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第三章 貧の遺恨-実美
 

一 生還せざる者 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 秋色の真盛りだった。日々寒さの募る中、京都はどこも紅葉で華やぎ、ここ東山では耀(かがよ)うように彩られた錦秋の景色が広がっていた。文久二年(一八六二)十月十二日、攘夷を促す二度目の勅使が江戸に向けて発駕する日である。すでに前日、土佐藩主山内豊範十七歳は朝廷から護衛の命を拝し、勅使先駆けの役儀を以て藩兵五百を率い、京都を発っていった。

 従三位新中納言三条実美(さねとみ)、少将姉小路(あねがこうじ)公知(きんさと)の正副両勅使が、この日参内し天皇に出達の奏上を終えた後、行列は堂々と御所を出発し、威儀を正して南に下り、三条通りを東に入って三条大橋を渡った。

 実美の長棒駕籠のまわりを固める一行は三条家の家来に加えて、土佐藩士十六人が三条家家臣の体(てい)をよそおって随従し、士分総勢四十人余りを数えた。

 行列には、従者、家僕の他に、京都所司代が費用を負担する御朱印人足定員五百のうち半数ほどが付き従った。いく筋もの槍が立てられ、網代の替え駕籠二台が従った。幾棹(いくさお)もの長持、幾荷(いくか)もの挟箱(はさみばこ)と合羽籠(かっぱかご)がこれに続き、その盛儀は天を衝く勢いだった。

 姉小路の長棒駕籠に扈従(こじゅう)するのは家来のほか、土佐藩士十一名。主な者は土佐藩の武市半平太で、柳川左門の偽名を名乗って諸大夫に作り、それらしく長棒駕籠に乗って一行に加わっていた。さらに長州藩家老、浦(うら)靭負(ゆきえ)が手勢数百を率い、勅使の大行列に華を添えていた。

 三条大橋から見上れば、右手前方、東山の中ほどに清水寺本堂が舞台をなして遥かに望まれ、その手前に八坂塔が五重に屹立していた。その左、紅葉が処々に照り映える中に、東大谷、双林寺、知恩院の大屋根が点在するのが見て取れた。京都は随分と寒さがます中、燁々(ようよう)たる紅葉が勅使一行を見送っていた。

 朝廷は、実美を攘夷別勅使に任命したのち、二十六歳の若さに、ことさら勅使の重みを加えようと、九月の末、叡慮を賜って中納言に任じたばかりだった。政治的な思惑があって幕威に対抗するつもりだった。

 さらに、十月七日、最後の仕上げとでもいうように、実美を議奏に任じた。おしもおされもせぬ攘夷別勅使の正使がここにできあがった。

 同じように、朝廷は姉小路を少将に任じ、持ち前の負けん気と流れるような弁舌でその人ありと知られた副使のためにふさわしい位階を授けた。正使は清華筆頭の家格を持つ堂々たる新中納言である。副使はこれを補佐し江戸幕閣の因循姑息な意見を論破してくれるだろうと、朝廷では気鋭の両勅使に期待が高まった。

 

 半年前、初夏の頃に勅使大原重徳とその護衛についた島津久光率いる千余の島津藩兵が江戸に向けて京都を出達した。公武合体の立場から幕府に改革を迫る大兵である。江戸では叡慮の名分をひっさげ幕府に幕政改革を要求し、きわどい手段を縦横に駆使した。

 越前藩の前藩主松平春嶽を大老に、一橋慶喜を将軍後見職に推し、二人が幕府の主導権をにぎる新体制を作るよう幕府を説得し、素直に受け入れられないと知るや、強引にこの案を押し付けた。老中らは棘(とげ)でも飲み込むように、にがにがと勅旨を受け入れた。

 三ヶ月半を経て閏八月、勅使一行が京都に戻ってきた時、この大きな功績を公武合体派に独占させてなるものかと攘夷急進派が群がり、あらためて三条実美と姉小路公知を勅使として江戸に派遣する計画を練り上げた。

 今度の勅使派遣では、前回をさらに一歩進め、攘夷の速やかな実行を幕府に迫り、勅使接遇を改善させ、儀礼上、将軍を勅使の下に引き下げる狙いがあった。朝廷が幕府を支配する詭計の一策と言ってよかった。

 ひとたびは、勅使再派遣案が関白近衛忠熙(ただひろ)や青蓮院宮尊融親王の反対によってつぶされそうになった。大原がすでに幕府に勅旨を伝え幕府がこれを奉承したのだから、しばらくは幕府のなすところを静かに見守るべきであろうと、公武合体派の二人の重鎮が勅使の再派遣に疑義を唱えた。

 こうした見識こそが大人の落ち着いた対応というものだった。特段に新たな勅使を差遣しなくとも、年があらたまってから年頭使に事寄せて朝旨を伝達することがおだやかな方策ではないかとまで、二人の重鎮は代案を出した。

