたことが、今も印象に残っている。
墨堤には新緑となった桜の並木が延々と連なり、新梅屋敷の緑と、周りの名松が江戸の風情をしっとり湛(たた)えていた。あたり一面の水田とその間を縦横に流れる水路が清々(すがすが)しい田園風景を織りなし、自然の恵みを受けて緑に満ちた風景が広がっていた。
田植えが終わり、水田に若い稲苗の列が並ぶ上を燕(つばめ)が水面をかすめていた。田に出た百姓の上を燕が飛来する様は、一幅の絵のようだった。作左衛門は、玄隆別邸の座敷から、柳若葉と畔(あぜ)の菖蒲が清爽(せいそう)と水田を縁取(ふちど)るさまを眺めたことを忘れなかった。
玄隆は、佐十郎の学識と謙虚な人柄に惚れ込んでいた。
――女(むすめ)は三国一の聟殿に嫁いだと思うております
手放しに喜ぶ姿が微笑(ほほえ)ましかった。作左衛門は、牛島の別邸で玄隆がいかに上機嫌だったか思い出した。師走(しわす)になって佐十郎が幕臣に取り立てられ、歴たる身分となった今、どれほど喜んでいるだろうか、佐十郎の岳父に思いを馳せた。
――夫婦円満、親御とも仲良いようで、なによりじゃ
作左衛門は、近く、幕府から佐十郎に大きな仕事が命じられることをうすうす予見していた。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」六節「向島牛島」(無料公開版)
七 蝦夷松前 次節を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
文化十年(一八一三)正月二十九日、佐十郎に、松前差遣の命が下った。前年末の幕臣取り立てと呼応した下命のようだった。目的は、佐十郎の魯西亜(おろしあ)語稽古と内々の御用向きとされ、幕臣となった佐十郎の初仕事となった。
作左衛門は、松前への差遣が、幕府内で練り上げられた対魯西亜政策の一環であることを佐十郎に伝えた。寛政四年(一七九二)ラクスマンが根室に来航したのを始めとして、文化元年(一八〇四)レザノフが長崎に来航し、文化三年(一八〇六)ロシアが北方に掠奪を仕掛けてきた。
文化八年(一八一一)捕縛したゴロウニンを取り調べた結果、幕府は、魯西亜(おろしあ)の一連の策動の背景にある国情を理解するに至った。佐十郎が蘭語版から翻訳したロシア地理歴史書が助けとなった。
幕府は、作左衛門が上申した地理上の知識を踏まえ、ロシアが隣国であり、いずれ国境を定めるべき相手であることを知った。さらに言えば、千島列島と樺太島に関わる領有権問題を認識するに至った。
この機に幕府は、これまで一連の対魯西亜関係を振り返り、大きな視野から方針を練り直すことにした。いずれ、この国とは何らかの交渉をしなければならない。そのためロシア語の外交文書を読み書きできる人材を今から育てようと、馬場佐十郎と足立左内を派遣し語学研修の機会を与える計画だった。
足立は、若い頃、寛政戊午暦を作成した高橋至時(よしとき)に仕えた編暦の専門家だった。その息子、作左衛門が天文方を継ぐと、足立は学識を惜しまれて天文屋敷に呼び戻された。四十五歳、ロシア語の初歩算術教科書の翻訳を試みた経験があった。
佐十郎二十七歳と二人、老巧と気鋭、天文学者と語学達者の組合せは、作左衛門によって、よく考えられた人事だったから、若年寄の堀田に即座に承諾された。鎖国を守るため、幕府は対魯西亜外交体制を一から作り上げる決意だった。
二月十四日、浅越玄隆が藩に届けを出し、女婿の佐十郎が青森を御用で通過するから、これを迎えるため帰藩したいと願い出た。津軽藩にとって、松前奉行と天文方につながる人脈は特に重要だった。
北方でなにか起これば、津軽藩が無関係でいられるはずはなく、派兵を引き受けなければならない事態もある。津軽藩が急ぎ情報を仕入れる先を普段から維持しておくのは、藩をあげて重要なことだった。
玄隆は、近く、新たに赴任する松前奉行一行に、天文方から二人が同行すると佐十郎から聞き及んだ。これこそ情報収集に絶好の機会であると江戸家老に上申した頃から津軽藩の動きが始まった。
二月二十三日、事もあろうに、天文屋敷から出火した。佐十郎は、書籍、手稿の一式を常に柳行李(やなぎごおり)に収めてあったから、寝しなに火事の叫びを聞くや即座に大風呂敷にくるんで背に負った。明け方に官舎一切が焼け落ちた。
焼け出された若夫婦は両国橋を渡って、本所の津軽藩邸に浅越の父を訪ね、数日後、牛島の父の別邸に移った。出張する直前だった。玄隆は玄隆で、佐十郎は佐十郎で多忙を極めた。玄隆は佐十郎より数日早く、発つ段取りだったから、なおさらだった。
二月二十九日、佐十郎と左内は、新任の松前奉行、服部備前守(びぜんのかみ)貞勝の赴任に随行し江戸を発った。津軽藩の国許では、接待役が、青森宿で新任の松前奉行をはじめ、天文方の佐十郎と足立らをもてなす準備を整えていた。ゴロウニン捕縛以降いろいろの北方情報を聞き出す好機である。佐十郎との縁は津軽藩にとっても重要だった。
