七 どか貧の偉物(えらぶつ) 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
それから数日後、江戸では実美が何度目かの招待を受けて、外桜田の長州藩邸に赴いた。京都から珍味を取り寄せたから、固い話を抜きに一席を設けたいとの口上だった。
伝奏屋敷では御馳走役の大名が用意する珍味佳肴が連日続くものの、実美が、江戸の味付けは口に合わないと言ったことを久坂と寺島が覚えていた。
藩邸の座敷に通され酒盃を重ねるうちに、京都の珍味なるものが運び込まれてきた。それは鮒鮨だった。皿に盛られた薄い切り身に腹子が鮮やかに黄色く映え、独特の酸(す)い匂いを鼻にした途端、実美はにわかに青ざめ、声をあげ手を震わせて強く拒んだ。
「これは、これは。お嫌いにござりましたか。早速に下げさせまする」
久坂が、とりなすように言った言葉も実美の耳には入らなかった。
実美の心の中で、鮒鮨は父実万の死と分かち難く結びついていた。三年前、父は一乗寺村の幽居先で大好物の鮒鮨を知人から贈られ、喜んでこれを食した。その後、次第に不自然な体調となって激しい下痢を引き起こし、ついに水瀉に至って干(ひ)からびるように死んだ。
熟(な)れた鮒鮨は、蛆が湧くことはあっても、腹をこわすことはなく、むしろ腹の調子をよくするものだった。父の死後しばらく経ってから、実美は亡父(ちち)に贈られた鮒鮨に疑いを持った。
――幕府の息のかかった者が何らかの悪謀を鮒鮨に仕込んだんやあらへんやろか
これまで幾度となく思い悩んだ疑念が、心中、忌(い)まわしい記憶とともに一気に噴きあがった。実美にとって、父が鮒鮨を喰って死んだことが屈辱だった。父は、見知った者が贈ってくれたと思ったのだろうが、よく考えてみれば、知人が直接届けたわけでもなく、胡乱な奴が持ってきた鮒鮨を、喰いたい一心で知り合いからの贈答と思いこんだのかも知れなかった。
――幕府は貧窮の生活を送る父の心情を見切っとったんやなかったんか
――父の弱みを見透かしたかのように、好物と知って鮒鮨を贈ってきたんやなかったんか
そう考えると父の死がみじめに思え、何度、奥歯を噛みしめたことか。三年間の無念がよみがえった。
――幕府の奴らは、さもしさゆえに父が死によったと聞いて、呵呵大笑して策の当たったことを祝(いを)うたんやなかったんか
ひがみ交じりに妄想すると、実美は、たまらない思いにさいなまれるのが常だった。長州上屋敷で酒宴を続けるどころではなかった。実美はいたたまれない不快感と不安感の発作に襲われ、心悸が高まって冷や汗を噴き出し、ほうほうの体(てい)で宿館の伝奏屋敷に戻っていった。残された久坂は藩邸上屋敷の表門に立って深々と辞儀し、何かを考える風で一行を見送った。
*
この当時、京都の公家はそれぞれの家格がくっきり定まり、摂家に次いで、清華(せいが)、大臣家、羽林家、名家、半家と格付けられていた。それ以下の堂上(とうしょう)は血脈によって閑院家二十三家、花山院家五家、中御門家九家、御子左家(みこひだりけ)、冷泉四家、日野家十二家など多くの家が続き、みなで公家は百三十七家を数えた。
三条家は清華の筆頭格で藤原北家から分かれて閑院流と称し、その祖は遠く平安時代末期に遡(さかのぼ)る。本家が転法輪(てぼり)三条、別れが正親町(おおぎまちまち)三条と呼ばれ、この家系から賢才良臣が彬々(ひんぴん)と輩出した。見聞該博(がいはく)、有職故実に精通する者や、詞藻豊かに詩歌に長ずる者が多かった。
三条家の輝かしい家伝を沈金のように潜(ひそ)めた古格な屋敷が、通称、梨の木町に建っている。仙洞御所北辺の清和院御門に入る手前二本目の通りが梨の木町で、これを北に上れば、左側二軒目が転法輪三条邸である。
このころ公家は皆、貧乏している。平常の身なりもよくはない。虱(しらみ)を湧かせたある公卿の住まう通りが虱(しらめ)小路と揶揄(やゆ)され、白梅(しらめ)小路の字が当てられた噺は有名だった。京都では虱も白梅もしらめと言う。
三条家もその例外ではない。それどころか、むしろ貧乏で有名だった。多くの棒手振(ぼてふり)が小商いのために梨の木町をまわると、きっと二軒目で良くないことが起きた。
噂噺(うわさばなし)があった。新参の豆腐屋が売り声を上げて梨の木町辺りを回っていたときのこと、裏口の板戸がぎぃーと開き、煮染(にし)めたような風体(ふうてい)のむさい爺(じじい)が出てくると、なにやらぶつぶつと豆腐売りに話しかけた。
京都では、豆腐は一丁十二文だが、江戸や大坂と違って半丁売りはしない。それを半丁六文で売れという理不尽な交渉が始まった。当然、豆腐屋は断る。それを何のかのと、わけの分らない言い回しに引掛かり、半丁売りはしないという京の豆腐屋の意地を巧みに突かれ、一丁を半額の六文で売らざるをえなくなったという。事後談では、下男に見えて、案外、あの爺(じじい)が実万(さねつむ)公本人だったのではないかという落ちさえついた。
