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四 雨夜に斬る 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

「さったら聞くが……」

 吉田は一転、話題を変えてポサドニック号の話を始めた。吉田の説を聴き入れようとしない武市に、己の無知を認めさせる最適な事件だと、とっさに判断した。

 この年の年初から魯西亜(ろしあ)軍艦ポサドニックが対馬の浅茅(あさじ)湾に停泊し、無体にも、無断で上陸して、井戸を掘り兵舎を築き、居座る構えを見せた。

 ついには島民を撃ち殺す衝突まで引き起こし、日本側の退去要求に一切応えなかった。居座って、ついには対馬を奪い日本海の要衝を確保しようという意図は明らかだった。そういう国柄であるようだった。

 幕府は、英国が魯西亜の露骨な侵略意図に危機感をいだいたことを知って、英国を引き込み、英国艦隊に浅茅湾まで出向いてもらった。勝麟太郎の策だった。

 英国艦隊から強く抗議され、ようやくポサドニックが退去したのが、つい数ヶ月まえである。危うく日本海要衝の島が魯西亜の勢力下に入るところだった。軍事力を背景にしなければ、何事も解決しないことを幕府はあらためて思い知った。

「攘夷もええが、ぽさどにくの一件ではどうするがじゃ。我が国力では、軍艦一隻、退去せられざったではないがか。軍艦なり武力の裏付けが無(の)うなれば国は守られんぜよ。打ち攘(はら)うなど一朝に出来るもんではないがじゃ」

 吉田はさらに話を拡げた。

「五十年以上も前のことや。文化年間にも蝦夷地は魯西亜国(おろしゃこく)から劫略を被り、松前藩の番屋に火をかけられ船を沈められたことがあったがじゃ。そげな国ぞ、魯西亜とは」

 吉田がこういう国を相手にどのような対策を取るのか、武市に尋ねても、判然たる答えは返ってこなかった。

「お前(まん)は、世界を知らんで騒(ほた)えているだけの輩(やき)ながじゃ。即刻、攘夷をやれと騒(ほた)えても、今は無理じゃとわかっとらんきに」

 吉田は武市の限界を呆気(あっけ)なく見切った。

「我が藩は勤王の志の深い藩であるが……」

 吉田はひと言前置きした。

「今上が異国をお嫌いあそばすだけのこんで、攘夷によって国を守ろうなど児戯にも等しいがじゃ」

 せせら嗤(わら)って武市の視野の狭さを罵倒した。

「お前(まん)、井底(せいてい)の蛙か」

 これが冷静に理をわきまえた正論だが、言い方は酷烈だった。

「尊皇だの攘夷だのと麗々しゅうあげつらいゆうが、おんし、己の立身を願(ねご)う私心が交じっちゅうのじゃないろうか」

 最下級の郷士身分から逃れたい武市の痛いところをえぐってみせた。

「偉(えろ)うなりとおて勤王をなすがか。米の飯を喰いとおて攘夷をなすがか。尊皇攘夷の赤誠が聞いて呆れるがじゃ」

 武市の誇りは、ずたずたに傷ついた。この藩の風では、吉田ら上士に郷士を軽侮する気分を拭えない。

「郷士ばらを大勢集めたと聞くき、ちっくと道理のわかった者(もん)かと会(お)うちゃれば、このざまかっ」

 吉田は、阿呆かと言わんばかりに武市を豎子(こぞう)扱いして、

「頭を冷やして出直(でなお)いてこいっ」

 圧倒的な気迫で大喝した。武市が切歯してほうほうの体で引き下がる姿を吉田は眉一つ動かさず冷ややかに見つめた。

 

 武市が吉田のことで悶々と思い悩んでいるうちに年が明けた。文久二年(一八六二)を迎えても一藩勤王の実は上がらなかった。三月、盟友坂本龍馬が長州からやって来て、武市に久坂玄瑞の書状を届けた。

 薩摩では島津久光が精鋭を率い京都に向うことが確かであると久坂の書面を読んだとき、武市は薩長に遅れをとることはできないと足掻(あがく)くように思った。されど、藩内事情は、土佐勤王党の面々が京都に向う土佐藩主の一行に加わることを許さない。吉田を説得できるはずがないと思ったとき、武市に勃然と覚悟が湧き出た。

 ――吉田を殺(や)ればえいがじゃ……

 武市は、人の命を超えて尊皇攘夷の大志を重んじ、主義のためには己(おのれ)を殺し人も殺せる覚悟ができていた。

 四月八日、高知城下はしとしと雨が降っていた。近く参覲交代で江戸に向う若き藩主、山内豊範のために、城内において吉田は最後の御進講を行なった。講題は頼山陽の日本外史、巻之十四から本能寺の変だった。

 

    光秀、仍(すなわ)ち鞭(むち)を挙げて東を指し、颺言(ようげん)して曰く、「吾が敵は本能寺に在り」と。
    衆始めてその反を知る。

 

 織田信長が天下の趨勢を握り、毛利の大軍と対峙するため京に滞在している。光秀が様々の想いを胸に、まっしぐらに桂川を渡河し信長宿館の本能寺に向う様を吉田は高調の音吐で語った。権力者の孤高と天下布武への大望と、一方で主君を除かんとする暗い叛意を若き藩主に説いて間然する所がなかった。