松前奉行一行は青森宿で心のこもった津軽藩のもてなしを受けた。津軽藩士の問いかけに応じ多くの話を伝え、貴重な一席が終わった。青森宿を発ち、丸二日を要して三厩(みんまや)宿に到着した。
翌朝、湊(みなと)で風を見定め出帆した。竜飛岬を左舷に過ぎて、二刻とかからず津軽海峡を横断し、松前に到着した。この時期、北国といえども、すでに春めいていた。
佐十郎は、奉行所の幕吏に勧められ、仕事の合間を見計らって、城下、光善寺の名木、血脈櫻(けちみゃくざくら)を見物に出た。わずかに咲き初(そ)めているのを見て、樹齢百年を超える老桜が松前の誇りとされることに納得した。町方の者の楽しむのを見て、今年見られなかった墨堤の桜を想った。
佐十郎には、新奉行を迎えた奉行所が活気を取り戻す様子が印象的だった。前任の小笠原和泉守(いずみのかみ)は前年秋、六十七歳を以ってこの地に没したと聞いた。新任の服部備前守(びぜんのかみ)の任務は、北辺を荒らした魯西亜(おろしあ)人の不法行動について魯西亜の州長官から釈明文書を取ることだった。松前奉行所では早速、その旨の要求文書を魯西亜(おろしあ)語で作成する作業に着手し、新奉行はゴロウニンたちに協力を要請した。
放火略奪をやってのけた魯西亜人は魯西亜政府の命を受けた者ではなく、不届(ふとど)きな私人という扱いで、事件の落着を図る方針を服部備前守と幕閣は話し合ってきたらしい。幕府と松前奉行は、その者たちが魯西亜海軍の軍服を着ていたという証言を不問に付す方針でいると佐十郎が聞いて、事を荒立てるだけではない柔軟な外交方針だと思った。佐十郎にとって、外交交渉を組み立てる現場を目の当たりにする初めての機会となった。
数日して、軟禁下におかれたゴロウニンは、足立左内と佐十郎の訪問を受け、二人の持参した干菓子の手土産を受け取った。ゴロウニンは、事前に、足立が日本の大学(アカデミア)の学者で、佐十郎がオランダ語通訳だと聞かされていた。
この日、二人の日本人は、初対面の挨拶に来たようで、仕事の話をしなかった。ゴロウニンは何度か呟(つぶや)いて、足立左内(アダチ・サンナイ)と馬場佐十郎(ババ・シュヅォロ)の名を記憶した。帰り際、ゴロウニンは、佐十郎に請われて、手持ちの本を見せたところ、タチシチェフの仏露辞典、上下二巻とほか二冊を、数日間貸してほしいと頼まれた。捕縛直後、副長リコルドがゴロウニンらを心配し、浜に私物箱を置いていった。それが松前に届けられ、ゴロウニンは着替えの衣類のほかに本も持っていた。
この日以降、頻繁にこの二人の日本人がやってきた。ゴロウニンは、いずれ、日本監禁の経験を手記に書くつもりで、日記に二人のことを記録し始めた。
外交文書を作成する仕事は、上原熊次郎(クマヂェロ)から替わった村上貞助が担当するようになって円滑に進みはじめたから、足立と佐十郎の助けが特に必要というわけではないと思った。そのうちゴロウニンは、二人がロシア語研究のために来たのだと日本側の状況がわかってきた。
ゴロウニンは熱心に頼まれ、佐十郎(シュヅォロ)が自ら作ったロシア語帳の単語と発音を正しく教えてやると、佐十郎(シュヅォロ)は修正しながら、次々と新しい語を書き足していった。さらに、佐十郎(シュヅォロ)は蘭仏辞典の刊行本を持ち込み、ゴロウニンから知らないロシア語を聞くとフランス語を通して覚えるために即座に字引を引いて、露、仏、蘭の三か国語の単語の対応表を作成し、そこに日本語を付けていった。
ゴロウニンが見ていて小気味いいほど手際よく、佐十郎(シュヅォロ)の記憶力の優れていることに驚かされた。すでに一つのヨーロッパ語の文法を知っているせいで、ロシア語の進歩が非常に速いことに気付いた。ゴロウニンは驚きを抑え、そしてこの時間を好ましく思うような、ほのぼのと温かい筆致で、佐十郎(シュヅォロ)とのやりとりを毎日の幽囚日記に書き綴った。
日々、熱心な生徒に教えをせがまれ、教えれば驚くほどに上達する生徒を見て、ゴロウニンはすっかり、その気になった。心のどこかで熱いものが沸き起こったようだった。時期を見て、ロシア語文法書を書いてやろうと進んで提案し、佐十郎(シュヅォロ)を狂喜させた。
それからというもの、ゴロウニンが少しずつ原稿を書き上げる度(たび)に、佐十郎(シュヅォロ)はゴロウニンに教わりながら逐語的に日本語に翻訳していった。オランダ語文法を心得る佐十郎(シュヅォロ)には両語の異同が即座にわかり、ロシア語の理解を急速に深めていくようだった。ゴロウニンが見ていて面白いほどだった。
四か月後、ゴロウニンは、原稿執筆をようやく終えたとき、佐十郎(シュヅォロ)も日本語一次訳を完成させたことを知った。文法上の文例は、両国の親善を図り、国際事情を好意的に踏まえて作ったから、実務上、便利であり、佐十郎(シュヅォロ)はとても喜んで見えた。少しずつ双方の心が通い始めたようだった。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」七節「蝦夷松前」(無料公開版)