多くは掛売りだからその場で銭は払わない。年末、棒手振(ぼてふり)が三条家にたまった代金を受取りに行って、すんなり払ってもらえることはまずなかった。いつの間にか、棒手振(ぼてふり)達はこの通りでは売り声を上げず、三条家に呼び込まれないよう、そっと抜けるのが習いとなった。梨の木町は静かな通りだった。
安政四年(一八五七)十二月、年の瀬も迫ったころ、江戸幕府から、林大学頭らが使いにやってきた。開国を説き、幕府は日米修好通商条約を締結したいと朝廷に報告する第一陣だった。
その折、実万(さねつむ)は内大臣として、異国嫌いの帝(みかど)の意を体して幕府の開国方針に反対した。実万の政治的な働きはともかくとして、この頃、町ではこんな落首が流行った。
三文も梨(なし)の木町の内大臣
忠義は人が百も御承じゃ
官職は内大臣の高位にあって三文も無し、と掛けられては、いくら帝に対し奉り明白な忠義だと詠んでもらっても、実万は嬉しくはなかったろう。この落首を知ったら、苦虫を噛み潰したか、それとも、にやりと鼻で笑って見せたかどうか、それは噺になっていない。
また、こんな噺もあった。三条邸の練塀に、「無二膏」という膏薬の貼紙がしてあり、その傍らに「公卿の大出来物」と書かれてあった。二つとない最高の膏薬という触れ込みに添えて、出来物(できぶつ)の公卿と誉めそやしてあった。厄介な大腫物(できもの)と掛けてあるのだから、町民にも、偉くはあるが面倒な御方と思われていたらしい。
実万は勅使として生涯七回江戸に下った。その機会に公家の禄を増やすよう、幕閣に建議した。他の公家の生活状態を十分にわかっていたし、実万自身、かつて金の問題でつらい思いをしたからだった。
実万が一番につらかったのは、炎上した内裏(だいり)がようやく再建され、安政二年(一八五五)八月十二日が内裏上棟式と決まったときのことだった。実万は遷幸の供奉の一人に撰ばれ、帝の行列に連なる誉れの役に任じられた。喜んだのも束の間、支度を整える金がなくてほとほと弱った。
家臣らが、親戚筋の彦根井伊家、土佐山内家に泣きついたところ、井伊家では乗馬と馬具一式、口取り一人を面倒みてくれたが、とうてい十分ではない。山内家はわずかの金子(きんす)をよこしただけだった。
やむなく実万は公家と姻戚関係をもつ大名を物色した。内福の大名であることが重要だった。あれこれ勘案して薩摩藩にめぼしを付けた。その親戚筋にあたる近衛忠熙(ただひろ)に下げでもの頭を下げ、薩摩藩に口を利いてくれるよう必死に頼み込んだ。忠熙の正室は、薩摩藩主島津斉彬の父斉興の養女なのである。
卑屈な物腰であっても気にしてはいられなかった。近衛は渋い顔で実万のねちねちとした頼み事を聴いた。忠熙が、次から薩摩に無心を言いにくくなるのを恐れているのは実万にもわかっていた。
実万は何度か苦しい依頼を近衛に重ね、いやな顔をされながら果敢に頼みこんだ甲斐あって、ようやく島津家から三条家に援助の申し出がきた。馬の胸懸(むねかい)から垂らす緋の厚総(あつぶさ)と金千匹を用立ててくれるという。近衛のおかげだった。
実万はやっとの思いで供奉の準備を整えることができた。手練(てだれ)の武家伝奏として家禄四百六十九石を公称され、政事の力量を広く知られた実万にしてこの有様では、朝廷の儀礼も威儀もあったものではなかった。「今天神」と綽名され、学問の神様の再来とまで言われた評判が泣けてくるというものだった。
三条実万だけではない。岩倉具視の貧乏も有名だった。若い頃、貧乏屋敷の一室を博徒(ばくと)に貸し、テラ銭を取った。町奉行の役人は公家の家には踏み込まないから、博徒もしょっぴかれる心配なく、渡世稼業に専念できるというわけだった。
岩倉はくたびれた縫腋袍(ほうえきのほう)をまとって威儀を正し、空しく宮中の片隅に控えているより、小金を持った町人風情がどやどやと出入りする喧騒にあって、賭場で博徒どもを睥睨(へいげい)している方がよほど似合う男だった。博徒相手に身につけたわけでもなかろうが、後年、妙に世練れた素振(そぶ)りと威圧感で朝廷を主導するに至った。
下級公家には、強請(ゆすり)、集(たか)り、美人局(つつもたせ)、富籤(とみくじ)興業まがいをやってのける不届き者が後を絶たず、公卿といえば、金払いの悪いのはまだましな方、その風儀はひどかった。悪いのは十分な禄をよこさぬ幕府であるとうそぶく風潮が広まり、こうした公家が市中をのし歩けば体(てい)のいい破落戸(ごろつき)だった。
下級公家が反幕になる素地が長い年月にわたって培われたことには、こうしたわけがあり、有り体に言えば、二、三百年にわたる金の怨みだった。