 吉田のほどこす君主学は、波濤に屹立する巌頭のような風韻を帯び、冷徹で剛腹で、やや生臭い人間臭がした。十七歳の藩主は魅了されて、ひたすらに聞き入り、吉田は迫真の歴史を語って倦(う)まなかった。

 講義のあと、御酒を賜って城を下がったのは、もう遅かった。吉田は傘をさし、弟子の上士若侍と一団となって帰途についた。辻々で順に別れ、吉田は若党と草履取を従え家路をたどった。吉田一行が追手筋を右手に折れて帯屋町に出るあたり、前野久米之助邸脇に武市の放った刺客三人が待ち伏せていた。

 暗がりの中、傘をたたく雨音が強まった。その時、若党のかかげる提灯が一瞬にして切り落とされるや、どどどっと、もう一人の巨漢が右側から後ろへ踏み込み、吉田の首を見込んで左肩へ傘ごと後袈裟に斬り下げた。

 大刀一閃、ばさっ、と大きな音をたて、柄の付け根あたりで傘骨が切られた。竹のしなやかな反動に白刃が柔らかく押し返され、初太刀は吉田の肩をわずかに傷つけたにすぎなかった。

 吉田は振り向きざま傘を捨て、二尺七寸、長刀左行秀(さのゆきひで)を瞬時に抜き放った。おもむろに足駄を脱ぎやり、大石神影流独特の附の構えをとった。左肘を水平にとった上段の体勢に一分の隙なく、刺客と鋭く六、七合を切り結んだ。吉田は渾身の気魄で、六尺の怪力無双の巨漢をじりじりと圧倒した。尋常ならざる吉田の殺気に、今にも長刀から鋭い突きが繰り出されるかと思われた。

 若党を追った別の刺客がようやく取って返し吉田の背後をうかがったが、その気配は雨音に紛れ吉田に気付かれなかった。吉田は背後から一太刀をあび、「残念」の一言を残して崩れ落ちた。

 巨漢は、うつぶせに倒れた吉田が切迫した息をするままに夢中で首を圧(へ)し切りにかかった。狂気に駆られて噴出する血しぶきを手掌に受けた。吉田の首筋から腮(あご)にかけて余程斬れがたく、幾度も拝み打ちにして、たたき切った。

 沛然(はいぜん)と降りしきる中、手をわななかせ、用意した洗い晒(ざら)しの木綿の褌(ふんどし)を懐から取り出し、まだ生温かく、ぴくぴくしている首をごろりと包んだ。闇夜の中、刺客らは荒い息をしながら脱兎のごとく現場から走り去った。これが武市半平太たちの尊皇攘夷だったという。

 実美は、土佐勤王党が京都に上ってきたいきさつを知って、武市の暗い顔つきの裏に込められた心の闇の深さを計りかねる思いだった。

 

                            *

 

 文久元年(一八六一)十月二十日辰の刻(午前八時)、和宮は桂宮邸御輿寄から出門、京都を出立して江戸に向かった。十二藩が輿を警衛し二十九藩が沿道を警固し、行列総勢六千名。幕府の威信をかけた大行列を奉行職事葉室(はむろ)頭弁長順(ながとし)、供奉中山大納言忠能(ただやす)、菊亭中納言実順(さねあや)らが率いた。もとより、岩倉少将具視も行列に加わっていた。この策を朝廷内で推し進めた最有力者だった。

 和宮が降嫁すれば公武合体の大きな一歩を踏み出すことになる。幕府の盛時に縒(よ)りを戻し政事一切を幕府に任せるよう朝廷を納得させることができる。大老井伊直弼の遺策だった。

 直弼が討たれたあとは、久世と安藤がこの策を進め、一年半を費やして幕府と朝廷間の紆余曲折の交渉をまとめあげた。その結果、皮肉なことに主導権は朝廷に移っていた。

 

 そのころ久坂は伏見に潜伏し、皇女和宮が江戸に降嫁する行列を襲撃し和宮を奪う計画を練っていた。和宮の行列が、供奉六千名にもなる規模だと知り、松陰門下のわずかな手勢などに襲撃できるはずもなかった。久坂は京都河原町の長州藩邸に悄然と戻ってきた。

 長井の航海遠略策が一世を風靡し、尊皇攘夷論が劣勢に立たされている状況だった。久坂は、和宮のことといい、長井の論策といい、全く面白くないことが続いた。

 久坂は憂さばらしに祇園にでかけ、魚品(うおしな)に上がった。ここは祇園縄手大和橋北入ル東に店を構える長州藩出入りの貸し座敷である。この店で久坂の相手に出たのは秀勇(ひでゆう)という芸子だった。

 秀勇は、客が長州藩士と聞かされ揚茶屋から呼ばれて来た。座敷に出ると、傷心か虚脱か、苦みばしった顔に憂国の志の作る暗い陰翳(いんえい)が宿り、物憂(ものう)げな風情を漂わせる長身の侍が一人座っていた。一目、久坂を見て、一見(いちげん)の客ながら、ぞくぞくする思いに駆られた。

「ようお越しやす。秀勇いいます」

 にこやかにゆったりと挨拶をすませ、秀勇はいそいそと客をもてなした。侍はしばらく暗い顔つきで秀勇の酌を二、三献受け黙然(もくねん)としていたが、吹っ切ったように杯を置き秀勇の三味線を所望した。少し唄いたいというので秀勇は、何をお唄いどすか、と訊ね、音締(ねじめ)しながら伴奏を弾きはじめた。

