八 蝦夷箱館 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
ゴロウニンは足立佐内を学士院会員(アカデミシャン)と呼んだ。学士院会員(アカデミシャン)からペテルブルグ版の国民学校用簡易算術教科書を教えて欲しいと申し出を受けたので、理由を聞くと、かつて、この本の訳出を試みた翻訳の適否を確認したいからだという。ゴロウニンは、この教科書は一七九二年(寛政四年)ロシアから送還された光太夫(コダイ)が日本に持ち帰ったものだと来歴を聞かされた。
光太夫(コダイ)にロシア語を教わったと佐十郎(シュヅォロ)も言っていたのをゴロウニンは覚えていた。光太夫(コダイ)は、ゴロウニンにとって、名前だけは知っている日本人であり、縁をたどれば、伝説的な日ロ共通の知人だった。
ゴロウニンが学士院会員(アカデミシャン)に算術教科書の内容を説明してやると、首を振って理屈は皆知っているという。学士院会員(アカデミシャン)が知りたいのはロシア語の翻訳の正否だとわかり、次回から算術の話だけでなくロシア語を話題にした。
ある日、ゴロウニンは、アカデミシャンから、オランダは新暦(グレゴリオ暦)を使っているが、ロシアではいかなる暦を使うか尋ねられた。ゴロウニンは旧暦(カエサル暦)であると答えた。
「魯西亜(おろしあ)は新しい暦を採用しないのですね」
と重ねて言われた。
平年の一年を三百六十五日とし、旧暦では四百年間に百回の閏年を置いてその年を三百六十六日とするが、新暦では九十七回の閏年を置くことを言っていると、もちろんゴロウニンは承知していた。
「貴国の使う旧暦では、新暦との間にすでに十二日の違いが生じています」
笑みを浮かべながら言った。
アカデミシャンの口調に、いずれ調整しないと暦のずれが大きすぎることになるだろうと心配する気配を感じたので、ゴロウニンは黙って頷(うなず)くしかなかった。アカデミシャンが編暦に高い知識を有することを知った。
ゴロウニンは、アカデミシャンがコペルニクスの太陽系説を真理と認め、一七八一年に発見された天王星とその衛星を知っていることに驚いた。対数表を見せるとアカデミシャンは即座にそれと見抜き、正弦(サイン)と正接(タンジェント)の表を見せても同じことだった。もちろんピタゴラスの定理を知っていた。
ゴロウニンは、日本人が、日蝕、月蝕を正確に計算していることに気付き、感心しながらも不思議だった。アカデミシャンがラランデの天文学書を読んだことを知ってようやく納得した。ゴロウニンは日本という国の知的水準を改めて認識するに至った。
――国を閉ざしているのに……
内心、舌を巻いた。定期的にヨーロッパの最新学術書を読んでいるに違いなかった。日本という国は、交易を拒否するが、情報、知識では国を鎖(とざ)しているわけではないと知った。
ゴロウニンには、佐十郎やアカデミシャンら知識人だけでなく、庶民を見聞する機会があった。捕縛されて奉行所に護送されてくる途中、日々の生活を営む庶民の振舞にさえ強い印象を受けた。ゴロウニンは総括的な日本人論を日々の幽囚日記に書き残し、日本人の民度がいかに驚くべき高さにあるか、後日、母国の要路に伝えようとした。
もしこの人口多く、聰明犀利で、模倣力があり、忍耐強く、仕事好きで、何でもできる国民の上に、
わが国のピョートル大帝ほどの王者が君臨したならば、日本の胎内にかくされてゐる余力と富源を
もって、その王者は多年を要さずして、日本を全東洋に君臨する国家たらしめるであろう。
(井上満訳)
ある日、ゴロウニンとロシア人たちは馬場(ババ)佐十郎(シュヅォロ)から母国の大事件を聞き、驚いて耳を疑った。前年六月、ナポレオンが大陸軍(グラン・アルメ)七十万の兵を率いてロシアに侵攻し、ボロジノの大会戦でロシア軍を破り、九月にモスクワに侵入した。すでにロシア住人はもぬけの殻で、その夜大火災が起きてモスクワ全市が焼き尽されたという話だった。