実万(さねつむ)は貧乏しつつも、三十の齢から議奏を勤めること足掛け十七年におよび、四十七の齢から武家伝奏を九年勤め上げてのち内大臣職に一年間、在職した。先々代の光格天皇の後期から出仕し、先代の仁孝天皇には寵臣の扱いを受け、近衛忠熙、青蓮院宮と並んで今上から深い信任を賜った。三代の帝に仕え、その人脈は朝廷、公家はもとより、婚姻を交わした大名や、勅使として江戸に下向した折に懇意となった諸大名に及び、京都の僧俗庶民、各階層に広がっていた。
*
嘉永三年(一八五〇)六月の頃だったか、実万は梨の木町の屋敷に古風な下級公家の身なりをした男から訪問を受けた。
見知らぬ男だったが、招じ入れて話を聞くと、岡田為恭(ためちか)と名乗った。正六位下、式部大椽の官職に任じられて間もないという。虎屋の羊羹を木箱に入れて麗々しく献上してきたから、実万は話を聞いてやることにした。なかなか、おもしろい話題を持つ絵師で、次第に引き込まれ聞き入った。
為恭(ためちか)にとって、京都画壇で有力な京狩野(きょうがのう)九代目狩野永岳は血のつながる伯父だという。為恭はどういうわけか、子供の頃から狩野派の画風を好まず、大和絵に魅入られたところから、己の画業の歩みを語った。
為恭は特に師匠をもたず、大和絵師、田中訥言(とつげん)に私淑したが、一番の師は高山寺、神護寺、聖護院などの社寺に所蔵される百年、二百年、時に数百年を超える古びた大和絵の絵巻だった。八方、伝手を求めてこれらを借覧し、模写を重ねては技量を練った。
それだけでなく、町の学者を訪ねて有職故実を学び、平安の王朝に栄華を極めた公卿の生活を鮮やかに思い描けるほどの素養を身につけた。
この男がこの方面で豊富な知識を持つことが、実万にも話の端々(はしばし)から容易にわかった。為恭(ためちか)が結局、何を言いたいのか、実万は見当のつかないまま、話自体の興味で聞き続けた。
為恭にとって、美の源泉は往古に花開いた王朝文化だった。多くの絵巻物を模写し、王朝時代の匂(にお)いまで香(かぐわ)しく想像できるほどになった。
為恭は若くして多くの注文を取るようになって裕福になった。高価な絵の具を惜し気なく用いた濃彩の王朝世界を画紙に展開した。絵を描くだけでは飽き足らず、王朝様式を模して己の住居、衣服、生活そのものを営み、すっかりなり切って古典世界の情感に浸(ひた)った。
ある時期から、冷泉(れいぜい)為恭(ためちか)と名乗り、冷泉家とは、とりたてて縁もないのに落胤を称し平然としていた。冷泉家が苦情を言い立てた様子もなく、気付かなかったか、気付いても何も言わず放置したようでもあった。気の利く男のことだから、裏でぬかりなく冷泉家に礼物などを計らったのだろうと実万は見た。
それもこれも皆、形式を踏襲するだけの土佐派とは別に、正統な大和絵の復興を目指すためであるというのが、為恭の言い分だった。どっぷりとその世界に没入しなければ、いい絵は描けない。
ここまで王朝文化に憧れ、偲ぶ以上、当然、為恭は尊皇だった。かつて攘夷論めいた話をぶつこともあったというが、実万の前では遠慮したらしい。ただ、朝権を復活させたい、復活したその時は文物すべてを王朝風に飾りたいと訴え、実万に熱弁を振るった。
実万は根っからの政治家で学識は深い。三条家の家学は服飾の有職故実と笛であり、王朝趣味を十分に理解する。為恭の話を面白く聞いていると、最後に京都所司代、酒井若狭守忠義(ただあき)(十万三千石、若狭小浜藩主)の話に至った。因縁めいた奇談だった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」七節「どか貧の偉物」(無料公開版)
八 細き紅糸 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
酒井家代々の藩主が美術に関心深く、有力な蒐集家であることは、その筋に広く知られていた。品々には、南宋の時代に焼かれた油天目茶碗、大名物(おおめいぶつ)の唐物羽室文琳茶入、唐物茶入銘北野肩衝、茶入付藻(つきも)茄子銘国司茄子、中興名物瀬戸瓢形茶入銘春慶瓢箪、二徳三島の高麗茶碗、水仙盆など茶道具の名品を数えた。絵巻では、伴大納言(ばんだいなごん)絵詞(えことば)、吉備大臣(きびだいじん)入唐絵詞(にっとうえことば)などがあった。どれも屈指の逸品だった。
為恭(ためちか)は十九の時、父永泰に頼みに頼んで大和絵師田中訥言(とつげん)の模写した伴大納言絵詞三巻を三十両で買ってもらったいきさつを語った。為恭はこれを竹筒にいれて片時も離さず首から提げ、暇さえあれば眺める日々を送ったという。
為恭は訥言の模写に傾倒しきって、その又模写を繰返した。それだけでなく、大和絵第一人者と謳われた田中訥言の没年が自分の生年と同じ文政六年(一八二三)であることを知ってからは、己は訥言の生まれ変わりだと信じるほどに私淑した。そして、訥言の模写の巻(まき)之三に、訥言に敬意を捧げて歌を仮名書きした。
みるたびに ちとせのむかしおもひやりて
まなぶこころのつよりゆくかな
歌のしらべはともかく、訥言への敬意、模写画への傾倒だけは実万に伝わった。