 この時、近衛五十八歳、青蓮院宮三十七歳、脂の乗った老練な二人は孝明天皇が最も信頼する廷臣で、その意見は天皇の考えを忠実に反映したものだった。二人の重鎮から反対を受けても、攘夷急進派は天誅と称して斬殺事件を起こし、公武合体派を脅し、反対意見を巧みに躱(かわ)し、ついには勅使派遣を朝議決定させたあたりに近年の朝廷のありようが見てとれた。

 これまで朝議は、関白の許に武家伝奏と議奏が参列して審議された。武家伝奏は幕府に対する折衝役、議奏は朝廷を仕切る役である。最近では、左右の大臣、内大臣も入れて合議する政体を取って、天皇と関白の意向を十分に反映する仕組みを維持してきた。

 この意思決定の場に、攘夷急進派はくさびを打ちこみ勅使の再派遣の流れをうまうまと作ろうと謀(はか)った。そのため、攘夷急進派は京都に蝟集した土佐藩、長州藩の志士たちを使って血腥(ちなまぐさ)い天誅を実行した。狙うのは幕府寄りと見なされた公武合体派で実務を仕切った公家用人。さらに京都町奉行の下僚さえ天誅にかけた。こうして朝廷のまともな意見を封じ、巧みな謀略を実行した。京都の町では、足元から治安維持が機能しなくなった。

 朝廷上層部は不本意ながら、やむなく攘夷別勅使の派遣を認めざるをえなかった。そのため、近衛は勅使出達の前夜、実美と姉小路に宛てて、くれぐれも幕府に無茶な言い方をしてくれるなと念押しの書状を届けてきた。

 幕府は前回の勅旨を尊重すると回答したのであり、これ以上、あらたに追いつめる余り、窮鼠猫を噛むような事態を招いてはならないと近衛が懸念する旨を実美は受け取った。

 

   呉々(くれぐれ)激烈に相ならざる様、此(こ)の処(ところ)にて
   やぶれになり候
(そうろう)ては、実に宜しからず

 

 幕府に対して穏健な対応を望み、腫れ物に触るように若い正副両勅使に向って辞を低(ひく)うしていることが十分に伝わった。寒いから道中よほどに用心してほしいと、若者二人を拝み倒すように丁寧な挨拶で書状を終えてあった。書状の末尾を読んで実美は軽く冷笑を浮かべた。

 近衛は安政の大獄で、辞官落飾を申し出なければならない立場に追いやられ、この年の四月、三年ぶりに許されたばかりの身だった。幕府の朝廷に向けた心情が再び荒れ狂いはしないか、恐れにも似た思いがあるのだろう。もうあのつらい日々を誰の身にも、

  ――少なくとも関白のわが身には繰返しとうないのや

 切なる近衞の願いが書状の紙背から感じとれた。

 近衛にすれば、こういう書状を勅使の出達前に届けておいたという事実が大切なのだろうと、実美は近衞の真意を見透かした。書面に十月十一日夜としっかり日時を明記し、書状の主目的を暗示してあった。万一、幕府から咎(とが)められたときに備え、その写しを筐底(きょうてい)深く仕舞ったに違いない。近衛の老練とはこういうことなのだと実美は片腹痛い思いだった。

 実美は長棒駕籠の引き窓から京都の初冬の風情を見るともなく目にしながら、昨晩、届けられた近衛の達筆な書状を思い起こした。父三条実万(さねつむ)は近衛と同じく辞官落飾を余儀なくされた。洛北一乗寺村に髪を剃って幽居を重ねた果てに、許されることなく死んだ。その父の無念が近衛の顔に重なった。

 ――関白は蟄居(ちっきょ)を許されて戻らはったさけ、幕府に穏健な振る舞いをお考えどすのや。麿は、父を無念に死なせよった幕府に、怨みを忘れることはあらしまへんで……

 公武合体の構想に吐き気がするようで、実美は下唇を噛みしめた。これまで反幕の策略を仕掛け、いまや、これを実行するに至った。安政の大獄がいかに高くつくか幕府に思い知らせてやると駕籠の中で呻くように誓った。

 ――井伊が討たれたさけ、これで終(しま)いと思うたらあきまへんで

 すでに、京都に駐在を始めた会津先遣隊の藩士を通じて、勅使の接遇改善の要求を幕府に届けさせてある。将軍を勅使の下位に位置付けるよう新たな儀礼を求めたのだから、今ごろ幕府で諤々(がくがく)の議論となっている筈だった。

 ――接遇改善がなんぼ悔(くや)しゅうても、聞かへんわけにはいかんやろ

 実美の駕籠が白河橋を渡り、右手奥に青蓮院の山門を見上げるあたりまで来ると、尊融親王のことを思った。青蓮院の門跡をつとめる宮は、安政の大獄で、幕府によって天台座主を罷(や)めさせられ、ついには退隠、永蟄居まで命じられた。

 宮は、相国寺塔頭(たっちゅう)の桂芳軒で、つらい謹慎生活を余儀なくされ、御肥肉(おふとりじし)の宮でさえ寒い季節には震え上がったと聞く。近衞忠熙と同様、厳しい日々を送り、半年前に蟄居を解かれたばかりである。青蓮院宮といい、近衛といい、さんざんな目にあって生還した今なお、何故、公武合体を支持し続けるのか。