ゴロウニンたちは、オランダ人が日本人に嘘を言ったと考え一笑に付し、即座に信じはしなかった。一方で、日本人が、おそらく毎年、ヨーロッパの情報に触れ、オランダ人と信頼関係にあると考えられた。
――全くの偽りではないかもしれない
不安を拭(ぬぐ)えなかった。
*
佐十郎は、ゴロウニンの書いた魯西亜(おろしあ)語文法書を得て、己(おのれ)のロシア語が大きく進歩したと満足を感じて研鑽に励んでいた。その頃、松前出張において、もっとも奇妙で不思議なことが起きた。その瞬間、佐十郎は、あたかも説明のつかない何物かが頭上で一閃し、稲光りを放った錯覚にとらわれた。そして奇縁に導かれるように、それと運命的に出会った。宿舎で、村上貞助から見せられたのは一冊の魯西亜語の小冊子だった。
昨年十月、松前の五郎治なる者が魯西亜から日本に送還されてきた。五郎治は、ヲホツカで医師からもらったロシア語の小冊子を持ち帰り、牛の痘瘡膿(うみ)を人に植える方法が書いてあると言ったらしい。今、この冊子は奉行所が管理している。ぽつり、ぽつりと村上の話すのを聞き、佐十郎は思わず拳を握りしめた。村上の話を聞き終えると、愕然とする心を落ち着かせようと、掌で額をひたひたと打って村上を見つめた。
あれは享和三年(一八〇三)ドゥーフに聞いた話だから、
――もう十年も前んことになるばい
佐十郎は心を鎮めながら振り返った。今、北の地で、牛痘種痘の話を再び耳にした。それだけではない、魯西亜語の冊子を目(ま)の当たりに見る不思議さに、震えの走るのを止められなかった。
長崎で、江戸で、牛痘種痘の書かれた蘭書をどれほど待ったか、いや、それ以上に牛痘苗そのものをどれほど待ったか。ドゥーフに聞いても、見込みが立たないとしか言わなかった。阿蘭陀筋の情報が、今度は北周りの魯西亜筋から聞こえ、少なくとも書物だけは魯西亜語版で今ここにあるのだと、佐十郎はその奇縁を思った。
わななく手を抑えるように、表紙をじっと見ると、
牛痘(コロヴィオスピ)の接種により痘瘡(オスペンノイ)を完全に遁れる方法(スポソブ)
と読め、魯西亜皇帝の命により、医学博愛委員会の著作を印刷した小冊子とわかった。サンクト・ペテルブルグの国立医学協議会印刷所、一八〇三年と明示され、目次一頁、本文三十六頁、種痘の図二葉からなる小冊子だった。長崎でドゥーフから話を聞いた、まさにその年の印刷ではないかと気付くと、佐十郎は余りの因縁に体が固まった。
早速、村上から借り受けて手写を始め、その晩は床に就かなかった。父と同行し、吉雄献作に相談に行ったことなど夜中に往時を思い出しながら、必死にキリル文字を筆写し続け、ともかく数日間で写し終えた。
ロシア人一行に会いに行き、ゴロウニンに相談してこの牛痘種痘解説書(オスペンナヤ・クニーガ)についてムール少尉に教えを請うことにした。ムール少尉の父はドイツ人であったため、近縁言語にあたるオランダ語とドイツ語を介して、佐十郎と相当に意思疎通が図れる人物だった。
佐十郎は、そろそろ、ゴロウニンら一行と高田屋嘉兵衛ら一行の捕囚交換の段取りが両国の間で固まりつつあると聞いた。高田屋嘉兵衛は北前船の船頭で、ロシア船に捕縛されペトロパブロフスク港で一冬を過ごした。松前奉行は、リコルドからこの人物をゴロウニンと交換したいと申し入れを受け、承諾した。
日本側から交換の港を箱館と指定し、ディアナ号は絵鞆(室蘭)を経由して箱館を目指しているらしい。松前奉行所が、ゴロウニン一行を松前から箱館に移送する準備を見て、佐十郎は、ムール少尉から牛痘種痘の教えを受ける時間がどれほど残っているか、気になった。