 

    加茂川の

      浅き心と人には見せて 

        夜は千鳥の啼き明かす

 

 久坂は低く甘い声で節をつけ、志士の心根(こころね)と娼妓の悲しみとを寂びた声音で重ね、纏綿(てんめん)と哀調を響かせた。浅いと見るなら浅いと見よ、真(まこと)の心がいかほど深いか、千鳥鳴きにも教えてみしょう。際立った節まわしに秀勇は聞き惚れて、三味線を忘れんばかりにうっとりとなった。

 聞けばこの場で即吟した都都逸(どどいつ)だという。変に狎(な)れない唄いぶりが新鮮だった。秀勇はいよいよ美声の主に惹かれ、肢体のどこか一点が熱(あつ)うなって潤(うる)むような心持ちになってきた。

 

    龍田川

      無理に渡れば紅葉(もみぢ)が散るし

        渡らにゃ聞かれぬ鹿の声

 

 久坂は次第に秀勇の三味線で覇気を取戻すようだった。久坂の唄いぶりを聞いているうち、秀勇は、もう堪(こら)えるもならず思わず小さく吐息を漏らした。

 ――川面に浮かぶ紅葉筏(もみぢいかだ)を早(は)よ蹴散らし、女子(おなご)の声めがけて、まっしぐらに渡って来ておくれやす

 深情けを滲(にじ)ませ三味線を切々と弾き続けた。秀勇には、久坂の唄いの声がささめごとのように聞こえ、立兵庫(たちひょうご)の髷際(まげぎわ)から耳たぶを甘噛みされたほどの心地がした。

 秀勇は、初会ですっかり心を奪われ、後朝(きぬぎぬ)の別れ際、

「きっと、きっとどすえ」

 ねだるように、裏を返してもらう約束を交わした。翌日から幾夜か、久坂と燃えるような愛欲の時を過ごした。芸子は遊女ではおへん、と思いつつ、我が身が久坂を欲しがるのをとめようもなかった。

 十日に満たない日々を経て久坂が萩に帰っていったあと、秀勇はいく夜かを泣き明かした。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」四節「雨夜に斬る」(無料公開版)

 

 

 




 

 

五 愛妓の侠気 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 文久二年(一八六二)四月十一日、久坂は京都に入った。三月二十四日に萩を出達して以来、途中、いろいろ人と会ってきた。京都では、島津久光の上京の影響を探索し、併せて遠略航海策の動向を知るのが目的だった。京都ではすでに長井が、いろいろ公家の間を周旋して回っているらしいと同志の書状で知った。

 長井は気力をこめて新たに航海遠略策の建白書を起草し、長州藩では、これを藩主毛利慶親名で幕府に上呈するまでに話を進めたらしい。長井は江戸で幕閣と合意し、三月、京都に上って、この写しを朝廷に提出したという。航海遠略策は予備的な検討期間を終え、長州藩の公式な建白として周旋され始めたらしい。久坂には聞き捨てならなかった。

 久坂は航海遠略策をつぶすため、新しい建白書の写しをなんとしても読まなければならないと思い詰め、京都に上ってきた。どのような論法で、長井の説が朝廷に承認されたのか、さらには、いかなる経緯で帝の賛意までも得たのかを知って、それをひっくり返す攻め口を考える必要があった。

三条河原町の長州藩邸に入った久坂は、帝が長井の新たな建白書を御覧になられた様子を耳にした。

「七、八年来、絶えて無き愉快の儀に接し、欣快なり」

 こんな御諚があったという。

 帝は長井の建白を御嘉納あらせられただけでなく、長井の説を読むと、愉快で元気が出るというお言葉までたまわったという。久坂は焦りを覚え、思わず唇を噛んだ。

 さらに、長井が近く、藩邸で航海遠略説の今後の周旋の件で藩要路と評定を開き、その場で、長井が江戸に向うことに許しがでるという。評定を終えたのち、長井は祇園で遊ぶつもりでいることまで知った。四月十四日に京都を出達する予定のようだから、京女を堪能して英気を養っておくつもりらしい。久坂には、あと三日の猶予しかなかった。

 久坂は、長井の動向を知るや素早く策を講じた。久坂は祇園の秀勇(ひでゆう)に助けを求め、因果を含めた。秀勇とは、前年の十月に馴染みになった。半年前に理無(わりな)い仲となって以来の再会だった。

 

 長井はその日、評定で用いた建白書の写しをそのまま持って登楼してきた。藩邸に置く方が却って不要慎と思ったらしい。予想した通りだった。

 秀勇は言い含められたとおり、長井に知られず、こっそり、別室にひそむ久坂の許に持っていかなくてはならない。秀勇は酔った長井の着替えをかいがいしく世話しながら、着物を乱箱(みだればこ)に整え写しをひそかに久坂の許に持ち出して、再び寝間に戻っていった。

 久坂は、秀勇が長井に抱かれている一刻ばかりの間に、別室で目を凝らし秀勇の持ち出してきた長井の書状を読み進めた。始めはすらすらと読み、二回目、三回目は丁寧に慎重に読み進めた。時に天井を仰いで考えに耽り、ぶつぶつ呟き、ついに航海遠略説の攻め口を見出した。