酒井家が伴大納言絵詞を所蔵すると知って、為恭は自ら本物を模写する機会をなんとしても得たかった。長年悩み、工夫を重ね、伝手を求めて探しまわったが、見出せなかった。ついに叶わざる夢か、と思い詰めたとき天啓がひらめいた。
この日訪ねてきたのは、実万が武家伝奏であるため所司代の酒井若狭守忠義(ただあき)と職務上親しいから、口を利いてもらえれば道がひらけるのではないかと考え付いたのだという訳だった。ようやく、実万は為恭の要件がわかった。
為恭(ためちか)は飄逸で広い話題の持主であり、実万はその熱意と生き様が気に入った。力になってやろうといろいろ機会を窺ううちに、ひと月余りたって、酒井忠義が京都所司代を辞めたため、為恭の望む機会は失われたかに見えた。
これ以来、実万と為恭の縁は長く続き、安政二年(一八五五)、御所の再建時に、実万は為恭を推挙してやり、為恭は檜の香り芳(かぐわ)しい小御所の北廂(きたひさし)襖絵に彩管をふるう機会を得た。
感謝の意をこめ、さり気なく実万の和歌を背景に取った「鷹狩図」、「清涼殿十月更衣図」、「枯田氷結図」の三図を襖に描いた。濃い色彩で王朝美を極めた仕上げとなり為恭には最高の名誉となった。
嘉永三年(一八五〇)、酒井忠義が、一度は京都所司代を交代し、次に再任されたのは八年後、安政五年(一八五八)六月二十六日だった。酒井の再任は、大老、井伊直弼が勅許なしで日米修好通商条約を締結した日から七日目のことで、これから、いよいよ幕府、京都の調整がむずかしくなる時期に当っていた。
かつて酒井は七年の長きにわたって京都所司代を勤め、公家から大いに好感を持たれた。京都で人間関係の確立した酒井をこの難局に再び京都所司代に起用するのは理にかなっていた。酒井は再任の理由を聞かされ大いに納得し自負心をくすぐられた。
九月、酒井は京都に赴任してきた。為恭(ためちか)は待つこと久しく、実万の口利きでついに念願がかなった。為恭は酒井家京都藩邸に通い、酒井家所蔵、伴大納言絵詞を借覧し模写する機会をえた。
酒井家藩邸は南北に御池通りから三条通りに至る二万坪にも及ぶ広大な屋敷で、二条城南の東町奉行所と堀をはさんで隣接していた。京都では、幕府権力の集積した厳(いかめ)しい一帯と言ってよかった。
京都で安政の大獄が始まる時期であっても、普通の庶民がこの界隈に出入りするのは気味が悪かった。為恭は、初心から二十年にもなろうという模写の念願がかなう喜びで、薄気味悪さも何も感じなかった。
それだけ芸事に純粋だったとも言えるし、要慎に欠けるとも言えた。為恭は、実万にも酒井忠義にも深い恩ができ、偶(たま)さかの出会いから親密な付き合いに至った機縁をことのほか大切にした。
為恭(ためちか)が所司代屋敷や酒井家藩邸に出入りする様は、攘夷急進派の志士にもいつしか気付かれ、幕府に通じた奸物と見られ始めた。
安政の大獄の時期、幕府と朝廷が鋭く対立する中で、双方の本音の伝わる筋(すじ)が全く途絶え果てたとき、最後に残ったのは、冷泉為恭を介し、再任された京都所司代酒井忠義と前(さきの)内大臣三条実万とを結ぶ一筋の細い糸だけとなった。一介の絵師が接点だった。
安政五年(一八五八)、秋から冬にかけて大獄が進み、朝廷にかかる圧力が日を追うて強くなった頃、実万は朝議出席を自ら辞退せざるをえなくなった。その旨、申し出るや即座に聴許され、実万は開国にまつわる案件を耳にしなくなった。
そうこうするうち今度は、家臣の富田織部に京都奉行所まで出頭するよう梨の木町に達しがあり、織部が出頭するや、そのまま留め置かれた。織部は実美に学問を手ほどきし三条家では有力な家臣だった。
これについで実万が山城国久世郡上津屋村の三条家領内に退隠することを余儀なくされた。ここは木津川の大きな流れに沿い常に湿気に満ちた土地で、老残の身を養うには快適とは言えなかった。
それ以上に三条家には、梨の木町の本邸と二世帯を構えることが経済的に大きな負担となった。本邸では三条家の体面もあって一定の生活水準を保たねばならず、しわ寄せは幽居にのしかかった。実万は困窮の生活を強いられた。
翌年、安政六年(一八五九)三月、実万はあらためて曼珠院宮臣の渡辺仲助の家を借り、洛北の一乗寺村堀ノ内に転居した。上津屋村と違ってよほど高燥の地だった。実美や姉小路公知は、実万の無聊を慰めによく幽居を訪れたが、ほかに来るのはせいぜい冷泉為恭(ためちか)くらいのものだった。
奉行所あたりの胡散(うさん)臭い密偵が幽居の近隣を見張り、人の出入りを監視していると噂が立って、親類や昔なじみの公卿で実万を訪れる酔狂者はなかった。落莫たるものだった。
姉小路は実美の幼馴染であり、少年時代から実万になついた。長じて師父と仰ぎ親炙した。しばしば一乗寺村を訪ねて実万の無聊を慰め、時に古今を談じ時事を論じた。姉小路の舌鋒は鋭く、弁舌はよほどに達者で、なによりも負けん気の強いことが見てとれた。
――こやつはええ廷臣になるやろ