ゴロウニンらは箱館に移送され、迎えの船を待つ日々を送った。日本を離れる日が近付いていた。佐十郎は一刻を惜しむように、箱館でもムール少尉の許に通い、今や心が通ったロシア人も懸命に応えようとしているようだった。佐十郎はこの短い期間に、辛うじて牛痘種痘解説書(オスペンナヤ・クニーガ)の大意をつかんだ。
文化十年(一八一三)九月二十六日、松前奉行は、ゴロウニンたちをディアナ号に戻し、ゴロウニンの勘定によると二十六か月と二十六日間に及んだ監禁生活から、ようやく解放した。ヲホツク州長官ミニッツキーから、「松前奉行に次ぐ両重役」宛に、日本側の要求した釈明書が届けられ、松前奉行はこれを諒とした。大勢の松前奉行所の役人とともに、佐十郎と足立もディアナ号に招かれ、リコルド艦長から松前奉行宛てのイルクーツク民政長官の感謝状が手渡された。
ロシア側から多くの物を贈られたが、日本側は殆ど受け取らず、ただ、書籍、地図、絵画の類(たぐ)いだけを受け取った。それらは、クルーゼンシュテルン艦長の図帖(アトラス)やラ・ペルーズ船長の図帖(アトラス)に収めた沢山の地図、その他多くの書籍や地図、勇将バグラチオン公の木版刷肖像画や名将スモレンスキー公の鉛筆複写による肖像画などだった。贈物の中に、佐十郎がゴロウニンに初めて会った日に借りたタチシチェフの仏露辞典が含まれているのは、ゴロウニンの友情だと佐十郎は気が付いた。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」八節「蝦夷箱館」(無料公開版)
九 向島牛之御前 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照
蝦夷地では紅葉が熾(さか)んに色づき、山々が見事な錦繍をまといだすと、そろそろ雪の便りが聞こえてくる。ゴロウニン一行を箱館の湊から送り出し、佐十郎と足立は、松前奉行と奉行所役人と今後のことを打ち合わせた。
実務を全て終え、佐十郎と足立が出達の挨拶に出向くと、服部備前守(びぜんのかみ)から、二人の魯西亜(おろしあ)語習得が大いに進んだと喜ばれた。備前守はゴロウニンから日本の通詞の優秀さを直接、聞いて知っていたらしい。
外交文書を直接、魯西亜語で読み書きできるということは松前奉行として心強い限りであると、二人は大いに感謝され励まされた。単なる世辞にあらず、日本にとって間違いなく大きな進歩だったと服部が確信しているようだった。これからは魯西亜通詞を育てるため、佐十郎と足立が魯語研修の教材と環境を整えるのだろうと、奉行所の誰からも見られていると感じた。
別れを惜しまれながら、佐十郎と足立は急ぎ出達し、慌ただしく江戸に戻ってきた。二十日余りの旅程で帰り着いた蔵前片町では、天文屋敷が竣工間近だった。木の香も匂う役宅が幾棟も出来ていた。
佐十郎たちが出達する直前の火事で、官舎はもとより、ラランデの天文書から天象観測機器、過去の観測記録、書付、書物など多くを灰にしてしまった。今は屋敷が一新し、作左衛門の活躍で再建はよほど速やかに進められたようだった。
屋敷が焼け落ちた直後、出火の責を負うため作左衛門は若年寄堀田摂津守に進退伺いを出した。
――御公儀の異国調査の重責は余人をもって代え難し
堀田から強く慰留された。感激した作左衛門は前にも増して職責に励んだ。まずは屋敷の再建だった。作左衛門のしたたかなところは、これを機に堀田に内訴して、蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)の局を別棟として新築したことだった。火事からショメールを救ったことをこれ幸いと、その翻訳事業を堀田に切々と訴えた。
「これからますます、進めなければなりませぬ」
転んでも只は起きない男の面目躍如だった。