 長井の論はよく練られ、文辞剴切(がいせつ)、堂々たる論調だった。これまで帝や朝廷の嫌ってきた開国と外交が、実は、古(いにしえ)の御代には普通に行われていたと指摘し、さほど異国との修好を嫌う理由はないのだという論旨だった。抑えてはいるものの叡慮に反論するかのような論調も混じり、読みようによっては、帝を貶(おとし)めるに似ていると、言えないこともないように思われた。

 ――朝廷が歴史を知らんがために政治の混乱を引き起こしたと言うようなもんじゃ

 ――実際、本当に知らだったのじゃろ。じゃけど、そう言うてはならんのよ。身も蓋も無(の)うなっちょるけんのう

 ――朝廷に、ひいては帝に対し奉り、歴史の無知を誹謗する説。この線で言い立てりゃあ、朝廷もこれを恥じ、転じて長井への不快感につなげられるじゃろ

 久坂は、長井の説が帝を謗(そし)るのに似ていると、平(ひら)公家の何人かにこっそり曖昧(あいまい)な話を流すことを考え付いた。できればお調子者で口の軽い奴がいい。そんな公家はなんぼでも思いついた。

 論で戦わず、見えないところから攻める策略だった。あとは噂となり尾ひれがついて、公家らの間で耳元に囁(ささや)かれるようになれば、しめたものである。

 ようやく、久坂が長井の説をつぶす策を練った頃、秀勇が久坂の部屋にやってきた。衣紋つくろう細い指に、恥じらう心をほの見せて頬は上気していた。情人を助ける侠気を賭(と)して、今日のことを果たした高揚感が夜着から滲(にじ)み出るようだった。

 久坂は秀勇を見つめた。長井の論策を読みふけった冷徹な眼差しのままだと自覚があった。秀勇の立兵庫髷が朱がけの蝋燭の炎(ほむら)に映(は)え、ほつれ毛がなやましく白い頬にまとわりついている様が目に刺さった。

 久坂の目に映った秀勇は、情人の敵(かたき)に放恣に体を開いてしまったと、背徳を感じているかのようだった。それでいて、情人に欲情し眼つきが変にすわって、いつもの秀勇とは別人だった。

 秀勇は、これまで知らなかった情感が肉叢(ししむら)の奥から涌(わ)き上がるのを感じているようだった。きっと、わずかに苦(にご)うて不思議な蜜の味を伴(ともの)うのではあるまいかと久坂は思った。秀勇の寝乱れた風情に、あらぬ妄想が湧くのを覚えた。

 秀勇の姿を見て、長井に対する敵愾心をさらにかき立てられた。秀勇の情炎たぎる華奢な肢体を長井に抱かせたのだ。心の痛みが久坂の中で妖しく揺れ、長井への殺意と秀勇への情欲が交錯した。

 久坂の読み終えた建白書は、急ぎ乱箱(にだればこ)に戻しておかなくてはならない。秀勇が久坂に向って婉然と微笑(ほほえ)み、書状を受取る姿はひどく女臭かった。秀勇が再び長井の寝間に戻り行く後ろ姿は嫋嫋(じょうじょう)として、久坂の目に焼き付いた。

                            *

 

 長井が江戸に向けて出達して二日後、四月十六日に島津久光が兵一千を引き連れ京都に入ってきた。事前に倒幕の挙兵かと噂が流れ、京都所司代の酒井若狭守忠義(ただあき)(十万三千石、若狭小浜藩主)は狼狽した。後に、寺田屋に集結した薩摩志士たちが酒井若狭守の襲撃を企てていたと明らかになるのだから、酒井の狼狽振りも無理からぬことだった。その薩摩志士たちも久光の上意によって同僚に討たれた。京都は荒れていた。

 

 久坂が秀勇の助けを借りて半月ばかりが経ったころ、長州藩世子毛利定広が江戸から国許に帰る途上、京都に立ち寄った。とある会談を終えたあと、定広は議奏の権大納言中山忠能(ただやす)からひそひそと、長州藩の建白書には朝廷を誹謗(ひぼう)するに似た言い回しが見えると注意を受け、その数日後、今度は書面で通告された。藩は愕然となった。

 ここまで話が公式になれば、本当に謗(そし)りの文辞を含むか否かの話を越えて、朝廷にそう思われたこと自体、重大な不敬を犯したことになる。五月中旬、この件が江戸藩邸にも伝わり大騒ぎになった。

 長井は直ちに待罪書を書かされ、六月早々には帰国、謹慎が命ぜられるという慌(あわただ)しさだった。藩がいかにうろたえたか、久坂は快哉を叫んだ。久坂は藩の痛点がどこにあるかはっきり知って、朝廷の権威の裾裏(すそうら)に隠れ、これを軽く突(つつ)いただけで、あっけなく藩を動かした。

 七月には長州の藩是が、航海遠略策から破約攘夷論に大転換した。これまで進めてきた公武合体開国論が否定された。藩主の毛利慶親は自分の考えというものを持たず、家臣の意見に耳を傾けそのまま鵜呑みにすることを少しも愧じないたちだった。家臣の異なる意見が即座に藩是に反映され、真逆にひっくり返っても不思議はなかった。その場で藩主の「そうせい」と言う一言で決まったと噂が立った。