実万は姉小路を可愛がった。
四月の終わり、為恭が幽居を訪ね、実万に落飾を命ぜられる日が近いことを報せた。この日、為恭は幕府の厳しい処断を逸早く伝えると同時に、画具一式を持参してきた。
「どうか、御髪(おぐし)のままの御姿を最後に写さしてほしおす」
実万に涙ながらに頼み込みこんだ。
為恭は実万の寿像を描いて、これまでの恩に画技を以て報いるつもりだった。
――実万公の遺影はうちの落款入って永(なご)う世に伝わるやろ
こう思う気持ちは少ししかなかった。為恭なりの心からの感謝の表れだった。
数日後、実万は剃髪して澹空(たんくう)と号し、澹然と静かに、虚空の境地を目指すことにした。人生、もはや何も残っていないと言いたげな号で、それだけ真面目な人柄を窺わせた。少なくとも世間や幕府にはそう思ってほしかった。
同じく頭を丸めるにしても、近衛忠熙は翠山、鷹司輔熙は随楽と号した。蟄居の境遇でも、まだまだ人生を楽しむ心を失うまいぞと悠然たる気分が感じられ、実万の号とはかなり趣が異なった。二人がこうした号を名乗るのも、実万より金銭的に余裕があるためだと見る向きもあった。
天皇は、己の臣たちを宥免するよういろいろ幕府に計ったが、成果は思わしくなかった。実万に宛てた御宸翰によると、幕府は、
武威を以て厳重に申立て承引せず、終に所労の願い、落飾に及び候事
という回答だったという。
幕府は天皇の言い分を強面(こわもて)に全く聞き入れず、天皇でさえ、実万の落飾処分をとどめられなかった。帝は幕府の横暴さを憎み、天皇でありながら廷臣を救えない無力さを嘆じてみせて、実万へのせめてもの慰めとなされた。ここでは、井伊への恨みが天皇に、実万に、実美に、姉小路に遺(のこ)された。
八月四日、為恭が一乗寺村に遊びにやってきた。無聊をかこつ実万に、近ごろ、神詣(かみもうで)と称して市中の民が善美を尽くして踊り狂うという世間話を実万に話して聞かせた。世はころりと呼ばれる下痢病が流行っていることに掛け、為恭は、発句を詠んでみせた。
よの暑さ ころり忘れておどりかな
寝苦しい残暑の夜(よ)も暑く、騒がしい世(よ)も熱いと掛けて上手くもない川柳を二人で笑い転(こ)けた。実万は久しぶりに楽しい一日を過ごしたようで、為恭は遊びに来た甲斐があったと思った。
その翌日、為恭は人目をはばかり、夜になって酒井家藩邸の勝手口をひそかに訪ねた。若狭守家来の三浦七兵衛と会って、幕府の情況や実万の暮らしぶりなど互いに語り合った。
「まだまだ蟄居のお許しは出そうにあらへんのや」
三浦は気の毒そうに為恭に伝えてくれた。幕府と朝廷の公式な意思疎通ができなくなった今、互いの立場は、幕府と朝廷を結ぶ細々とした糸口であり、為恭(ためちか)は三浦に奇妙な同胞意識を感じた。
為恭の帰り際、三浦から問われた。
「明日、ええ鮒(ふな)鮨(ふなずし)が手に入るさけ持っていくか」
鮒鮨が好物の為恭は、またそこで、ひとしきり鮒鮨談義に花を咲かせた。三浦から為恭の家に届けてくれるだけでなく、洛北一乗寺の実万の幽居にも届けさせようという話になって、その夜、別れた。
数日たって、小者風の使いが実万の幽居を訪ね、為恭から言い付かったとか、なにやら、不得要領の口上をしどろもどろに述べ、包みを置いていった。実万は、首をひねりながら包みを解き、届けられた漆塗りの重箱の蓋を取ると、十尾に余る鮒鮨が溶けかけた米粒におおわれ笹の葉の間にぎっしりと並んでいた。
為恭が気を利かせて贈ってきたのだとわかれば不審は消散し、実万は悦んだ。鮒鮨は大の好物である。熟成の具合、煮頃鮒(にごろぶな)の大きさ、腐臭にも似た酸(す)い臭いからして、彦根の極上品と思われた。澹空(たんくう)を号す僧形になったからと言って喰ってならない法はない。
それからというもの実万は、大事に、少しずつ、鮒鮨を食した。飯の上に二切れを乗せようかとしばらく迷ったすえに、やはり、ひと切れにして湯をかけ、ぶぶ漬けにして喰った。まれには大奮発して、鮒鮨を肴に、酢になりかけた酒を少量飲んで、大いに舌鼓を打った。貧窮する生活の中で、目のくらむような贅沢だった。
八月十二日明け方、実万は激しく腹を下し、朝から医師の往診を頼んだ。流行(はやり)の虎狼痢(ころり)かと大いに心配だった。格別のことはないが、少々、何かに中ったかもしれないと言われ、服薬の上、安静に休むよう看立てを受けた。
以後、思い出したように、時折、実万はひどい下痢を起こすようになり、その間隔が次第に短くなり、ついには水寫に至り、枯れ木ほどにも瘠せ細った。
九月二十一日を最後に、実万はこれ以上、幽居日記を書けなくなった。一乗寺村に来て半年あまりだった。命日は十月六日、享年、五十八歳。
葬儀のあと、しばらくたって、為恭は、三条実万公が亡くなったのは、毒でも盛られたのではないか、という噂を聞いた。棒手振りの花売りと客の間でひそひそと話すのを通りすがりに小耳にはさんだ。為恭は棒手振りが声を上げて売り歩く後からしばらく付いて行き、角を曲がったあたりで、声をかけた。