 ――幕府にえげつない目に遇わされたのやなかったんどすか

 六日前、実美は亡父(ちち)の命日を迎えた。まる三年が経ったかと心に呟き、その日はとりわけ丁寧に朝の看経(かんきん)を始めた。修法を終えて間もなく、朝廷から使いが来て議奏を命ずる内勅を受け取った。父の命日に、父もそうであった議奏に任じられ、亡父の無念を思いやってさらに胸が痛んだ。

 父は議奏首座を務め、摂政鷹司(たかつかさ)政通と朝政の中枢をなした時期もあった。その後、武家伝奏としてしばしば江戸に下向し、さらには、内大臣として帝(みかど)の意を体(てい)し、無勅許の通商条約締結に強く反対した。

 近衛忠熙、青蓮院宮、鷹司政通と輔熙(すけひろ)父子が蟄居を許され、皆、戻ってきたというのに、

 ――なんで、亡父(ちち)だけが幽居中に死ななあかんかったんやろか

 綿々と父の死を考え続けた。亡父が貧乏だったから死なでもの処、死んだのではなかったかと、これまでずっと悩みわずらった想いに再び行き着いた。

 幕府を倒し亡父の無念を晴らしてやると、奥歯を噛みしめながら心に誓った。それは、亡父が悲願とした皇威回復、朝権確立の目標と重なりはするが、全く異なる暗い情念だとわかっていた。徳川の沈滞した世を打ち破り、希望に満ちた新時代を築こうという清新な志では決してない。

 粟田口を過ぎ、蹴上(けあげ)、日ノ岡、御廟野(ごびょうの)と初冬の深い木立の間を通り、実美は同じことを考え続けた。追分を過ぎ逢坂山に入っても、実美の考えは恨み言にも似て、連綿と続いた。ねちこい性格だと自覚していた。

 ――こないなところが、土佐や長州の者(もん)から慕(した)われるわけなのかも知れへんな

 実美は、自分の暗い湿った感情に尊皇攘夷の志士が微妙に共鳴することに気付いていた。

 ――そらさうやろ。あの者どもとて、あないなえげつないことしてきたんやさけ

 実美は、父を亡くした無惨な思いと、志士たちから聞いた壮絶な体験とを重ね合わせるうち、恨みも、どす黒い情念も回り回ってますます強まるのを感じた。いつものことだった。

 実美は、周りが見事な紅葉であることは、少しも気に留めなかった。半年前から、長州の尊皇攘夷の志士たちの語る話を幾度となく聞き、その状況をあらためて振り返る自分を意識した。

 

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」一節「生還せざる者」(無料公開版)

 

 

二 天津日を還す 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 実美はあとになって、長州の久坂玄瑞とその弟分、寺島忠三郎が京都にやってきたのが文久二年(一八六二)四月十一日のことだと聞いた。二人が尊皇攘夷の志士として、あれこれ動き回る始まりで、実美が勅使として江戸に行く半年前のことだった。

 あの当時、京都では大きなことが次々起こった。四月十日には薩摩の島津久光が入京、二十三日には挙兵倒幕を企てる薩摩藩士を寺田屋で上意討ちに処断した。実美が活発に活動し始めたころだったから、昨日のことのように覚えている。

 久坂と寺島は吉田松陰門下だった。二人によれば、師の吉田の唱えたのは、国難に当たるには大名も不適、公卿も不適、下級藩士だけが持つ草むらの雑草の勁(つよ)い身上こそがふさわしいとの説だと聞いた。

 吉田は、国事を担う者は、生命、地位、名誉、金銭を一顧だにせず、総てを国に捧げる信念を持たなければならないと訓(おし)え、弟子たちを激励したらしい。久坂と寺島は師の掲げた草莽崛起(そうもうくっき)論の忠実な信奉者となり、至誠熱血、師の考えを体現し、師の説いた通りの青年になった。国事のためにいつでも命を投げ出す覚悟を持ち、尊皇攘夷に固い志操を捧げていた。

 久坂と寺島の話では、安政七年(一八六〇)三月、桜田門外で井伊大老が討たれたあと、長州の尊皇攘夷派は絶好の機会が到来したと考え、水戸藩の一部の勢力と連携しながら、再度、幕府に改革を迫ろうと画策したという。井伊によって停止された鎖国体制を復活させることが目的だった。

 まずは計画の前半分で水戸藩が、幕府の覚醒するきっかけとなる何らかの事件を起こす。両藩攘夷派は幕府の要人暗殺を視野に入れていた。長州藩は、水戸藩の起こした暗殺事件の混乱を収拾しながら、後半分で暗殺に乗じて幕政改革を促し、攘夷の実行に向けて政治工作を担当することに決まった。