佐十郎と足立は、八か月を超える松前出張から戻って作左衛門に報告を済ませると、直ちに、新しく覚えた魯西亜(おろしあ)語の整理にかかった。十二月、二人は新たに魯西亜辞書取調御用掛を仰せつかり、幕府の調査対象は英語に続き、公式に魯西亜語にまで及んだ。今や幕府は、英語、魯西亜語の辞書と文法書の編纂整備を重要政策と見做(みな)すに至った。
佐十郎は、早くも年内に『魯語』を脱稿した。縦六寸強(一八、九センチメートル)横四寸三分(十三センチメートル)、本文袋とじ十五丁半(三一頁)ほどの小冊子である。収載語数千四百は天文、地理、時令から始まる三十三の項目に分類した。
佐十郎は、『魯語』の本文を左横書きとし、見出し語は漢字と片仮名で,対応する魯西亜語をキリル文字筆記体で表記した。ちょうど四年前、中津藩主奥平昌高と神谷弘孝(ひろよし)が編集した『蘭語訳撰』とどことなく紙面の雰囲気が似ていた。
佐十郎は、『魯語』がロシア語単語帳として『北槎聞略』の巻之十一に次ぐものであることを強く意識していた。
――光太夫どんん後(あと)ば受け、恥ずかしゅうなかもんば、こしらえんばならんばい
編纂には細心の意を凝らし、この書を魯西亜研究の人材育成の基礎に据える意気込みだった。『魯語』は、ロシア語音の仮名表記しかない『北槎聞略』から一歩、発展させ、高い水準の出来となった。さらにこの書は、単語帳に止まらず、巻末に成語集を付し、十一の場面に分類して熟語と短文会話例をあげてあった。佐十郎には外交交渉の場面が常に念頭にあった。
年末に、父から書状が届き、長崎で、為八郎はじめ第一線の蘭通詞たちが英語研究に努力を重ねている近況を伝えてきた。英文法書『諳厄利亜(あんげりあ)言語和解』の編纂が吉雄権之助、猪俣伝次右衛門、岩崎弥十郎によって進められ、順次、三巻本が長崎奉行に上呈されたという。これに『諳厄利亜(あんげりあ)興学小筌(しょうせん)』を加え、次いで、初の英和辞書『諳厄利亜語林大成』十五巻、収載語数六千を間もなく完成させるつもりだと伝えてきた。
長崎で英語学習環境が整い、諳厄利亜と交渉できる通詞が育っていくに違いない。英語といい、魯西亜語といい、幕府は異国に備えるために兵事から文事にわたる準備を進めていることを佐十郎はあらためて思った。
出兵、通詞育成、異国の国情調査まで、この時期、幕府は堂々と正道を踏んで、対外関係を考えているのが心強かった。為八郎は、私信の最後に、さも追伸でも書くように、今度、大通詞に昇進したと、ごく短く一文で知らせてあった。
――魯西亜語も負けてはおれんばい
魯西亜も諳厄利亜と同じで、油断してはならない国である。ゴロウニンの友情とは別の話である。そう思いながら、佐十郎は精魂傾け魯西亜語に取り組む気力をいよいよ熾(さか)んにした。
文化十一年(一八一四)が明け、佐十郎は牛島の別邸で正月を迎えた。正月と言っても、三箇日にさえ、新春を寿(ことほ)ぎ長閑(のどか)に過ごすことを惜しんだ。終日、魯西亜語文法書の執筆から離れなかった。江戸の浅越家の奥を仕切る遠縁の小母は、佐十郎の勉強ぶりにすっかり驚いてしまった。
この家の聟は正月だというのに書斎に籠(こも)りっ切り、飯を喰いに出て来ても心はここにあらず、新年の挨拶をするでなく、お節料理とさえ気付かない。そそくさと食事を終えて書斎に戻った姿を見て、さすがに気の毒そうに新妻の方を向いた。
「聟さんはお勉強がお好ぎだてね。こいだば正月にもなんねす」
父親は頷(うなず)いて、佐十郎の全てを受け入れるかのようだった。
「魯西亜のことを知らねぐてはなんねと、頑張(けっぱ)ってらのだ」
三国一の聟じゃからと、何くれとなく佐十郎を気遣った。津軽藩では魯西亜の侵攻に備えるため、文化四年(一八〇七)多くの藩士が蝦夷地に出兵し、先年、還ってきた。
兵を国許に迎え、越冬中の酷寒と栄養失調が元で生還できなかった藩士の多いことに藩は衝撃を受けた。藩医の玄隆が心痛する大きな問題だった。
「蝦夷地の寒さは津軽どは桁さ違う」
