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七 ひれを喰う 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦十三年(一七六三)七月七日、すでに注進のあった通り、昼を少し回った頃、唐船(からぶね)が長崎湾頭に姿を現し、静かに神崎沖まで進んできた。この日、長崎には真夏の日差しが眩しく輝いていたが、湾内の穏やかな海面をそよぎ渡る風は、どことなく秋の気配を含んでいた。

 船は戎克(ジャンク)と呼ばれる唐の型で、本帆と二式の小型弥帆を降帆すると、船員が碇(いかり)を投げ込むのが見えた。さほど大型でない所を見ると、おそらく浙江の乍浦あたりから出帆してきた口船(くちぶね)だろうと見物する人々は取沙汰した。

 帆柱は中央の主柱と舳艫(じくろ)二本の小柱で、水上の船腹は黒く塗られ、吃水以下の白い船腹が時折、波間に見え隠れした。舳先(へさき)には獅子の面が描かれ、迫(せ)り上がった艫(とも)に描かれた鷲とともに船を唐風に装飾してあった。舳先(へさき)付近の両舷船腹に鳥の目のように白く中抜きの丸が描かれ、展帆した帆を翼に見立てて、鳥を思わせる意匠になっていた。

 奉行所では昼前に第一報を受け、準備万端、唐船の入港を待っていた。湾口の神崎沖で投錨するのを確認すると、御番所衆の役人を乗せて幾艘もの曳船が漕ぎ出し、唐船に挽綱(ひきづな)をかけ始めた。

 役人は唐通事(とうつうじ)を従え唐船に乗り込み、真っ先に船頭が王履階であることを記録した。切支丹ご法度(はっと)の条々を唐人(とうじん)たちに読み聞かせ、ついで乗員人数と出港地を聞き質し、乍浦を出帆した船だと確認した。

 御番所衆は丁寧に時間をかけて煩瑣(はんさ)な手続きを済ませると、梅香崎(うめがさき)に曳航(えいこう)するよう曳船船頭たちに命じた。記録役は宝暦十三年の干支(えと)を振って、この船を未(ひつじ)九番船と記録した。梅香崎(うめがさき)に繫留すれば、新地荷蔵(しんちにぐら)に積み荷を降ろし、丸荷役の作業が待っている。人夫の手配も済んでいるから夕刻には作業が終了すると御番所衆の役人は見込みをつけた。心の内で、唐の戎克(ジャンク)の順調な航海と寄港を喜んでやった。

 

 王履階の来航から四月(よつき)ほどもたった穏やかな冬の一日、長崎奉行石谷清昌(いしがやきよまさ)は視察のため、長崎奉行所立山役所を出て十善寺郷の唐人屋舗(やしき)に向かった。駕籠は船大工町から本籠町を経て、本籠町門に至った。そこが長崎の町の境界である。

 一行が門を出て、清昌が駕籠から降り立つと、柔らかな冬日に照らされる広馬場がひろがっていた。そこで、本籠町から大浦方面に至る御崎道と、新地荷蔵と唐人屋舗を結ぶ通りが交わり、深堀や野母に行く旅人が必ず通る要衝だった。

 広場左手に唐人屋舗(やしき)大門を備えた練塀が三十間の長さに延び、両端に番所が見えた。右手正面、新地橋の架かる先に新地南門が望まれた。その背後には海を埋め立てて造った三千五百坪の島に十二棟の土蔵が並び立っている。新地荷蔵である。

 唐人に案内され、清昌は供と唐通事(とうつうじ)を引連れ、唐人屋舗(やしき)の大門くぐり、しばらく行って二之門を通った。広場左手に、唐人住居の十一番館、十二番館が石垣の上に建っている。正面の土神宮の社殿両脇に一対の旗が「配天」と「愍德」の文字をはためかせるのが見えた。

 さらに進んで大きな建物の二階、広い部屋に通された。奥には露台が張り出し、日除けの幔(まく)が見えた。

 恭(うやうや)しく清昌を迎え入れた王履階が、唐風の辞儀を丁重に行い、靠椅(肘掛け椅子)を勧めた。清昌は唐人召使の助けを借りて華麗な彫刻の施された重い靠椅(こうい)を引き、卓子(チョツウ)に向かった。

 材はいずれも重厚な紫檀で、高価なことが一目でわかった。紅白の紗綾を垂らした卓子を囲み、大皿に盛った料理を皆でつつき合って喰うのが唐人の風であると聞いていた。

 壁には軸装された揮毫が架けられ、室内の調度は洗練されていた。

 