 万延元年(一八六〇)七月、水戸、長州は盟約を結ぶに至った。計画では、二段構えで水戸、長州が、破りて成す役割を別々に担うことから、成破の盟約、または会盟の場所となった長州藩船の名をとって丙辰丸(へいしんまる)の盟約と呼ばれた。その後、長州から丙辰丸船長松島剛藏と桂小五郎の連名にて水戸の主だった四人に宛てて議定書を与えた。井伊大老暗殺から半年後のことだった。

 次第に藩内事情が変化し長州側の意欲が弱まっても、水戸藩の尊皇攘夷派は止むことなく暗殺実行計画に突き進んだ。ついに文久二年(一八六二)正月、老中安藤信正を坂下門外に襲い、返り討ちに遭(あ)って刺客全員が斬り死を遂げた。

 安藤は有能で政治力に優れるが、開国と公武合体の方針を井伊から受け継いだため、水戸浪士から井伊の後継者とみなされ、ひどく憎まれた。水戸側が安藤暗殺に失敗したため計画の前半分が成らず、長州による幕府改革のきっかけを作れそうになくなった。長州で尊皇攘夷の動きが停滞し始めたという。久坂と寺島の話は、時に気概に溢れ、時に不遇を嘆き、実美には長州の尊皇攘夷が順風満帆でないことがよくわかった。

 一方、長州藩におけるもう一つの勢力は公武合体開国派で、佐幕の立場に立った。ここには優れた唱導者がいて、名を長井雅楽(うた)時庸(ときつね)といった。藩主と同一の先祖を持って家格に申し分なく、長州藩を動かす見識備わり、雄偉な体格から発する朗々たる雄弁と端正な身のこなしはあくまで穏やか、自ずと人に畏敬の念を起こさせた。防長一の知恵者と称(たた)えられる長井が、その世評に違(たが)わず、世人の意表を突く策を唱え出した。

 国を守るには敵を知らなければならない。国防を整えるには異国に負けない武器と軍事技術と財政を持たなくてはならない。そのために、国を開き貿易を営んで利益を上げ、知識、技術、兵器を導入することが不可欠である。ここまでは幕府の誰もが考え、そして、実行の段になって、開国を許さずという帝(みかど)の方針で、はたと行き詰まって動きが取れなくなるのが常だった。

 国難にあたり国是を一つにまとめ、一丸となって異国の侵略から国を守らなければならないとは誰もが思う。されど帝(みかど)が開国に反対される以上、開国の手段をとれず、帝の意に背いて開国を維持することは、もはやできない。どのように国論をまとめ、国を守る体制を作るか誰にもわからなかった。

 帝の異国嫌いは誰もが知る明らかで越え難い障壁だった。それを長井は、帝がお考え違いをなされているのだから御諫言申上げるべきであると説いた。

 長井の説では、鎖国などは島原の乱以降、三代将軍家光公が決めた幕府の一方針に過ぎず、その始まりはたかだか二百三十年前のことでしかない。寛政の頃、老中松平定信が鎖国を祖法だと言ったことが広く世に知られ、大きな誤解につながっただけのこと。日本古来の風習は、それ以前、千数百年にわたる異国との交流にこそあるというのが長井の論だった。

「唐山や朝鮮だけでのうて、時代が下りゃあ、南蛮、紅毛の諸国と交易を営んだのが我が国の歴史じゃあなかろか」

「ところが鎖国こそが日本古来の風習じゃと誤解する者がようけおる。最もはなはだしいさぁ公家じゃあなかろか」

 かつては異国船が渡来し、我が方からも異国に出向き貿易を営んだことを史書で知る公家は少ない。日本が本来の姿に立ち戻って異国と商いを再開して悪い道理がないと見識をもつ公家はさらに少ない。開国し世界に向かって飛躍する構想を唱える公家は全くいないと長井は看破したかのようだった。

 長井は、公家から聞いて、朝廷のこんな逸話まで知っていた。その話というのは、安政五年(一八五八)二月、当時関白職にあった鷹司政通が、日本と異国が交易した歴史を説き、この際、異国との和親、貿易の儀を幕府に許したらどうかと天皇に上奏したことがあったという。江戸から老中堀田正睦が京都に来て、勅許を願い出た直後のことだった。

 発言のあまりの意外さに朝議の座がざわめき、御高齢で少し御加減が芳しくないのではないかという空気が大勢を占めた。要するに公は御高齢で頭がおかしくなったと多くの公卿が思ったらしい。七十歳の関白は、特に己の見識に拘泥しなかったため、開国不可の意見を覆すには至らず、通商条約の勅許につながらなかったという。

 それから三年、こうした世情にあって、長井は何も貿易の利だけを言うのではなかった。異国に堂々と出て行き、異国を温かく迎え入れ、帝の聖徳をあまねく五大洲に知らしめることこそ日本の進むべき道ではないかと説きに説いた。

「帝の徳を慕って日本と修好したがる異国人を、帝の寛容な度量をもって寄らしめるべきじゃあなかろか」

「往古は鴻臚館(こうろかん)を建てて異国の使節を迎え入れ、きらびやかな珍宝が多く渡来し、帝が親しゅう異国の使節にお言葉を賜うた時代もあったのじゃ」

 長井は言う。

「かつて徳川家の一将軍の決めたことが世情に合わなくなってきた今こそ、帝の親しく統(す)べ給うた往古の御世のように、もっかい、異国を寄らしめることに何の障(さわ)りがあっとじゃ」

