第三章 栴檀の棘
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明和四年(一七六七)七月朔日、意次は御側御用人に任じられた。宝暦元年(一七五一)御側御用取次になってから十七年、将軍二代に側近く仕えてきた。
御側御用人は側職最高の職位で、二万石の領地と築城を許され、従四位下の官位を賜るのが常だった。前職の板倉勝静も、前々職の大岡忠光もこの処遇を受けた。
意次は、このたび、遠江(とうとうみ)の榛原(はいばら)郡と城東郡で五千石の加増を受け二万石の大名となった。前回の加増で五千石を賜ったのは宝暦十二年二月十五日、大御所の大葬を差配したことが評価された。公にはしないが、家治には、知保を側女に据える手配りを整えた功に報いたい気持ちがあったと思われた。
今回は側用人昇進に伴う加増である。築城が許され城持ちの堂々たる大名となる。宝暦八年(一七五八)に一万石を賜り大名になって九年目だった。江戸では新たな屋敷を神田橋御門内に拝領し、近く呉服橋から引き移ることになった。
御先代より出精相(あい)勤め候に付、御側御用人仰付(おおせつけ)られ、五千石御加増下さる
辞令には、先代家重からの忠勤を称(たた)えてあった。後日、もともとあった「多年」の文言を「御先代より」と換えるよう家治から指示があったと聞いて、意次の感激はひとしおだった。二代の将軍に仕える側職はありえない人事だったから、このような表現に隠された家治の意図に感激し、意次は二重の意味で喜んだ。
我がことだけではなかった。同日付けで嫡男、意知が菊之間(きくのま)の座班たるべしと命じられた。意知は三年前、家治に初めてお目見えを賜り、菊之間広縁から勤仕を始めた。菊之間は城主大名の嫡男の詰める席だから、父親に添う穏当な昇進だった。
意次は辞令を受けて側用人となった後も、これまで通り評定所へ出席してよいか幕閣の指示を仰いだ。意次は、宝暦八年(一七五八)郡上一揆の件から、十年間、評定所の司法審理の正式な出席者だった。さらに、下僚を率いて経済政策を立案する一方で、有能な人材を増員して評定所の政策立案機能を充実させることに努めてきた。
意次が評定所でこの立場にある限り、家重から家治に託された大方針に沿って財政改革策が立案され、時に錯誤を踏みながらも一歩ずつ着実に実行されてきた。
七月三日になって、老中松平康福(やすよし)(岡崎藩五万四百石藩主)から意次あてに、今まで通り評定所の審議に出席するよう回答が届いた。最後に、意次が伺いを立てたわけでもないのに、格段のことが指示してあった。
席順之儀は寺社奉行之上に罷(まか)り在(あ)らる可(べ)く候
意次は、これまで評定所では寺社奉行と同等の資格だったが、これからは最高位に就いて評定所を主導せよとの達しだった。幕閣が、家治の信頼あつい意次の力量を認め、側衆ながら幕府の根本を任せると言うに等しい。側衆の最高位に就いた者が評定所でも最高位に就く。側職と表職実務の要(かなめ)を意次に任せる人事だった。
それから間もなくして、御休息之間で意次が家治に上申する姿が見られた。意次の背後、入側(いりがわ)越しに庭木と泉水が青々と広がり、真夏の日差しが照り映えていた。この場の二人の間に、昇進の御礼言上などあらたまって挨拶する必要は疾(と)うに終わり、直截な話が手際よく進んでいた。
「父上の七回忌も先月相済ませ、御遺言になられた幕府財政の手入れをますます進める時ぞ」
「御意。勘定奉行の石谷(いしがや)備後に長崎奉行を兼帯させましたところ、唐と阿蘭陀(おらんだ)より銀を買い入れる話をつけ、こちら側からは銅と俵物を買い渡しまする。銅と俵物の増産を進め、交易の利を上げつつありまする。御金蔵に貯めた銀にて、新貨発行の準備のため、まずは一昨年、五匁銀を試しに出してまして、使い勝手、世の評判などを調べさせてございます」
意次は、家重逝去から六年がたって、これまでの財政策を手短に振り返った。
「百姓の納める年貢に頼ってばかりもいられませぬ。されば、最近では商人(あきんど)の儲けは莫大な額に上り、商(あきな)いにも税を掛けてはいかがと勘定所に考えさせておりまする。商いは世間あってのもの、その世間から得た儲けと考えれば、商う者は、儲けの一部を世間に還(かえ)すのが道理と存じまする」