     春雲紅(くれない)にして日を隔(へだ)

     江水緑にして山を浮(うか)

     岸を隔(へだ)て高きに憑(よ)りて望めば

     煙凝(こ)りて樹間に濃(こ)

 

「崎陽第一景勝稲佐嶽」と題された軸が目に入った。沈燮菴(ちんしょうあん)の落款があった。清昌は稲佐山を詠(よ)んだ唐人の詩興にざっと見当をつけた。 

 

     春の雲 日を隔(へだ)てては紅(くれない)

     海の面(おも) 緑映(うつ)して山を浮かべる

     岸隔(へだ)て 高きに登りて眺(なが)めせば

     霞(かすみ)かかりて木々の間(ま)に濃し

 

 将軍吉宗の許で勤仕した紀州藩士あがりの幕臣家系の者は、おおむね筆墨文事に明るくない。吉宗、家重にこの趣味を好まぬ風が見えたため、詩文に凝る者は殆んどいなかった。それでも、清昌は軸を丁寧に見て、話題にのぼるかもしれないと、詞藻を念頭に刻んだ。

 

 未(ひつじ)九番船が来港した直後、清昌は船主(チョエンチイ)を勤める王履階から、是非とも聞き届けてほしい向きがあると要望を受け、奉行所で嘆願の筋を聴いた。これが発端だった。

 王履階が述べたのは、唐が銅銭を鋳造したくとも、原材料の銅が不足し困っているので、唐の銀を以て日本の銅を長期間にわたり毎年、安定的に買い取りたいとの希望だった。王履階は、唐の政庁から銅の買い付けを請負っているとも言った。足許を見られることを警戒してか、唐の困る様子は奉行所で曖昧に軽く触れるだけだったが、唐はよほど銅不足に困窮しているらしいと、後日、唐通事が唐人屋舗(やしき)から聞き込んできた。

 清昌は唐の事情を詳しく知った。幕府は銅や物産を売って、唐や阿蘭陀(おらんだ)から金、銀を買い入れようと画策している最中だったから、これは絶好の機会といってよかった。

 急ぎ、江戸飛脚を立てて報告し、あらためて幕府の意向を問うた。聞くまでもなく、幕府では速やかに唐人の望みを差し許すよう言って寄越した。おそらく、意次が幕閣に説明し、幕府の財政改善に有益であると説いたのだろう。清昌は城中の様子が手に取るように想像できた。

 長崎、江戸の飛脚の往復で三月(みつき)を要したものの、清昌は早速、奉行所に王履階を呼び出した。交渉の結果、向う二十年間にわたり唐は、毎年、元糸銀三百貫目(千百キログラム)を持ち渡り、日本は代価に銅三十万斤(百八十噸)を買い渡し、その内の三割、銅九万斤相当分を俵物で宛てると約定が成った。

 江戸では前年、大坂御金蔵(おかねぐら)の銀為替を取りやめ五月から九月にかけて、十回にわたり江戸に現銀を輸送した結果、冬には、六千貫目、金十万両相当の現銀を江戸城蓮池御金蔵(はすいけおかねぐら)に積み上げるに至った。その五厘(五パーセント)の量に相当する銀を毎年、輸入できる。悪くない約定だった。

 

 唐人にはこれまでも、時宜折々に日本から銅を与えてきたが、これからは長期にわたり、安定的に買い渡すこととなった。唐人は大層喜び、さらに、銅だけでなく、俵物も含めてほしいと王履階のほうから申し出たから、清昌は内心、しめたと思った。ことさら表情を消し去り、この願いも厳(おごそ)かな顔つきで差し許した。

 交渉を終えたあと、雑談で、俵物三品の煎海鼠(いりなまこ)、乾鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)の料理が話題に上った。願いの筋を許された王履階は感謝を込めて、唐館にてこれら食材を使った唐人料理で長崎奉行をもてなしたく、近く、御一行を招待したいと申し出た。