藩は多くの死者を出したことを恥とし、世間に隠した。
玄隆には、魯西亜語による直接の外交交渉を目指す佐十郎の仕事の価値が身に染みてわかった。魯西亜と緊張関係が生じれば、再び、津軽藩士が蝦夷地に出兵する事態が考えられ、その時は藩士の命が交渉の帰趨(きすう)にかかってくる。
「もう二度ど蝦夷地の越冬で藩士ば無駄に死のすわげサは、いかねのす…」
固い決意を込めた玄隆の言葉に、家族はじっと黙って聟の凄さを思いやった。新妻は居住まいを正し、書斎の方に向かって頭を下げた。
二月下旬、佐十郎は『魯語文法規範』を完成した。ゴロウニンにロシア語文法書を書いてやろうという気にさせたのは、佐十郎の熱意と学才だった。囚われの身とはいえ、なにもそこまで義理立てすることはなかった。それを、四か月もかけて丁寧に書いてくれたゴロウニンの熱意に、今度は佐十郎が憑(と)りつかれた。
日本国が初めて持った六冊六巻のロシア語文法書は各巻十八丁(三十六頁)から三十五丁(七十頁)で構成され、その由来は奇跡としか言いようがない。この本では、八品詞に分類した品詞論から、簡略ながらも文章論を論じ、アクセント論にまで言及した体系的な文法書で、ゴロウニンの書いた手稿を元に佐十郎の観点から編集してあった。
佐十郎は、第一巻にこの書の数奇な来歴を述べた「兀老允(ごろうにん)自序」を載せ、その次の「文法規範附言」において、こう書いた。
此編ハ嘗(かつ)テ兀老允(ごろうにん)著述セル彼(かの)文法ノ規則ヲ書(かき)記(き)スル
者也。名(なづけ)てГраммтика(ぐらむまちか) ト云フ。
オランダ語で謂(い)うスプラークコンストと同じであることを述べた。これまでの著述で用いたオランダ語文法用語の訳語をそのまま踏襲すると明記し、オランダ語もロシア語も共通する文法体系から理解できると説いた。仕事が生きて発展している。
第六巻の語詞接続法にはゴロウニンが洒落心と友情をこめて、佐十郎たちへの褒詞(ほうじ)を文例として挙げてあった。佐十郎は、その仮定法の文例をそのまま採用した。
貞助、馬場、左内、上原等ノ諸君ハ数年間魯西亜ニアルナラバ彼等ハ
魯西亜語ヲ悉(ことごと)ク知ルナラン
墨堤では殆ど花が終わるころだった。佐十郎は、すっかり葉桜になった並木の下を夫婦二人で歩きながら、前年、松前で見た桜を思い出した。その記憶は一年の間に起きた多くの出来事につながった。魯西亜とは当分、平穏に過ごせるだろう。しかし、諳厄利亜とは平穏を保てないかもしれないと、将来を懸念した。
玄沢が『捕影問答後編』にフェートン号事件の事実経過を詳述し、伊祇利須(いぎりす)の脅威を警告してから五年がたった。予言通り、昨年の夏、前任の商館長だったワルデナールがイギリスの意を体して来航し、オランダ商館の乗っ取りを謀(はか)ったという。
ドゥーフがそれに気付き断固たる態度で追い返したからよかったようなものの、その時は事情がわからず、危うく出島の管理をワルデナールに委ねてしまうところだったと父親から手紙をもらった。為八郎もドゥーフに協力し、イギリスの謀略から日蘭関係と出島を守り通した。追伸には、ブロンホフがジャワ総督府に説明と指示を仰ぎに長崎を出港していったと書かれてあった。
諳厄利亜といい、魯西亜といい、日本人が祖国を守る気概を持たなければ、あっという間に国を掠(かす)めて行く。弱いとみれば軍事力の行使を躊躇(ためら)わない。それを防ぎ防衛するため普段から油断なく、敏感な目で世界を見つめ、備えるべきものを備え、心の内に揺らがない信念を持っておかなくてはならない。
――そいば、できとう人は多うはなかと
佐十郎は考えこみ始めた。しかし、危うい、危ういと難しい顔ばかりしておっても妻が可哀想ではないか。今日は、一日たっぷり相手になろうと思い立って出てきた甲斐がない。そう思い直して振り向いた。