 久坂一派は、長井を失脚させたのだから、ここで攻撃の手を緩めるかといえば、それほど甘くはなかった。藩命によって萩に帰る途上で長井を暗殺しようと、久坂玄瑞、寺島忠三郎、伊藤俊輔(のちの博文)ら松陰門下が守山のあたりで待ち伏せていた。六月の晦日(みそか)から七月朔日にかけての深夜のことだった。

 もともと久坂らは、長井こそが、師、吉田松陰の微罪を幕府に告げて捕えさせたと思い込んでいた。長井にすれば、これは全くの誤解で、いわれなき怨みだった。久坂らは、航海遠略策を、この際、徹底してつぶさなければならず、師の怨みを晴らすために長井を殺(や)るに如(し)くはないと決めた。

 

 長井は、京都藩邸から緊急の密書を受けて、久坂らが己をつけ狙っていることを知った。いい迷惑だった。久坂にはあれほど丁寧に、何回も会って説明してやったが、物の道理がついにわからないようだった。意見の相違はやむをえないが、そのために人を殺すまでのことをするのかと驚き呆れ、索漠たる思いを持った。

 ――これでは狂人ではないか

 長井は一計を案じ、守山から伊勢路に逸(そ)れた。久坂らの襲撃をかわし、伊賀越えから大坂に出て、七月、萩に帰着した。ここには、京都と江戸における長井の輝かしい活躍ぶりを好ましく思わない者、妬(ねた)ましく思う者、攘夷しかないと固く信じる者らが手ぐすね引いて待っていた。

 萩では一旦動き出した長井処罰の手続きがことさら円滑に進められ、長井は、早速、御役目御免となって、親類預けとして監視のつく身柄となった。八月には罪案が成った。腹を切らされると秘かに噂され始めた。

 

 久坂と寺島の一派は、七月一日、長井雅楽にまんまと逃げられ暗殺に失敗すると、京都藩邸に自訴し河原町二条の法雲寺に囚われることになった。ほどなく身柄を藩邸に移され、予想通り、難なく許された。すでに長州藩は藩是を攘夷に変えたのである。

 自由の身となって、次に久坂らが暗殺の狙いを付けたのは島田左近だった。

 ――関白の九条尚忠は井伊に協力し、公武合体の一環として和宮の降嫁を推し進めた不埒者

 ――九条は関白職を辞さなければならないところ、未練がましく職にとどまっておる

 ――いまだに幕府が支援しているに決まっておる

 仲間の間で、九条に警告を発するため家宰の島田左近を殺(や)ろうという声が上がった。六月二十三日、ついに九条関白が辞任となり近衞公がこれに代わったため、もはや警告を発する理由もなくなった。

 久坂はそんな理由で、ひとたび狙った相手を許してなるものかと思った。島田が安政の大獄で井伊を助け、井伊に反対する多くの者を罪に陥れたことは隠れもない事実。当然、報復すべきだった。

「あやつは、攘夷を目指す有志の動向を所司代に売って、莫大な金品を得た者。堺町丸太町下ル西の豪奢な屋敷が何よりの証拠」

 噂では幕府から一万両もの金を手に入れたと言われ、攘夷志士にはひどく汚らわしく見えた。天誅の格好の相手だった。

 七月八日夜、久坂、寺島らはその屋敷を襲った。いち早く察知した島田は裏塀を乗り越え付近の法恩寺に逃げ込み、おそらく身なりを変えて法恩寺から姿を消した。長井雅楽といい、島田左近といい、久坂ら一派は狙った相手に逃げられることが多い。師譲りの「成敗を問わず」の伝で計画が疎漏だった。

 結局、島田に天誅を加えたのは薩摩藩の一派だった。探索方、鵜ノ木孫兵衛と志々目献吉、それに付いて行った田中新兵衛だった。島田の胴は高瀬川に投げ込み、二十三日、首は青竹に刺し貫いて先斗町の河原に梟首した。

 鵜ノ木と志々目の口から新兵衛の太刀捌きの鋭さが志士の間に伝わった。新兵衛が勇名を馳せる初めとなった。

 閏八月に越後浪士、本間精一郎が殺(や)られ、その二日後に九条家家士、宇郷玄蕃頭(げんばのかみ)が殺(や)られた。さらに六日後、目明し猿(ましら)の文吉が殺(や)られた。九月になって京都奉行所の与力、渡辺金三郎、大河原十蔵、森孫六が殺(や)られた。

 天誅に遭った者は梟首され、晒され、毒々しい誅殺書が青竹に挟(はさ)んで立てられてあった。そこには、嘲(あざけ)りを含んだ筆調で一方的に被害者を断罪し、惨殺の正義を得々と謳い上げてあった。

 京の町は恐怖と恫喝の闇に堕ちた。見る者が見れば土佐勤王党、長州藩攘夷急進派らの仕業だと予測できたが、与力自身が梟首されるようでは、京都所司代配下の町奉行に手の出しようもなかった。

 勤王志士や攘夷派公家のやった凶行は好んで「天誅」と呼ばれ、この企てに集(つど)う志なき多くの浮浪侍や帯刀の狂人に人殺しの動機と正当性を与えた。京都が無政府状態となるのも無理はなかった。