「古(いにしえ)のやり方に復して、帝の御聖徳を五大洲に赫赫(かくかく)と輝かせたらいかがじゃろか」

 長井はほがらかに、堂々と、ちぢこまることなく論を展開してみせた。気分のいい議論だった。

 万延元年(一八六〇)十二月、藩主毛利慶親の命により、長井が江戸から萩に戻り、年が明け文久元年(一八六一)長井は四十三歳になった。年初にかけて萩の藩要路の間に長井の言説が少しずつ知られるようになった。

 長井は同役を通じて毛利慶親に上書した。三月も末になって、藩主の臨席を仰いで長井の論を検討するため評定が開かれた。この席で長井の論を聞いた誰もが闊達になった。

 ――異国船に脅されて条約を結びたるは、手籠めにされた生娘のようじゃ

 こういう忸怩(じくじ)たるたとえ話とは全く無縁だった。

 長井の説には、思わず膝をこぶしで叩き、その通りじゃ、と叫びたくなるような明朗な夢と将来が語られていた。

「帝の御仁徳を五大洲に知らしめるのじゃ」

「大いに文物を取り入れ日本の武士道を世界に問うのじゃ」

 長井の意気込みは誰にも頼もしく感じられた。慶親とて、長井と同い年、四十三歳の年柄にも似ず、明日に向かう希望をわくわくと感じた。そして、長井の説は長州の藩是となり、航海遠略策と呼ばれるようになった。まぶしいような策だった。ところが、長州の藩論は一つに統一できなかった。

 藩内の尊皇攘夷派が、これでは幕府が今のまま続くことを是認するだけで幕政改革の機縁を失わせる妄言に過ぎないと異を唱えだした。一派の中で、特に長井の説を忌み嫌った若侍がいた。それが久坂玄瑞と寺島忠三郎だった。

 長井が佐幕的な心情を持つのに対し、尊皇攘夷派ははるかに反幕思想が強い。今までの幕府であるなら、そこまで助けることは無用じゃ、と吐き捨てるような思いを持った。

 尊皇攘夷派は水戸藩と盟約した成破の策が危うくなると焦りを覚えた。久坂は、長井の説が藩主臨席の場で審議される前から、この言説は全く宜しからず、と藩の要人に書状を出したが、それも空しかった。航海遠略策が藩是になるに及んで、久坂ら攘夷派は悔(くや)しがり、思わず奥歯を噛みしめた。

 文久元年(一八六一)四月の末、さわやかに晴れ渡った初夏の朝、長井は主命を帯びて、勇躍、萩を出達し京都を目指した。朝廷に航海遠略策を周旋する旅の出発にはまことにふさわしい朝だった。

 京都に到着すると、長井は真っ先に話を聞いてもらう公卿に手配をとった。議奏の正親町三条(おおぎまちさんじょう)実愛(さねなる)は長井の説を初めて聞かされ、呆気(あっけ)にとられた。始めは口を閉じることさえ忘れた風だったが、聞き進むにつれ、うなずく回数が確かに増えた。全てを聞き終え茫然となった。しばらく黙考したのち、やっとのことで、書状にして提出するよう長井に言った。

 長井が数日かけて書き上げた書状は、溌溂として論旨がうねるように力強かった。正親町三条は朝廷の多くの関係者に説明するためこの書状を用い、ついに、この説は叡覧に達した。

 帝は長井の説を読まれ、いままでの陰にこもった攘夷論と異なる気分になられたようだった。

 ――徳川三代将軍がたまたま採った鎖国政策に忠実であるより、千数百年にわたった日本本来の異国修好の姿に立ち返ることこそ朝廷の目指すべき道ではないか

 ――その長い年月の半分以上は天皇が親しく統(す)べ給(たも)うた輝かしい御世ではなかったか

 ――皇祖の本来のまつりごとに戻して異国と付き合い、皇威を輝かすことに何の悪いことがあろうか

 帝は長井の説を読み終え、この説にご感服し、胸懐の雲霧が初めて晴れたと側近にお漏らしになった。 帝はいろいろのことを思(おぼ)し召され、不思議と足が一歩前に出る御様子だったという。

 ――なるほど、神祖の思召しに叶わないのは鎖国のほうであり、それゆえ洋夷が日増しにはびこるのも、もっともである

 この上は、我が方から海外に押し出し、皇国の武威を示すように致そうとのお言葉があったと聞こえた。さらに、藩主、毛利慶親あての御製まで賜り、届けるよう長井に托された。

 

     国の風 吹き起こしても天津日(あまつひ)を 

                 もとのひかりにかへすをぞまつ

 

 日本の風を吹き起こして、天(あま)つ皇威の日をもとのように輝かしいひかりに戻すことを待つと、帝が仰せになられた。長井は朝廷を説得するのに、ひと月もかからなかった。長井は航海遠略策に天皇の内々のご賛意を得て、六月早々、江戸に向った。