妻は、楽しくて仕方ないと言うように、にこにこと佐十郎を見上げていた。天真爛漫、玉のように微笑(ほほえ)む妻の向こうに、牛の御前の鎮守の森が濃い緑を見せ、川向うの待乳山(まつちやま)から青嵐(せいらん)が吹き渡るようだった。
文化十一年(一八一四)、『魯語文法規範』に次いで、佐十郎は『俄羅斯(おろしぁ)語学小成』十一巻を執筆した。そこには、露西亜文字を説明し、発音の注意事項に触れ、懇切丁寧な書きぶりで独自の露語文典が編んであった。独習書として活用されることを念頭に置いて、平易明快に仕上げた格好の著作だった。
そればかりではない、オランダ語文法書の方でも、『訂正蘭語九品集』、『和蘭文範摘要』と次々と論考を完成させ素晴らしい仕事を続けた。佐十郎の生活は充実し業績も大いに上がったが、実は、佐十郎の心は晴れなかった。ムール少尉に教わった牛痘種痘解説書(オスペンナヤ・クニーガ)の翻訳がどうしても完成できなかった。
ロシア人一行が帰国する間際、急遽、ムール少尉に教わってなんとか大意をつかむことはできた。その後、早速、訳そうと何回となく試みたが、十の文章のうち二、三はあやふやにしか理解できず、強いて訳しても必ず誤訳が多くなると思った。
誤訳を減らすために、もう少しロシア語に慣れなくてはいけないと己を慰め、しばらく筐底(きょうてい)に納めざるをえなかった。実は、ロシア語に慣れる機会が訪れるのか、見当もつかなかった。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」九節「向島牛之御前」(無料公開版)
十 筑前大宰府 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
人の世には、歴史を変えるほどの感染症がこれまで幾回となく流行(はや)った。黒死病(ぺすと)然り、麻疹(はしか)然り、結核然り、時代が下れば酷烈辣(これら)もその例と言える。それらを差し置き、国と民族を衰亡させるほど猛威を揮ったのは、なんと言っても天然痘、すなわち痘瘡だった。
天然痘は一万年前すでに人の病気であり、紀元前十二世紀のエジプト王(ファラオ)ラムセス五世の木乃伊(みいら)に痘疱が残る考古学上の所見にまで遡らなくても、震撼する歴史に事欠かない。
紀元前四三〇年、「アテナイの疫病」と呼ばれた流行病(はやりやまい)が始まり、ギリシアの民主主義都市国家の黄金期を築いた大政治家ペリクレスを翌年、死に追いやった。文献に表れた流行状況からみて天然痘と考えられた。偉大な指導者を失い、スパルタとの戦いが祟(たた)ってアテネが混乱し、古典ギリシアが衰退するきっかけとなった。
紀元一六六年、ローマ帝国で大流行した天然痘は戦慄するような惨状を呈した。前年にローマ軍団はパルティアに遠征し大勝利をおさめた。この戦勝記念の凱旋式に集められた帰国兵士から発病が始まり、これが元になって帝国各地で天然痘が猖獗を極め、死者三百五十万人を出したという。ペルシアからのとてつもない土産(みやげ)だった。
敗戦したパルティアの戦死者より遥かに多い犠牲を出し、これでは、どちらが勝ったかわからない有り様となってローマ帝国は癒し難い傷を受けた。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世だった。
多くの人々が天然痘の免疫を持たない時代には、いったん流行すれば怖ろしいほどの被害が出て、地域社会は変質し国がおかしくなった。大流行ともなれば感染を免れるのは百人のうち数人、四分の一は死亡し、生き残った人々の半数は、視力を失うかひどい痘痕(あばた)を残した。
その後十二世紀に、天然痘はセルジュック・トルコから帰国する十字軍遠征兵士によってヨーロッパに持ち込まれ、何回もの流行を繰返した結果、地域の多くの人が罹患経験を有する病となった。