 清昌はじめ奉行所勘定方は、これらの品にどの程度の商品価値があるのか見定めたいとかねがね思っていたから、またとない機会を得て、この日の唐風の宴席となった。

「私は銅商です。浙江省杭州府仁和県出身です。何度も長崎に来ました」

 王履階はあらためての自己紹介を始めた。

「沈燮菴(ちんしょうあん)がこの掛け軸を書きました。沈燮菴は我が同郷の先達です。私は好んでこの軸を眺めます。稲佐嶽の風情をよく表します」

 王履階は詩の話から入って、浙江と長崎の関わりに触れた。なかなかの日本語だった。

「沈燮菴は雍正帝の五年、御国(おくに)の享保十二年、長崎に来ました。儒者です。三十六年前です」

 王履階は、五十年にわたる唐と日本の交易を語り、長崎に来航する唐船の出帆港に言い及んだ。北から南の順に三つに大別され、口船は江蘇、浙江から、中奥船は福建、広東から、そして奥船は越南(ヴィエトナム)以南から来航する船だという。清昌は、各地の物産、風俗、地誌など面白い話をたくさん聞いた。

 そうした話は、清昌も一応は知っていたが、唐人から直接聞くと、詳細、具体的で興味深く、長崎が広く異国とつながっていることが実感できた。前菜を食しながら話題が弾むうちに吸物が運ばれてきた。

「これは魚翅湯(イユイチータン)です」

 王履階が鱶鰭(ふかひれ)の吸物を紹介し、湯気の立つ大鉢から客椀それぞれに取り分けた。それは椎茸と葱と鶏肉の入った薄塩梅(うすあんばい)の吸物で、食すと上品な薄味に出汁(だし)が利(き)いて、鰭(ひれ)の舌触りが得も言われず美味(うま)かった。

 清昌は唐人の料理の技と工夫に感心し、唐人が鱶鰭(ふかひれ)を好むのも無理からぬと思った。この料理には日本の海産品が無くてはならず、鱶鰭が高い商品価値をもつと実感した。

「御国(おくに)は高級海産物に恵まれます。銅採掘が盛んです。私は羨ましい」

 王履階は銅に言及し、康煕帝、雍正帝の御代から乾隆帝の初期の頃まで、日本の銅生産量が世界一だったと講釈した。

 ――この唐人銅商は、元禄から宝暦初めの頃は、わが国が宇内で一番の銅産出国だったと申すか……

 清昌は、内心、ひどく驚いて、王の顔を見つめた。王は頷(うなず)いて、誠実そうな笑みを返して寄越した。言っていることが嘘ではなさそうだった。全盛期に比べ出銅量が低下したとは言え、まだまだ銅を掘り続け、輸出品の柱に据えておかねばならぬと思った。

 卓子(チョツウ)を囲む話は和(なご)やかに盛り上がり、ときに笑い声がおきた。清昌は王履階の物慣れた接客を通し、王の見識と商才を高く評価した。

 料理は順次、煎海鼠(いりなまこ)を使った海参湯(ハイシェンタン)や乾鮑(ほしあわび)を使った紅焼鰒魚(ホンシャオパオイユイ)が供された。清昌は丁寧に賞味し、俵物三品の輸出によって唐人貿易から利をあげ、幕府財政を助けられる自信を深めた。 

 

 その年、俵物はすでに唐船に多くを買い渡したあとで、長崎で在庫が払底していた。結局、王履階に俵物は渡せず、丸々、竿銅三十万斤(百八十噸)を買い渡した。半分に割った竹竿に、溶融した銅を鋳流して製した銅地金は竿銅として海外でも有名だった。

 元糸銀三百貫目を得たことは成果と言ってよかったが、全額、竿銅で支払ったことに清昌は悔しい思いを残した。

 長崎奉行の号令で、鱶鰭(ふかひれ)、煎海鼠(いりなまこ)、乾鮑(ほしあわび)の増産計画が立案されたのは、それから間もなくだった。新たな産地を募って漁場を拡大し、漁民に増産するよう奨励策を準備した。そのため役人に各浦々を回らせ、品質の高い製品に仕上げる技を伝授することにした。

 海の幸を国内で喰うだけでは能がない。海産物を増産し、銀に換(か)える方策をどしどし進めていくことが長崎奉行所の大きな目標になった。

 清昌は当然なすべきことだと疑わなかった。幕府内には、商人まがいのことをしおって、と面白く思わない人々がいるだろうと想像する余裕もあった。長崎湾を見ながら、清昌はこれからの覚悟を固めた。

 ――これでいいのじゃ。異国との間にも物と金(かね)回りを考えるのじゃ。そして流出した銀を取戻してみせよう

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」七節「ひれを喰う」(無料公開版)

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