 幕府が長井の策に納得すれば、公武合体の本当の目標が立つ。かつて幕府が朝廷に公武合体を願い出て、天皇はそれに応え和宮(かずのみや)降嫁を承知された。この時、幕府は、天皇の要請に応じて十年内外のうちに異国との通商条約を破棄すると約束した。せざるをえなかった条約破棄の約束のため、和宮を嫁に迎えたあと、幕府がやらなければならないことと言えば、条約破棄に向けて準備を整えることになった。

 これは、先見の明ある幕臣にとって、後ろ向きで気分の滅入るような勤めだった。幕府が朝廷の威信を拝借するため、やむなく受け入れた約定だった。それよりは、積極的に海外に雄飛しよう、帝の御聖徳を世界に輝かせよう、日本の武士道を世界に問おうという長井の説は、朝廷さえ賛同されるなら、幕臣にとって、まことに卓説に思えた。

 このまま開国を続けて外国技術を導入し、貿易によって国力を蓄えることが国是になるというのである。

 ――その準備にかかれと勅命が下るならば、勇気百倍ではないか

 長井は幕府要路と折衝を重ねた結果、七月二日、異例ながら、陪臣の身で老中久世大和守広周(ひろちか)に拝謁を許され、航海遠略策を建白して上々の首尾を収めた。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」二節「天津日を還す」(無料公開版)

 

 

 

 

 

三 狂気と熱誠 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 長井は、幕府とあれこれやりとりする間、江戸の長州藩邸に滞在し、若い久坂に何度も会ってやった。興奮した久坂から、国を誤ると面罵されても、長井は穏やかに聞いて、ていねいに説明を重ねた。

 長井の目に映った久坂は、まわりを見もせず狭い視野に閉じこもる偏頗な若者だった。各国との通商条約を早急に、一方的に破棄せよと破約攘夷を唱え、欧米と戦争になった場合の結末を憂慮することなく、夷狄を討てと喚(わめ)き散らしているように見えた。

 欧米から強要された開国をこのまま続ければ、さらに別の要求を押し付けられ、なし崩しに欧米の言うがままのみじめな国に成り果てると久坂が危機感を説くのを、長井は辛抱強く最後まで聞いてやった。

「なりゃあこそ、じっくり腰を据え国力を蓄えるんじゃ。軽々に暴発しても夷狄は振り攘(はら)えん。それどころか、悪うすりゃあ、国土を割譲させられかねん」

 長井はていねいに説いた。説きはしたが、何度試みても、ついに久坂の心と交わらなかった。

 久坂もそうだが、久坂の師だった吉田松陰という男も、いつも憑(つ)かれたようにせかせか動きまわっていたことを長井は知っている。吉田は、若いころ視察旅行に出発するにあたり、同行する友人と約束を交わした出発日を守るため、藩許が下りるのを待たず江戸藩邸を出奔し、津軽まで視察して回ったと聞く。長井は、後に吉田の書いたものを見て、その心情を知った。

「出発を遅疑すれば、長州人は優柔不断であると人は必ず言うだろう。これは長州藩を辱めることである。無断で出奔するのは藩にそむくようだが罪は自らの一身に止まる。藩を辱めることに比べれば、どちらがましか明らかである」

 いい意味の常識人、もっと言えば道理をわきまえた大人とは、明らかに異なる原理で動いている男だった。

 吉田は若い頃から自ら実践してきたように、やると決意すれば、成功、失敗を目算におかず、真一文字にことに当たるのが重要であると説いてきた。

「成敗を問わず」

 この言葉をよく口にし、脇目も振らない唯一筋の心情を語った。成功のための緻密な細々(こまごま)とした工夫を卑しむから、当然のように計画は失敗に終わることが多かった。

 津軽への無断出発の三年後、吉田は下田沖に漕ぎ出し、碇泊する黒船に上がり込んで、ペリーに米国に連れて行ってくれるよう必死に頼んだ。そして当たり前のように呆気(あっけ)なく追い返された。この時期、幕府との無用の軋轢をペリーなら避けるに決まっている。一途な熱誠だけで岩をも穿(うが)てると考えた結果である。

 師の佐久間象山は何度もやめるよう説得に努めた末、吉田に思い留まらせることは、もはや成しがたしと諦め、実行前に密航の壮挙を激励して詩を贈ってくれた。

 象山の詩稿は吉田の不手際で火書されず幕吏の手に渡った。その結果、象山は弟子に国禁行為をそそのかしたと幕府から咎(とが)められ蟄居の処断にあったと聞く。師にとんだ迷惑をかけた男であり、悪意はなくとも、その配慮のなさから、いつ藩に同様の迷惑をかけるか知れたものではなかった。 

 吉田は、萩で獄から出たあと自宅謹慎となり、今度は、老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)の暗殺を思い立った。無勅許で日米修好通商条約を結んだ事情を間部が帝へ説明、弁明するために上洛する。この機をとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、受け入れなければ、これを討つというのである。吉田は、間部暗殺に大砲を貸してほしいと公然と藩庁に願い出た。正々堂々、忠心熱誠の手本のような申請だった。