 あまりのむごたらしさに京都の町は震撼し、幕府は従来の京都所司代配下の警察機能では不十分と判断した。新たに京都守護職を設け、機動的で強力な治安部隊を派遣するのも幕閣の当然の対策だった。京都の治安は国政の重要な仕事だった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」五節「愛妓の侠気」(無料公開版)

 

六 犬猿の友好 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 文久二年(一八六二)十月二十七日、攘夷別勅使一行は威儀揚々と東海道を下り品川宿に到着した。ここで幕府始まって以来の厚礼を受けて勅使の接遇が格段に高まったことが見て取れた。勅使派遣の目的の一つは叶(かな)えられそうな気配だった。

 翌二十八日、勅使一行は辰の口の伝奏屋敷に入った。普通は十二、三日の旅程のところ十七日をかけて、堂々たる威厳を誇示して行列を連ねてきた。さっそく、将軍の命を受けて老中らが派遣され、長旅の疲れを慰めにやってきた。

 幕閣は鄭重に挨拶をなし、勅使に帝のご機嫌を伺い奉った。伝奏屋敷に幕閣中枢がこのように集まることは、これまでないことだった。荘重な挨拶が一通り終わって、老中から、将軍が麻疹(はしか)に罹(かか)り勅使と対面することがかなわないと告げられた。

 実美も姉小路も、この年、江戸で麻疹がひどく流行っていると早くから耳にしていた。勅書は将軍に親しく授けるべきもの、病とあれば、快癒するまで待たなくてはならないだろう。

 ――こら、長丁場を覚悟せなあかんのどすえ

 実美は、この間、将軍快癒を待ちながら江戸で多くの手を打てると、すばやく計算した。江戸でやっておきたいことがあったから好都合だった。

 

                          *

 

 この年の八月末、土佐藩主山内豊範が藩兵四百を率いて京都に上ってきて以来、縁戚の実美は豊範とじかの付き合いを深くした。豊範は十七歳、実美の十一歳の下で、あれこれ助言を与えてやった。

 これまで、三条、山内両家は京都、土佐の距離を隔てて親戚付き合いを重ねてきた。実美の母、眉寿姫あらため紀子は土佐藩十代藩主山内豊策(とよかず)の三女だから、実美にとって、土佐藩十五代藩主豊信(とよしげ)(容堂)と十六代藩主豊範(とよのり)は豊策を共通の祖父にもつ従兄弟(いとこ)にあたる。また父実万(さねつむ)の養女正姫(なおひめ)は豊信に嫁し、豊範の姉は実美の兄に嫁いだ重縁の間柄だった。

 此度の攘夷別勅使派遣は、三条家と山内家の親類関係が枠組みとなり、そこに長州の攘夷急進派が協力した結果、実現をみたのだった。長州藩の尊皇攘夷急進派の中心人物、久坂玄瑞、二十三歳が武市半平太と肝胆相照らす同志であることも一因だった。

 実美にとって、遠戚の土佐藩に比べ、長州藩攘夷派はいまだ十分深い近付きになったとは言えない。実美と姉小路が将軍の麻疹の快癒を待つ間は、実美にも長州藩士にも、互いに親交を深める好機と言えた。

 

 長州藩の久坂玄瑞と弟分の寺島忠三郎は勅使一行を追うように十月二十六日、京都を出達し、四日遅れの十一月二日に江戸に到着した。それからというもの、特に足しげく伝奏屋敷を訪れてきて、実美はじきに二人に心を許すようになった。特に、遠略航海策を潰した久坂の功を知ってからは、なおさらだった。

 久坂と寺島は、師の吉田松陰の情熱にどこまでも心酔し、安政の大獄で師を斬首した幕府に深い怨みを抱いていた。勅使一行が品川に到着したのは十月二十七日、ちょうど吉田松陰三回目の命日だったことを久坂から聞いた。実美は、京都を出発する直前に亡父の三回目の命日を迎えたことを思い出した。

「ほうか、松陰はんもそないどしたか。己未(きび)はうちらの怨みの年や」

 安政六年未(ひつじ)年の大獄を巡って、同類相憐れむような一言を口にした。実美なりに大獄で大切な人を喪(うしな)った親近感を表現したつもりだった。

 江戸の冬も深まった頃、長州藩は、実美と姉小路を外桜田の上屋敷に招き、京都と幕府の動きについて意見を交換した。固い話題も一段落して、久坂玄瑞と寺島忠三郎が相手となって、しばし打ち解けた話を交わした。座もすっかりくつろいだころ、久坂と寺島は苦い顔をしながら、こんな話を実美と姉小路に聞かせた。

 

「先ごろ十一月五日のことでござりまする。弊藩世子定広様が、ここ江戸藩邸において妹御の舅君に当たられる山内容堂公を祝いの席にご招待申上げたのでござりまする。定広様は京都滞在中の藩主慶親様に代わって、主人役をお勤めでした」

 毛利慶親の養女喜久姫と土佐藩主山内豊範の婚約が十月に取り交わされ、その後に行われた両家親睦の会の様子を語り始めた。

「土佐藩からは、容堂公に付従(つきしたご)うて寺村左膳様、小南五郎右衛門様、小笠原唯八様、山地忠七様らがお越しになられ、弊藩からは、毛利筑前、浦靭負(ゆきえ)、根来(ねごろ)上総、周布(すふ)政之助、中村九郎、来嶋(きじま)又兵衛、高杉小忠太、毛利登人(のりと)らがお迎えいたし、祝辞と挨拶を申述べて両家の懇親を固めたのでござりまする」