「仏はんに供えたいさかい、いっこもらいまひょか」
「へえ、おおきに」
棒手振りの男が人の善さそうな顔で振り返った。
「仏はんにお供えなさるんやったら、この白菊と黄菊はどうでっしゃろ」
「ええどすな。それもらいまひょ」
為恭は銭を払いながら、さりげなく訊ねてみた。
「そらそうと、三条さまが亡くならはったそうやあらしまへんか」
為恭が水を向けると、花屋は丁寧にあれこれ噂を語ってくれた。それは為恭にとって、ひどく恐ろしい話で、冷や汗をかくよう気がした。
そこからもう、わき見も振らず、室町通り椹木(さわらぎ)町下ル西の我が家を目指した。一目散に速足で必死に歩いた。
――棒手振りの話に、鮒鮨(ふなずし)の話が出てきて、腰抜けるほどたまげたわ
為恭は一刻も早く家にたどり着きたかった。あの時、三浦が親切そうな笑みを浮かべて鮒鮨を届けてくれると話した情景をはっきり思い起こすことができた。
――まさか三浦が、実万公の鮒鮨になんか仕込んだんやあらへんやろな
一瞬、思い、即座に否定した。
――そないなことする御仁ではあらへん。あるはずがあらしまへん
実万公が鮒鮨を喰って死んだのではなかろうかという怖ろしい想像は真偽を確かめようもなく、それ以後、為恭は忘れることができなくなった。
実美は亡父の葬儀のあと、あらためて悔(く)やみに来た冷泉為恭(ためちか)に鮒鮨の礼を言いながら、父は死ぬ前、好物を食べておいて満足だったろうと追憶めいた話を始めた。実万の下痢の病状などをぽつりぽつりと語るうち、しばらくすると、為恭がわなわなと蒼ざめ、そそくさと帰っていった。
亡父が近づくのを許し、なにくれとなく面倒をみてやった絵師に、生前、鮒鮨を贈ってくれた礼を言ったつもりだった。実美は、為恭の挙措にやや奇妙な印象を持った。実美が父の死因について町の噂を聞いたのは、そのあとしばらくしてからだった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」八節「細い紅糸」(無料公開版)
九 亡国を目指す 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
文久二年(一八六二)十一月二十七日、江戸は今日もまた、晴れ空のもとで空っ風が吹き募った。昨日の明け方、芝金杉一丁目で起きた火事は空っ風によるものだったから、町人は今日も火事を心配した。そんな町の気配を耳にしても、実美と姉小路にとって何の興味も引かなかった。
この日城中で、二人は明らかに上位者の立場に立った。複雑煩瑣な儀礼を演出しながら大仰な物腰で将軍に勅書を授け、速やかな攘夷実行を尊大な態度で幕府に求めた。このような重大な方針を朝廷優位で幕府に指示することになった。実美はこの策の当たったことに満足だった。
さらに言えば、この年、六月、大原重徳が勅使として、攘夷実行は七、八年ないし十年の間しばらく御猶予されると伝えた前勅と相反する内容だった。実美の授けた勅書の求めに応じて、年明けに将軍は京都に出向き、即刻、攘夷の具体策を決めることに幕府は同意せざるをえなかった。幕府をねじ伏せたに等しい。
七、八年ないし十年の猶予の約束は、ほんの半年前になされたものだったが、全くかえりみられなかった。国の大きな方針が幕府と朝廷から出て意思決定が二元化し、そのうちに朝廷の意向の力が幕府を越えた。その朝廷の意向でさえ、半年前の方針が軽々とひっくり返った。それでいいと実美は思った。
勅書の重みを深く考えるには、二人の勅使は若すぎると見る幕僚が多くいるらしいと実美は感じた。かといって幕府の側から、勅使の経験不足を言い出すことはできないに決まっている。幕僚には、此度の勅使の言い分が祖国を亡国に向かわせる一過程と見えるに違いなかった。そこまで深刻な思いを幕僚が抱いているようだと実美は何となく気付いた。そして、それこそが、此度(こたび)の勅書の勝利なのだと優越感を持った。
――亡国言うても、たかが德川の世の亡国に過ぎひんのや
――幕府無(の)うなったら、どないな世になるんやろか
――先のことあれこれ考えても仕方(しゃあ)ない。来年のことを言うと鬼が嗤(わら)うによって
――せやかて、今度こそ公家が力持って金に困らへん世にせなあかんねん
実美はあれこれ思いながら、心に刻んだ倒幕という二文字が湧き上がってくるのを感じた。
十二月七日、実美たちは勅使の勤めを果たし、達成感をいだいて江戸を発った。二日遅れで、京都守護職松平容保が千の藩兵を引き連れ京都に向った。会津藩一行は、ぴたりと実美一行の後を追うよう気遣いながら、監視するようにして旅程を進めるように見えた。
道中は、閏八月に幕府が参覲交代の制度を大幅に緩和したせいで、国許に帰る大名の奥方の行列が多く、東海道は混雑していた。幕府の体勢を固く維持してきた参覲制度が改められ、徳川の世が壊れはじめたのではないかと見て、実美は冷笑を浮かべた。