 クーポール(砲)三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目 という願いに、藩の要人たちは目をむいてたまげ、しばらくあいた口がふさがらなかった。

 何をなそうというのか、吉田の嘆願書を読んだ周布(すふ)政之助は驚き呆れた。周布は、藩庁の要人の中で吉田に好意を持つ数少ない一人だった。吉田の余りの不見識に、これ以上かばい立てできなくなる事態を恐れた。そこで、周布なりの好意から再度、吉田を収獄し、ほとぼりの冷めるのを待つことにしたと聞いた。

 吉田は、まわりが見えず、順序を踏まず、思い立った非常識を思慮なく大胆に実行に移す。そこに逡巡はなく正々堂々、成功、失敗を目算に入れず確信的にやる。まことに困った若者だと長井は見た。それでも吉田に悪意は抱かなかった。

 米国密航計画にせよ、老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)暗殺計画にせよ、成否を問わず大それた企てを試み、当たり前のように失敗した。まわりの多くは、失敗するからやめよと必死に助言するのだが、成敗を問わず、と生き様を賭けた覚悟で押して来られると、止めようがなくなるのが常だった。それでもなんでも、弟子に慕われることを長井は知っている。

 その後、幕府から吉田の出頭命令が江戸藩邸に届き、長井はそれを萩に伝えた。江戸と国許の間の単なる役儀の上の手配に過ぎなかった。その結果、吉田は萩から檻送され江戸の小伝馬町に収獄された。

吉田は奉行所で取調べを受ける最中、聞かれもしないうちから老中間部の暗殺計画を堂々自白し、あえなく斬首の刑に処せられた。吉田が話すまで、奉行所は吉田の老中暗殺計画を承知していなかったらしい。

 ――これでは藩も助けようがないではないか

 あとで話を聞いて長井は思った。

 当時から、長井は、この若者は何を考えているのだろうと不気味な気持ちでその挙措を眺めていた。悪意をいだくわけではなかったが、決して感心はしなかった。物事には順序があり、独りよがりの突飛な行動は、吉田の言う知行合一でもなんでもなかった。

 吉田は思い立って、計画も未熟のままに行動に移し、当然のように失敗を重ねただけではなかったかと、かつての印象を思い出した。目の前で攘夷を声高に叫ぶ久坂の姿に重なった。師弟でよく似ている。

 四回目の会談で、久坂は長井を説得できないと知った。それなら何としてでもこの手で航海遠略策をつぶしてみせると心に決め、同時に長井に殺意をいだいた。久坂の中で、その決意と殺意は区切りが曖昧だった。

 長州攘夷派の中でも吉田松陰門下の久坂と寺島は、師の訓えどおり、いつでも国事のために命を投げ出す覚悟を固めてある。ならば、志のために、人の命を奪う覚悟もできているということだった。松陰ゆずりの鉄石の死生観に妥協の余地はなかった。

 こうして、文久元年(一八六一)秋、久坂は、近く京都に兵を集結させることを土佐の武市半平太と連絡し合った。そのために、いずれ航海遠略策をつぶして長井を亡き者にすると行動目標を定めた。

 たとえ意見を異にしても、長井は藩を同じくする先達であり、藩きっての名士ではないかと考える円満な常識人の感覚を久坂は易々と超えることができた。師匠譲りの勇猛振りで、それこそが草莽崛起の強みだった。狂気が混ざっている。

 

                            *

 

 実美が、武市半平太、三十四歳を領袖とする土佐勤王党と付き合い始めたのは文久二年閏八月。武市が京都に上って活動を開始してからだった。島津久光に護衛された勅使大原重德が江戸から戻った時と、丁度、同じ頃だった。

 武市は六尺豊かな美丈夫。表情に一抹の暗さがあり、ひどく真面目な男だった。暗殺を有効な政治手段と見做して配下に腕の立つ剣客を揃え、行くところ、きっと血煙が立つ勢いで攘夷活動を展開した。

 苦み走ってどことなく影を宿す男から、深沈たる口ぶりで、容赦ない謀略や暗殺経験を聞くと、実美は空恐ろしい気がしたものだった。実美は武市から譎詐(けっさ)謀略のやりかたを手ほどきされ、ついには共に江戸に行く間柄になった。

 武市はよく、梨の木町の実美の屋敷を訪れてきた。あるときは暗殺計画の話、あるときは政治謀略の話、時には武市がいかなる勤王の道を歩んできたか、身の上話になった。この話題になると、実美は息を呑んでただ聞くしかなかった。凄絶な話だった。

 

 文久元年(一八六一)七月、武市半平太が剣術修行中の江戸で長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らと親交を深め、尊皇攘夷の志を語らった。このあたりから武市は一介の剣客の枠を越え、各藩に攘夷志士として広く知られるようになった。八月、武市は土佐藩の同志血判盟約書を作り、江戸にいる同志と盟約を交わしたのが土佐勤王党の始まりだったという。