 久坂は、この場の情景を詳しく語った。

 長州藩の家臣らが容堂に挨拶し、両家家臣が互いに挨拶を交わし、ついで酒席となった。主人役の世子定広は容堂に鄭重に酒をすすめ、辞を低うして教えを請うた。このとき、定広二十四歳 、容堂三十六歳、一回り違いの亥(い)年生まれである。

 容堂が、年齢と、声望と、現在の地位から発する光芒は相当のものだった。それよりも、えぐ味を混じた容堂の性格によって、定広は、妹の婚家先の舅(しゅうと)という以上の威圧感を感じるようだった。

 容堂は気持ちよく盃を傾けていたが、定広から藩主はいかにあるべきか教えを請われ、反対に、為政の道は何を以って要訣となすと思われるかと定広に聞いてきた。

 定広は努めてにこやかに、無難に答えた。

「それは人材登庸、君臣一致が要(かなめ)かと心得まする」

 無難過ぎて面白くなかったか、容堂は首(こうべ)を振った。

「いまだ可ならず」

 と返した。それでは答えになっておらぬ、とばかりの言い様は長州藩士には憎体(にくてい)に響いた。座はあっと云う間に静まり、険悪の気配が漂いはじめたという。

 こういう言い回しが容堂の臭みだった。

「為政の訣は忠邪(ちゅうじゃ)を弁(わきま)えるが要である」

 と断じた。さらに踏み込んで、

「家臣の忠邪を君主が弁(わきま)えなければ、何を以って君臣の一致を得られようぞ」

 野太い声で言わでもの一言を吐いた。どうとでも言えるような結論なき議論は土佐のお国振りというものだった。この国では、犬が利口か、猫が利口か 、議論してさえ斗酒猶(なお)辞さざる盛り上がりを見せ、賑々(にぎにぎ)しい酒席を好む風である。

 開国を堂々と説いた家臣を失脚させ、攘夷急進派の台頭を許しておいて何が君臣一致か、と容堂の内心せせら笑う気持ちが、毛利の家臣たちにうすうす伝わってきた。藩士中に邪(よこしま)の家臣がいて家臣同士で争っているのであろうと図星を指された気がして、長州側はいよいよ憮然とこれを聞いた。

周布政之助がとりなすように言った。

「今のお言辞(ことば)を書き残させていただきまする」

 恭(うやうや)しく申し出て、筆硯を呼び癖のある字でこう書した。

 

   為政之道在于君臣一致 

   而其要只在辨正邪

 

 為政の道は君臣一致に在り、而(しこう)してその要は只(ただ)正邪を弁(わきま)えるに在り、と訓み下した。容堂はこれを見て、

「只の字は違う、唯の字に作るほうがよかろう」

 字句の異同を言ったものだから、周布は恥じて顔を赧(あか)らめた。容堂は漢学に自信があり余り、この一言が抑えられない。なにも親睦の場で字句の吟味など、せでものことだった。それをわかっていて、ここまでからむのは、長州藩への冷笑のためかと長州藩士は皆不快に思った。

 この晩ばかりは、定広が京都にいる養父(ちち)慶親になり代わって主人役の懇篤な立場を演じなければならず、容堂の心を獲(と)るため次に揮毫(きごう)を頼んだ。容堂は大いに気をよくして唐紙を展(の)べさせ、真ん中に妓楼で用いる洒落た酒瓶を大きく描いてみせた。

 人君は努めて下情に通ずるをよしとせよ、と人を喰った体(てい)で嘯(うそぶ)きながら、酒瓶の中に和歌を書き入れた。

 

   品川によせては返へす波枕 

      かはるうきねのわびしかるらん

 

 容堂は、安政の大獄で、品川の南、鮫津(さみず)別邸に蟄居を余儀なくされ、やり場のない怒りと国を憂える苦悩のために波の音で眠りが妨げられた往時の無念を詠んだのかもしれなかった。そう取る長州藩士もいるようだった。

 あるいは、品川沖の台場を守って、夜も異国船の侵攻を見張る武人の心を思いやったと読み解く藩士がいても不自然ではなかった。

 そう見えて、その実、毎度、相客の変わる品川遊女の浮(う)き寝と憂(う)き寝をわびしいと詠んだようでもあった。遊郭で用いられる小粋な酒瓶との組み合わせでは、下情に通じ過ぎた気味があって、まさか藩邸の襖に仕立てるわけにはいかない揮毫となった。人を人とも思わぬ悪趣味だと多くの長州藩士が思った。

 さらに、止せばよいものを、あらたに唐紙を展べさせ、大仰にさかさまの瓢箪を描いた。貴藩はかくの如しと、上機嫌に笑いながら、ようやくにして、しつこい筆を擱(お)いた。

 上に人材なく、権は下に移って上下転倒の状ありと諷し、藩内で開国と攘夷が争うさまを揶揄したらしいことは容易に想像がついた。一度は航海遠略策をぶち上げながら、なぜか破約攘夷に変転した藩の方針に含むところがあって、当てつけたことは誰にもわかった。定広は、内心はともあれ、知らぬげに、にこやかに努めていた。ことここに至って周布政之助は、むかっ腹を隠すのに必死の様子だったという。