「ふぅむ。大きな利を上げる商人が税を負わぬもおかしなものかもしれぬな」
「運上金や、冥加金、御用金など、いろいろの名目で取り立ててはいますが、百姓のように毎年、取れ高に応じて年貢を納めさせるようなわけには参りませぬ。いくら儲けたか、大福帳を見せよとも言い兼ねまする」
「それはそうじゃの。勘定方に人がいくらあっても足りぬであろう」
「商人から税をとる仕法が必要にございます。おおよそ、商いの種別に仲間組合のような集まりを作らせ、ここに課税する案が有力でございます」
「年貢を村に掛けるのと同じわけじゃの」
「御意。さらに、近く、四文銭を発行して民の便宜を図り、金回りをよくして諸色の売買を盛んにいたしたく考えておりまする。されば、商いも熾(さか)んになって、税を取りやすくなりまする」
「豊作の年に多く年貢が納められるようなものじゃの。貴穀賎金(きこくせんきん)と唱え、商いと金勘定を低く見る風潮は、今の時代、もはや通じまいよ」
「……」
「古武士は金に淡白であればこそ美しいが、政(まつりごと)はそうはいかぬ……」
「御意」
意次は、家治の政策観に感心し、しばらく、顔を見入った。
「評定所と勘定奉行所の話し合いの中で、四文銭を新たに吹くには、銅を節約するため真鍮の銭にいたす案が出てまいりました」
「うむ。父上の御遺言が実際の策に練り上げられ、一歩一歩進んでおるのは、余も嬉しい。これからもしかと頼むぞ」
「ははっ」
「父上の御遺言を実らせるのは、子たる余の務めじゃと思うてはおるが……」
家治は口ごもって、意次をじっと見た。意次は、しばらく家治の眼差しを見つめた。
「されば、上様には何か思召しがございましょうか」
意次の担う改革には、家治の確固たる意志がなければならず、家治に何かわだかまりがあるのなら、よくよく気持ちを知っておかなければならない。
「父上はお体が不自由だった分、却(かえ)ってお考えは明晰じゃった。幕臣には知らぬ者も多かろうが、立派な見識をお持ちじゃった。そのお考えを託し実行させる臣をお持ちじゃった」
意次は真剣に耳を傾け、真意を知ろうと家治の顔を凝視した。
「されど、余は将軍として何か己の考えで為すべきことはないか、久しく気になっておった。最近、一つだけ、為すべきことに思い至った。されど任せる臣がいない」
「……」
「余は東照宮に社参に行きたいと思う」
「そ、それは……」
日光には、三代将軍家光が建立した東照宮があって徳川家康を祀(まつ)る。これまで家治は老中らに三度ほど、自ら参詣することをどう思うか、軽く打診したことがあった。そして常に、強い反対にあって、口を噤(つぐ)んできた。
意次はそんな席に居合わせ、家治の胸の内を想像して気を揉むことが多かった。意次の眼から見ても、日光社参に要する費(つい)えと幕府財政の現状を考慮すれば、幕閣の判断もやむなしと思うしかなかった。 その話が、今度は、意次一人に向けられ、家治の胸の内を聞かされた。
「日光御社参は、厳有院様の寛文の後、絶えたりしを、六十五年ぶりに有徳院様が享保十三年に執り行われたのじゃ。余は近ごろになって知った」
祖父の日光社参は、四代将軍以来のことで、五代、六代、七代の将軍は日光に行かなかったと、家治は悔しそうに言った。
「そうなのでござりますか」
「父上は、御病(おやまい)がちであられたから止むをえまいが、有徳院様の日光社参からこの年まで、すでに三十九年。百年以上の年月に、わずかに一回の社参しかなかった勘定じゃ。このままでは、日光御社参はついに廃(すた)れてしまうのではないか」
「……」
「この大礼が闕典(けってん)となれば、徳川の家はいかが相なるのじゃ」
「はっ。畏(おそ)れながら、日光御社参は天下の大礼にして、将軍の威を公に示すもの。巨額の費(つい)えを要します。費えを惜しんで、余りに倹約した礼式で行うことはかないません」
「うむ。今日のところは、ここまでにしておこう。幕府が祖廟をどう扱えばよいのか、主殿も、しばし考えてみよ。幕府の掛りを節減するあまり、何か大事なものを失ってからでは遅いぞ」
家治から途方もない話をもらって、意次はひとまず下がってきた。詰所に戻る途中に見る中奥の泉水は夏日に照らされ、あまりに目映(まばゆ)く、意次は思わず目を閉じた。