初めは大人も子供も罹(かか)って大流行の悲惨な状況を呈したが、この業病は不思議なことに、いったん罹(かか)れば、二度と罹らなかったため、次第に、大人になって初めて罹る人は少なくなった。こうなると天然痘は子供の病気となり、罹ってこれを生き延びた強い子供だけが成人するようになった。ただ、生き延びはしても、しばしば、大人になっても痘痕(あばた)や失明の後遺症が残った。
免疫を持つ集団の割合があるレベルを超えていれば流行に至らなかったが、何十年がたつうち、あるレベルを下回ると大流行が起きた。疾病が地域に根付いて地域とともに折り合う病になり、風土化した。
かつてヨーロッパがそうであったように、十六世紀まで南北アメリカ大陸は天然痘のない清浄な地域だった。スペインの一団が中米に進出し、短い期間にアステカを亡ぼし、インカを亡ぼした。いずれもごく少数の兵で一国を征服できたのは、火器や馬など兵器の強みも理由の一つだったが、なにより、新大陸に天然痘がなく誰もが免疫を持たない清浄の地に、スペイン人が図らずも天然痘を持ち込んだことが最大の原因だった。
あっという間に、アステカやインカに蔓延し、結局、スペイン人との戦というよりは、この業病によって国が滅んだ。アステカやインカの民にとって、自分達だけが凄惨な死病に取り付かれ、スペイン人たちは殆ど罹らないように見えるのが、なんともいえず怖ろしかった。
このことを知ってか知らないでか、北米でイギリスがフランスと戦争したとき、イギリス軍は、フランス軍に加担したチェロキー族を攻めるため、親しげな素振りを見せて彼らに天然痘患者の使った毛布を気前よく分け与えた。
結果は明らかだった。免疫を持たないアメリカ・インディアンは無惨な痘疱を満面びっしりと散らして、次々と死んでいった。天然痘は看護に当たった女子供も容赦なく襲い、最後は看病する者もなく、患者が膿にまみれてのたれ死んでいくありさまだった。ジェンナーが牛痘接種を発見する四十年前のことだった。
どうやら、天然痘の起こりはインドの辺りとも中央アジア辺りとも言われ、西にはペルシア、アラビアを経てヨーロッパに、東には交趾支那(こうちしな)から支那へと入ってきた。支那のような人口稠密(ちゅうみつ)な地域にはヒト宿主が多く、出生率が高いため新たな宿主が次々に供給され、ワリオラ・マイヨールには絶好の環境だった。
支那では、恐ろしいほどの流行が幾度も繰り返され大きな犠牲を払った結果、天然痘は風土化し、そのうちに子供の病気となった。その後は、天然痘の洗礼を受けない漠北の清浄な遊牧民族は、容易に支那人の領域に入りこめなくなった。
十七世紀、満洲族が明に侵攻したとき、彼の地に恐ろしい病のあることを知っていた。それ以前、明に派遣された使節のうち、天然痘に感染(うつ)って客死するか、故国に帰って発症し、目をそむけたくなるような顔貌を呈して死んだ者が多くいた。
明討伐の遠征路において、満洲人は騎馬を駆使した作戦を練るだけでなく、恐ろしい病とどう対処するかも考えなければならなかった。一度、罹(かか)れば二度と罹らないと知ってからは、天然痘に罹って生き延びた満洲人だけを指導者と軍団兵に任命することにした。
清朝初代皇帝の順治帝は天然痘のため二十三歳で死んだ。これに懲りた清は、天然痘に罹り生き延びたことを最大の理由として、長子を差し置いて、その弟の康熙帝を帝位につけた。清朝では、明の時代から行われてきた人痘種痘を官吏、軍人にせっせと受けさせた。天然痘に清浄な国土を侵略されたインカとは逆に、天然痘に汚染された地で、清浄な侵略者がどう対応したか、対比的な事例だった。