 容堂は、扈従(こじゅう)してきた残り六人の家臣も酒席にいれてやってほしいと頼むと、定広はこれに応じ、この機に久坂玄瑞ら己の若い家臣を呼び入れた。宴の席はいよいよ酣(たけなわ)の様相を呈し、容堂はあらためて呼び入れられた長州藩士たちから鷹揚に挨拶を受けた。

 挨拶がすむと、この若侍らを酔眼でじろりと見やって、思うところあってか、久坂を

「近(ちこ)う」

 と呼んで盃を賜い、詩吟を所望した。

 久坂の詩吟は近しい者の間ではよく知られ、祇園や島原では、耳にすればどんな妓女でも、必ずうっとり薄目を閉じると言われていた。芸妓の中には喘(あえ)ぎにも似て妙なため息を洩らすものもいると噂された。若いくせに、浮いた噂も知っておるぞという容堂の謎かけのようでもあった。

 詩吟を所望する容堂の声には、京の花街で浮名を流すなど十年早かろうと、久坂への軽侮とそれを許す藩風を揶揄する心が含まれているようだった。

 久坂は、立場上、迷惑げな風を隠して平伏し、素直に賓客の需(もとめ)に応じた。六尺という長身の座位を整え、しばらくの間、じっと瞑目した後、

 

   猛火輪転黒烟を掲げ

 

 と我が師、月性の長詩を吟じ始めた。

 月性は周防(すおう)遠崎、妙円寺の僧で、吉田松陰と親交が深かった。安政元年(一八五四)、久坂が十五歳の折から書読を学び、天下の情勢を教わった恩師だった。松陰に師事せよと久坂に勧めたのが月性だった。異国の脅威を大いに鳴らし、海防僧の異名をとった血の気の多い詩僧である。

 

   宜しくその使を斬(き)って士気を鼓すべし

   相模太郎は是れ我が師

   我、方外に居(お)りて、尚、切歯す

   廟堂の諸老、何ぞ遅疑(ちぎ)するや

 

 六百年前、執権北条時宗は元フビライの使者五人を鎌倉の龍の口刑場に斬首した。理不尽な元の脅迫に屈しない意気を決然と世に示した事蹟を踏まえ、月性は、今の国難には北条時宗こそが我が師であるという。

 ペリーの来航した折、日米和親条約にやすやすと署名する前に、なぜ横浜村仮殿舎の調印の場でペリーを刺さなかったかと、幕吏の弱腰を非難する声が当時からあった。ペリーら米国の使節を六百年前の元の使いに見立てた攘夷感情論そのものだった。

 月性は、元寇では使者を斬って事に当ればこそ神風が吹いて、四百余州をこぞる十万余騎の敵を覆滅したのだと暗喩する。世間を離れた己のような出家僧でさえ、きりきりと奥歯を食いしばっているものを、廟堂の老中方よ、何をぐずぐず、迷い躊躇(ためら)うのだ。月性は攘夷思想の熱くどす黒い情念を詩中、存分に噴き上げた。

 吟じ来たって悲憤し、詠じ去って慷慨し、痛哭の血涙あふれるがごとく、久坂は軟に硬に、陰に陽に、律動的に攘夷の熱情を吟じ分けた。艶やかな美声の妙は、激しく、時に甘やかに百囀(ひゃくてん)し、さわがしかった酒席の者が杯を停め、静まり返って聞き入った。久坂が、

「廟堂の諸老なんぞ遅疑(ちぎ)するや」

 と、中途でにわかに吟声を止めた。席が静寂のままに過ぎるその瞬間、周布政之助が起座し、容堂を指さして、

「侯もまた廟堂の一老公でござるっ」

 と鋭く言い放ち、一礼して席をつつつっと去った。確かに、容堂の憎体(にくてい)に一矢酬いたかに見えたという。

 容堂は前月、御用部屋に罷り出でよと幕府から懇命を受け、老中として遇されていたから、まさに廟堂の諸老の一人だった。容堂は顔色を変え、土佐藩の侍臣らは怫然と怒色をなした。

 一髪触発、座に緊張感が張り詰め、興に乗った宴席が一瞬に白けわたった。定広は呆然と声を呑んだ。容堂はふてくされたようにそっぽを向き、膳の上に朱塗りの盃を放り出した。気まずい空気が流れる中、駕籠が呼ばれ、容堂は足音をたて席を蹴立てる勢いで帰っていったという。

 

 久坂はことの顚末を語り終えた。

「容堂公は三条卿の御縁戚に当たられる御方ながら、かようなお話をお聞かせ申上げましたのは……」

と、この話を語った理由(わけ)を説明し始めた。

「これから土長両藩で力を合わせんにゃあ攘夷も実現できるかどうかわかり申さず」

「容堂公はなかなかに難しい御気性であらせられる上、土佐藩内ではおよそ三派に別れ申し、国が割れて君臣の一致にほど遠いと聞こえて参ります」

 久坂は実美と姉小路に、この辺りの両藩の軋(きし)みと感情の行き違いを知っておいてほしいと懇(ねんご)ろに頼み込んだ。志士たちは攘夷の一念で集まってみたものの、国許の複雑なしがらみから自由になれず、藩を越えて結束を固めるのは容易でないようだった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」六節「犬猿の友好」(無料公開版)



 

三章五節「愛妓の侠気」
三章六節「犬猿の友好」
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