――日光御社参は天下の大礼、その掛りはいかばかりか。
――今、勘定方は財政をあるべき姿に戻し、余剰金を蓄えるのに懸命になっておって、御社参に回す金のある筈がない
――上様の御意向はなんとしても達成して差し上げたいが、どこをどう捻(ひね)ったらよかろうか
意次は、詰所まで廊下を歩くままにぶつぶつと呟いた。すれ違った若い小姓が、御側御用人の田沼様が、という顔をして振り返ったことにも気付かなかった。
数日間、考え抜いて、意次が家治に言上した方針は、数条に上った。
「今や、幕府は、財政立直しと、余剰金蓄えの最中でござれば、平年勘定や余剰金から日光御社参の費(つい)えを支出することは避けとうござりまする」
「うむ」
「そこで御社参の費えは、一定期間、積立てることといたし、御社参は数年先にいたしとうございます」
意次は、一般予算から切り離した特別会計を提案した。
「うむ」
「まずは、勘定奉行石谷備後の預かりの下で表立たぬよう日光御社参に要する費用を丁寧に見積もり、一方で日常御用の掛りを倹約する段取りを立てまする。万が一にも、この動きが幕閣に洩れますれば必ずや反対され、今度こそ握り潰されましょう」
「そうじゃの」
「倹約の段取りが煮詰まり、もし、その決心が付きますれば、日光御社参を行(おこの)う旨、堂々と公表し、ついで本格的な倹約を沙汰いたしまする。公にした以上、倹約は苦しくともやり遂げるしかございませぬ」
「そうよ。その覚悟じゃ」
「積立てが始まれば、表でつかう諸用だけでなく、中奥、大奥の費えも倹約いたし、上様自ら倹約に努める範(のり)を垂れていただきとうございます。こうでもしなければ、老中らの日光御社参の反対は躱(かわ)せまいと存じます」
これを聞いた家治は、にっこりと笑みを浮かべ大きな声で言った。
「それでよい。まずは、本当にできないことなのか調べてみよ。やりようによってはできる道を存分に考えよ。新たな人事が必要になれば直ちに言って来るように。そうとなれば余も自ら倹約に励む。歯を喰いしばっても励む。頼むぞ、主殿(とのも)」
「ははぁーっ」
九十九人までができないと言っても、なんとか道を探し出すのが己の身上だと、自ら励まし、意次は家治に向かって平伏した。
伊達藩主側近、古田良智が意次の側用人昇進と築城裁許を知ったとき、閃(ひらめ)くものがあった。正月に、関東河川の国役普請の手伝いを自ら買って出ても、藩主の望む中将の官位をもらえるか、まだ確信をもてなかった。
官位を貰えるのは、工事が立派な出来栄えに仕上がったのちの話かもしれない。古田は、大普請の出来次第なのであれば、主君の昇任に自信が持てず、最後の念押をしておきたいと懊悩していた。その矢先、田沼意次が築城に取り組むことを知った。意次の許に小判を無理にも捻じ込んできたが、効果は薄いと思わざるをえなかった。
意次の築城では、別の手が使えると思いついた。例えば、石垣用の石材を船で相良の地に届けてやれば、どうだろうか。送り返すわけにもいかず転がしておいても、いずれ時期がくれば必ず入用になる物。内心、嬉しくないはずはない。
――早速、殿に上進申し上げよう
こんどこそ、苦労を実らせる最後の機会だと古田は確信した。川普請にいくら掛かるのか、途方もない額だろう。
――そこまでして積んだ九仞(じん)なのじゃ。一簣(いっき)を虧(か)くわけにはいかぬ
吉田が力を振り絞って新たな画策を開始して五ヶ月がたった。師走の十六日、定期叙爵が行われ、主だった大名では、上杉弾正大弼治憲が侍従に任じられた。伊達家にとってかつて戦ったこともある因縁深い家であり、領地も近く関心が高かったが、その分、己が叙爵されなかったことに青ざめた。
重村は眠れぬ二晩を過ごし、十八日、ようやく左近衞権中将に任じられた。幕閣、幕僚は内心、なんと思ったか、発表の席で表情が硬かった。幕府の記録にはどことなく冷たい筆致でこう記(しる)された。
伊達陸奥守重村、歳いまだ稚(いとけな)しといへど、思召すむねありとて、左近衞權中将にすすめらる
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」一節「道を探す」(無料公開版)