業病は、朝鮮を経て日本に伝播した。『日本書紀』の敏達天皇十四年(五八五)二月条に、「是時、國行疫疾、民死者衆」とあり、国に疫病が流行(はや)り、民で死ぬる者が衆(おお)いと記録された。少したつと、「發瘡死者充盈於國、其患瘡者言〈身、如被燒被打被摧〉」と記述され、「瘡」を発して死ぬる者は国に充盈(みちみ)ちて、その「瘡」を患(わずら)った者が〈体が焼かれるようで、打たれるようで、摧(くだ)かれるようだ〉と語ったとある。「摧」には、形をこわす、くずれ落ちるという意があるから天然痘の症状に合致し、世界最古の天然痘記述の一つとされる。
下って『続日本紀』の天平七年(七三五)八月十二日条に、大宰府管内諸国に「疫死者多」とあるのが文献上確実な天然痘の初見とされる。八月二十三日条に、大宰府から報告が上がり「管内諸國疫瘡大發す。百姓悉く臥す。今年之間、貢調を停めんことを欲す。之を許す」大宰府管内では疫瘡が大いに流行(はや)って、百姓は悉(ことごと)く臥せっている。今年は徴税を停(と)めてほしいと要望してきたので朝廷がこれを許したと記述する。大宰府管内の経済活動が壊滅状態となった。
閏十一月になっても「疫癘(えきれい)已(や)まず」と深刻な記事が続き、「天下豌豆瘡(わんづかさ)を患う、俗に裳瘡(もかさ)と日(い)ふ」と病名の記述があって「夭死者多し」と記録された。流行は大宰府管内を越えて天下に広まり、子供、若者の死者が多いと記録された。新羅(しらぎ)から帰国した水夫が感染源になったものらしかった。
二年たった天平九年(七三七)、豌豆瘡(わんづかさ)はさらに酷(ひど)い流行となって、時の権力者、藤原四兄弟を四か月の間に死に至らしめた。四月十七日、参議民部卿正三位、藤原房前死去、五十七歳。七月十三日、参議兵部卿従三位、藤原麻呂死去、四十三歳。同月二十五日、左大臣正一位 藤原武智麻呂死去、五十八歳。八月五日、参議式部卿大宰帥正三位、藤原宇合死去、四十四歳。他に大勢の宮廷人が死んで国家機能が停止した。
国を止めてしまうほどの疫病は、重篤な症状を惹き起こし、凄絶な様相を呈した。五ミリから十ミリほどの大きな膿疱が満々と盛り上がって全身びっしりと密生する。隣接する円形の膿疱同士が融合してさらに大きく不定形に成長していく。てらてらと光沢をもった膿疱は根深く固く、中央が少しへこんで、顔面で特に密に広がっていく。瞼(まぶた)に生じた膿疱のせいで眼部は腫れあがり、瞼は開かず、閉じもできない。そのうち光が失われる。
膿疱は唇から口腔内までお構いなしに広がり、顔面は膿疱で埋め尽くされ、かつて顔だったものとしか言いようがなくなる。四肢から手掌、足裏までびっしり叢生した膿疱のため、手足というより、怒膨(どぶく)れて蒼黒味を帯びた凹凸の棒の何かが、膿疱にまみれた体幹から突き出たように見えてくる。
人によっては、豆を煮たような生臭い甘い匂いが不気味に漂い、凄惨な姿は刻一刻と肉が腐り溶けるように思わせる。見えないながら、呼吸器にも同じことが起こって、肉体が外から、内から膿疱に覆い尽くされ、融けながら壊れ死んでいく。
こうして、日本に痘瘡が根付き、天平七年(七三五)から天保九年(一八三八)の千百年間に五十八回の大流行が記録に残る。日本でも、成人とは、痘瘡に罹(かか)って生き延びた強い子の成長した姿であり、痘瘡は小児が生死を試される病となって久しかった。
痘瘡は決して避けられず、軽く罹れば命は助かる。少し重ければ助かって痘痕(あばた)が残る。重ければ失明するか、死ぬ。どうしようもない天然の摂理のなかで、当時の人は、生き延びるか、死ぬるか、幼い子供が苛酷に試される世に生きていた。
日本では五歳になるまで子供は数に入れなかった。天にお返しする時の悲しみを思えば、痘瘡を生き延びるまでは己(おのれ)の子供と思うより、天からの預かりものと思っていたほうが、親の心はまだしも耐えやすい。日本人の哀しい知恵だった。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」十節「筑前大宰府」(無料公開版)