おそらく京都守護職の容保が同じ景色を見て、不安に駆られるだろうと想像する余裕さえあった。参覲制度で縛られ藩主家族が江戸に住まうから大名が幕府に従順なのだと、考えれば当たり前のことだった。十二月二十三日、実美、姉小路の勅使一行が京都に帰還。
翌二十四日、松平容保が入京してきた。整然と隊列の続く千人もの会津軍勢をみて、京都の人々が初めに思ったのは、どうか平穏を取戻してほしいという切なる願いのようだった。もう天誅騒ぎの血腥(ちなまぐさ)い凶行はうんざりだという思いらしかった。
町奉行や、公武合体に動いた公家とその家臣らはなおさらだった。たしかに秋以降、天誅騒ぎで京都の町から落ち着いた生活が失われていた。
會津肥後様、京都守護職つとめます
内裏(だいり)繁昌(はんじょ)で公卿(くげ)安堵(あんど)
トコ世の中ようがんしょ
会津藩入京のあと京都庶民の間にこんな俗謡がはやっていると実美は家来から聞いた。
年が明け、文久三年(一八六三)正月五日、一橋慶喜が京都に到着した。老中格の小笠原長行は、先行して勝の操艦する順動丸で大坂に上陸し砲台建設の視察に一区切りを付けて、十三日、京都に上ってきた。
近く将軍が京都に上るに備え、幕府重臣が続々と京都に集まり始めた。空前の構えで京都の体勢を固めるだろうと実美は十分、予想していた。
「幕府も気張ってあれこれやってくれるもんどすな。お手並み見せてもらいまひょ。京の地で何が起こるか、驚いたらあきまへんで」
実美は片頬で笑いながら呟いた。
*
実美は江戸滞在中から姉小路や、長州、土佐の志士と次なる方策を練っていた。幕府に圧力をかけ、攘夷の速やかなる実行を迫って幕府を弱らせ、倒幕の気運を高めるのが狙いである。
京都に戻って、早速、やるべきことがいくつもあった。攘夷急進派にとって、そもそも幕府は明白な敵である。その先兵となった京都守護職松平容保は、いずれ何らかの手を打たなければならない相手だった。いいように利用しながら折を見て、罷免の口実を探し出せばいいと高をくくっている。
朝廷内に居残る公武合体派重鎮の青蓮院宮と関白近衛忠熙は敵の首魁であり、その手先、議奏の中山忠能(ただやす)や正親町三条(おおぎまちさんじょう)実愛(さねなる)もいずれ排除すべきだろうと、攘夷派志士から具申を聞いている。実美にとって、二人は引き立ててくれた恩人でもあったが、大義の前に私恩を考えてはならないと、志士から幾度も念を押された。
皇女和宮の降嫁を推し進めた岩倉具視、大原重徳(しげとみ)、前関白九条尚忠、前内大臣久我(こが)建通(たけみち)、千種(ちぐさ)有文(ありふみ)、今城(いまき)重子(しげこ)、堀川(ほりかわ)紀子(もとこ)はすでに罰して朝廷から追った。公武合体派の勢力を一応、殺(そ)いではあるが、依然、目を離してはならなかった。
公武合体をめざす土佐藩山内容堂と、薩摩藩島津久光も敵とみなすべきだった。特に、島津はこう言って、前年六月、江戸で成し遂げた己の功を誇ったことを実美は忘れていない。
朝議確乎として不被為動(うごかされず)、匹夫之激論一切御採用
不被為在(あらせられず)、関東之処置静ニ御観察被遊度(あそばされたく)
自らの国事周旋を称揚し、匹夫の激論は採用しなかったと、急進派公卿の尊皇攘夷論を真っ向から切って捨てた。それだけではない。久光は、土佐、長州の攘夷志士らの政事運動を笑殺し、静かに大原と久光の交渉結果を見守るべきだとほざいた。
実美ら攘夷急進派が、島津を政敵と明白に特定したのはこの発言のためだった。実美は、自ら勅使の大任を果たして江戸から戻った今、攻撃の手を緩めることがあってはならないと心を引き締めた。
「見いや、これから中納言三条実美の尊皇攘夷が始まるんやで」
実美は小さな声で嘯(うそぶ)いた。胸の奥に語るに尽きない鬱勃たる暗い情熱があった。
正月二十一日、山内容堂が筑前黒田藩から借用した大鵬丸にて海路大坂に到着した。翌二十二日の晩、高名な儒者池内大学を長堀白髪町の土佐藩邸に召して酒席を持った。容堂は、会ったことはないが、かつて池内が柳川星巌、春日讃岐守とともに学識を賞され、青蓮院宮、三条実万にも知遇を得ていたことを知っていたから、家臣の勧めを聞いて召すことにした。
二十三日の早朝、大坂は難波橋北詰で首が晒されているのが発見され大騒ぎになった。首を見れば、額に一箇所の疵があり両耳が切取られていた。じきに、池内大学だと判明した。池内は、前の晩、土佐藩邸に招待され容堂の酒食に陪席した帰路、殺(や)られたと思われた。
この日四つ時(午前十時)、容堂は大坂藩邸を発って淀川をさかのぼり、枚方の泊りで池内大学の一件を知った。容堂は、そこから伏見まで舟の中、一言も口をきかなかった。案外、土佐勤王党の仕業ではないかと強く疑い、公武合体に尽力する己へ当てつけるためではないかと考え続けた。
――わしが招いた客を帰路、殺すということがあるか