 九月、武市は高知に帰って、さらに国許の同志を募って二百名を超える大きな勢力を結成した。武市は領袖の立場となった。土佐藩士の複雑な身分制度では、地生えのもともとの長宗我部侍は郷士という軽格の侍とされ、あとからやってきた山内侍の下風に立たされた。

 武市率いる土佐勤王党の多くの志士は郷士層の出身である。だからこそ、帝の前に上士も郷士もなく、ひとえに帝の臣であるという勤王の思想に惹かれるのだという。勤王の動機が己の身分と関わっていた。

 身分の悔しさから、土佐勤王党は藩内の対立者を排除してのし上がってきた連中だった。一部の上士も加わったものの、その大半は郷士の下級武士だった。こうして土佐藩は三つの勢力が拮抗するようになった。

 第一は国許の牢固たる守旧派で、旧慣を変えず将来の見通しもなく、国難にあたる気概も無いに等しい。多くは山内侍で、暖衣飽食が許される高い身分を固守したいと願う立場は、当然、容堂とも反(そ)りが合わなかった。

 第二は容堂の目指す公武合体を助ける一派で、開国を望み開明的で海外事情にも精通している。急激な攘夷に反対し幕府に協力的である。容堂の懐刀(ふところがたな)、執政の吉田東洋がその領袖だった。

 第三が土佐勤王党である。意気激烈、急激な攘夷を信奉する長州の久坂たちと盟友の関係を結んだ。

武市は、個々の藩士が勤王国事のために脱藩し、志士となって群がってみても政治的な意義はうすいと見た。そのため、機会をみて一藩勤王を目指すよう藩庁に建白を行なっていたが、いかんせん卑しい身分では、まともに取り合ってもらえない。武市の悩みはますます深く、怒りの衝動を抑えがたかった。

 武市が土佐勤王党を結成したのは、新しい世を作り、外国の脅威、侵略を防ごうと考えたからだった。ただ、それだけではない。藩内における下層武士の立場から脱したい思いを託していた。身分上昇によって、いい暮らしをしたいのではない。政治的な発言力を強めたいと、こんな場合だからこそ切歯扼腕の思いを持った。

 武市の当面の目標は、藩主が兵を率いて上京するのに乗じ、土佐藩を丸ごと勤王藩に仕立てる道筋を付けることだった。藩主豊範に従って京都に出、そのまま江戸に随従することを計画した。

 勅使の護衛に付くよう勅命を賜れば、できないことではない。京都の地で長州、薩摩と会盟し大きな力を結集する。これを背景に尊皇攘夷を行なうよう幕府に圧力をかける一翼を担う策だった。

 武市が土佐藩を勤王にまとめるには、まずは執政の吉田元吉を説得しなければならなかった。吉田、号して東洋。大志ある剛腹な執政で容堂の気韻にぴたりと則した。辣腕の故に抜擢され、容堂の懐刀(ふところがたな)となった。

 武市は江戸より帰国し二ヶ月をかけて藩内情勢を見極めた。そのうえで、十一月、吉田を帯屋町の私邸に訪問した。

「明年、薩長両藩主が精兵をひっさげ京都に向かうとのことにござる」

 武市は京都の喫緊の情勢を説いた。

「土佐藩でも豊範公が兵を率いて京都に会同し、よろしく勤王の先駆けを勤めるべきでござる」

 武市は堂々と揚言した。吉田は、武市の態度を臆面もないと見て、いよいよ腹の虫が納まらなかった。

 ――身分のほどもわきまえんき、白札の分際で何を抜かすがか

 会談は最悪のものとなった。

 二人とも学問、剣術の両道に秀で、その胆力と指導力は黒光りした図太さを持ち、存在感は尋常でない。その気迫が眼差しと口吻の端々に噴きあがって真っ向からぶつかった。

「我が藩は初代一豊公が権現様の恩顧をこうむり土佐の大封を得たがじゃ。徳川に怨みを含む薩長と同じ道を歩めん義理があるがぜよ」

 吉田は藩の成り立ちから武市の論に反駁(はんばく)にかかった。

「さらに言うたら、異国船が四周から迫る今の時期に、攘夷こそが亡国につながるがぜよ。せやったら、開国し力を付けてこの国を守らんでどうするがじゃ」

 攘夷論の非を鋭く衝いてきた。

「異国の武力に対抗するには異国の事情を知らんとならん。そんためには開国が必要ながや」

 吉田の海外知識は、己の手で詳しく集めた情報によるだけでなく、江戸藩邸から送られてくる最新の消息を踏まえ、武市の知識をはるかにしのいでいた。

 吉田は、安井息軒はじめ、心許した一流の人物を友に持ち、江戸からの消息に幅広く触れている。武市も江戸留学時代、剣客と人脈を通じ攘夷派を同志としたが、海外事情をわきまえ冷静に時勢を説く人物は友にいない。とうてい吉田に反論できるはずがなかった。

 

 

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」三節「狂気と熱誠(無料公開版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

二節三章「天津日を還す」
三節三章「狂気と熱誠」
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