容堂は内心、あてつけられた屈辱を感じ、この一派に強い疑いと怒りを掻き立てられた。容堂の怒りは沈潜した。このまま捨て置くつもりはなかった。
同じ日京都では、実美がついに近衞忠熙を関白辞任に追い込んだ。実美は、姉小路公知ら少壮急進の若公卿と長州藩、土佐藩の攘夷急進派の志士を糾合して、漸進穏和の公武合体派を圧迫し、近衛忠熙、五十六歳に辞職を迫っていた。近衞はようやく折れた。
九条尚忠(ひさただ)の後任としてわずか半年間の在職だった。ここに至るまで前月から幕府は、近衛関白に在職を続けてほしいと手を尽くして懇願したが、それも空しく幕府の願いは通らなかった。
――近衛卿にしても、命あっての物種だったに違いなかろう……
幕吏は近衞の辞職をやむを得ないと思った。
翌二十四日、公武合体派の正親町三条(おおぎまちさんじょう)実愛(さねなる)と中山忠能(ただやす)の屋敷門前に贈答の品が置かれてあった。家の者が紅白の大層立派な包装を解くと一封の筥(はこ)が現れ、蓋を取ると、切り取った生の耳たぶが収められていた。添えられた脅迫文には、攘夷の正しい声をよく聞けと脅迫の文字が記されてあった。
二人が門前におかれた立派な筥を開封した翌日、恐怖に引きつるようにして議奏職を辞めたいと前関白(さきのかんぱく)近衛忠熙(ただひろ)に願い出た。近衛も二日前に関白を辞職したばかりだった。
中山は数日前から身に覚えのない収賄などを言い立てられ、議奏を辞めよと脅迫する怪文書にも気丈に振舞っていたが、異臭漂う血糊の付着した耳たぶを贈られ、心の張りをいっぺんにへし折られた。
二人は有力な議奏だった。特に、中山忠能は帝の舅で、この時十二歳の祐宮(さちのみや)の祖父に当り帝が深く信頼を寄せる人物だった。公武合体派から、近衛、中山、正親町三条が辞任し、重鎮の青蓮院宮が残るのみとなった。実美は一連の成果に満足を覚えた。
二十五日、騒然とした京都に容堂が上ってきた。実美は様子を知るため小者を辻まで遣った。容堂は、海老茶(えびちゃ)の緞子(どんす)に家紋の枝柏織り出しの袴をはいて、黒魚子(くろななこ)の羽織をまとい、腰に蝋鞘の大刀を帯びていたという。羽織を裾長にまくり上げ、千載と名付けた馬に跨(またが)っていた。馬は容堂気に入りの逸物(いちもつ)という話だった。
身の丈五尺六寸、三十七歳の男盛りである。色白く面(おもて)は肉付き、眼中に異彩を放って京の町を見据え、馬上豊かに戛戛(かっかっ)と馬蹄を響かせていたという。堂々たる騎乗姿はいなせな風体(ふうてい)でもあり、京都の町びとから天晴れの大将と、やんやの喝采を博したらしい。
小者から容堂の姿形を事細かく聞いた。容堂は騎乗姿をあらわして民衆の人気を獲(と)る効果を政治家として知っているようだった。実美には、油断のならない相手だと江戸で対面して以来、よくわかっていた。
容堂は、懐刀(ふところがたな)の吉田東洋を斬り、池内を殺(や)ったのは土佐勤王党だと睨(にら)み、下手人を明らかにせずには置かぬと強い決意を持っていた。京都滞在中、不埒(ふらち)な家臣どもに大鉄槌を下し、藩内の攘夷過激運動を圧殺し収める覚悟で上京した。容堂はその心境を歌に詠んだ。
加茂川にあたら仇波立たせじと
思ひ定めて渡る月日か
容堂にとって、尊王攘夷の運動は平穏を脅かす仇波であり、鎮(しず)めるべきものだった。容堂は入京早々、直書を藩士に示して「出位之議論」を禁じた。身分にふさわしくない出すぎた国事議論をやめよと厳命した。
正月二十九日、今度は千種有文の家士、賀川肇が斬殺された。遺体には首がなく腕が切断されていた。
翌二月朔日、その首が一橋慶喜の宿館となった東本願寺の太鼓楼の上に置かれていた。人を喰ったように、首はご丁寧に白木の三宝に置かれ、封書を添えて献じられていた。
二日には、賀川の右腕が千種有文邸に、左腕が岩倉具視邸に油紙に包まれ罪状書を添えて置かれてあった。両人はすでに朝廷を追われ落飾、蟄居しているのに、この上、執拗に脅迫された。
岩倉と千種は親戚同士、公武合体を目指し皇女和宮降嫁に尽力した辣腕(らつわん)を皮肉り、御立派な凄腕はこのようにしてやろうといわんばかりの悪行に、いかに剛毅な岩倉でも胆を冷やしたに違いない。実美は、着々と進む計画に手ごたえを感じ薄く笑った。
幕府要路が集結しつつある京都が、血腥い天誅の真っ盛りというありさまだった。攘夷別勅使一行が京都に戻って、正月から、暗殺はやむどころか、いっそう冷酷になってきた。惨殺、梟首だけでなく、その死骸の一部を別に送りつけて恫喝に使うやり口が目新しかった。
胸の悪くなるような所業であればこそ最強の効果があった。普通の神経の人間にできることではない。堅固な思想に裏打ちされた揺るぎない暗殺の意志と遺骸損壊の覚悟がどうしても必要だった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」九節「亡国を目指す」(無料公開版)