馬場佐十郎は、天明七年(一七八七)十月二十四日、三栖谷(みくりや)家に生まれた。南馬町(みなみうままち)の生家は鎮西大社諏訪神社に近く、諏訪神社といえば、おくんちである。毎年、九月九日(くんち)、長崎あげて祭りが繰り広げられ、佐十郎は、幼少の頃から曳物(ひきもの)、担(かつ)ぎ物に慣れ親しんで育った。
佐十郎には、為八郎という十八違いの長兄がいたが、生まれたとき、すでに馬場家の養子に入っていた。父の仁平は長崎のまずまずの商人で、蘭通詞の馬場家とは遠い縁戚の家だった。馬場家の通詞は出島が開かれた初期のころ多少活躍したようだが、その後、これという人材が出ず、今では寂しい家になっていた。
複雑な事情があって、仁平は通詞馬場家の株を買って長男に馬場家を継がせるよう図り、馬場為八郎を名乗らせた。安永七年(一七七八)、為八郎は十歳で稽古通詞になった。考えの緻密な子供で、蘭語の勉強に励んで周りの大人を頼もしがらせた。その後、為八郎は父子ほども年の離れた弟、佐十郎を養子に迎えた。
寛政十年(一七九八)、江戸よりの帰路、商館長(かぴたん)が死去したため、新任商館長が赴任してくるまでの間、長崎奉行は主席書記官レオポルド・ウィルレム・ラスを実務上の商館長代理と扱わざるをえなかった。為八郎の当初の仕事相手が、このラスだった。
長崎には、年番通詞(ラポルテル・トルク)という制度があった。日々、出島の通詞部屋に詰め、必要に応じて甲比丹(カピタン)の許に出向き、時に長崎奉行所に出向き、万端、遺漏なきよう複雑な事務を整えるのが役目である。一年交替の役に就く二人の通詞は、年番大通詞(オッペル・ラポルテルトルク)と年番小通詞(オンデル・ラポルテルトルク)と呼ばれた。
寛政十二年(一八〇〇)正月、為八郎は三十二歳にして年番小通詞に任ぜられた。馬場家は久々に御役を拝命し、少しばかり家名を上げた。為八郎は、長崎切っての蘭語実務家の一人だったが、いまだ稽古通詞で、通詞職位の中で随分と下位の方だった。
その年の夏、新任商館長ウィレム・ワルデナールと荷倉役ドゥーフが長崎に赴任するに及んで、為八郎の仕事の相手が代わった。特に、ドゥーフは直接細かな詰めを行なう当の相手であり、うまが合うとでも言うのだろう、すぐに親密な関係が始まった。
為八郎は、書付けを見るとき鼈甲(べっこう)の飴黄縁(あめきぶち)の眼鏡を掛け、額に掌(て)を当てて考える風貌がどことなく可笑しいと、ドゥーフにすっかり好かれてしまった。
「長崎は鼈甲(べっこう)ん産地ばい」
為八郎がドゥーフに教えたのは、この眼鏡がきっかけだった。間もなく互いに親密な感情を懐き、為八郎は、息子の佐十郎に蘭語を仕込んでもらいたいと、ドゥーフに頼み込んだ。為八郎は、ドゥーフが長く出島商館に勤務してほしいと願い、日本に滞在する限り心通う良き友になることを確信した。
為八郎は佐十郎から牛痘種痘の話を聞くと、御用でドゥーフと面談する折を見計らって、その話をドゥーフ本人に尋ねてみた。ドゥーフは喜んで詳しく話してくれた。為八郎は、根拠の確かな話であると確証を得た後、長崎奉行に伺候した。
長崎奉行は阿蘭陀(おらんだ)風説書の和解(わげ)を読み、牛痘種痘の文字を目にしてはいた。あらためて為八郎から説明を聞いて、牛痘種痘の意義を理解し、日本に広めることに乗り気になった。為八郎は、奉行から、種痘への好意的関心を上手に引き出し、早めに蘭方医に伝えておくよう指示を取り付けた。これだけの下準備を整え、為八郎は佐十郎を連れて蘭方医の吉雄献作を訪ねた。
為八郎が、献作こそ、牛痘種痘の話を伝える相手にふさわしいと考える理由は、献作が通詞を勤めていた頃から仲がよかったというだけではない。献策の父は吉雄幸左衛門といい、日本はもとより爪哇(じゃわ)にまで名を馳せた名通詞だった。通詞の枠を超えて蘭学に深く分け入り、特に蘭方医学では日本随一の域に達した。その私塾、成秀館は門弟六百とも千とも喧伝され、蘭方医学に志を持つ者なら一度は入塾を目指すほどに隆盛だった。
吉雄幸左衛門は、蘭語医書を読むだけでなく、通詞の立場を活かして阿蘭陀(おらんだ)商館医から直接、欧羅巴(ようろっぱ)医学を学び取った。新たな土壌を耕す気力を込めて「耕牛」と号す長崎蘭学界の泰斗だった。
耕牛は長崎奉行に仕(つか)えて大通詞に昇り詰め、一方で長崎蘭学界に君臨して江戸蘭学者たちと幅広い人脈を築いた。七十七歳の長寿を重ね、寛政十二年(一八〇〇)ついに逝(い)った。今は、二男の定之助と三男の献作が吉雄流紅毛外科を引き継いで門地を守っている。
献作は 、為八郎より一歳年下の三十四歳。始め蘭通詞を勤め、蘭方医学に転じてからは、父より受け継いだ蘭学者との人脈を発展させた。幅広い交流の中で蘭学情報を交換し、長崎で知り得た西洋の新知識を江戸や大坂など各地の蘭方医に伝える日々を送っていた。為八郎が、此度(こたび)の話に最適の人物と見込んだのは無理からぬことだった。
為八郎から訪問の挨拶を受けると、献作はつい先日、執り行われた馬場家の七回忌に参列し、立派なお斎(とき)を御馳走になったと礼を述べた。
「もう、たけ女ん七回忌とはのう。可愛(かわ)いか盛りで逝(い)ってしもうて」
「佐十郎が、どがんしてん法事ばやらんばならん言うもんやけん、ごく内輪で執(と)り行(おこの)うたばい。生きとったら八歳や……」
為八郎は、佐十郎がいまだに妹のたけを想う様子をしんみり語った。献作は頷きながら佐十郎を見て、目を細めた。
「やさしか息子ばい。ずーふに阿蘭陀語ば教わっとっとね」
挨拶のあと、献作はすぐに昔なじみの気安い口ぶりで、為八郎と知人の消息などを一通り語り合った。
「さて、今日、伺(うかご)うたんは外でもなか。実は倅が……」
為八郎が話の口火を切ったあと、佐十郎は促されてドゥーフの話を語り始めると、献作は、真剣な面持ちで居住まいを正した。欧羅巴で人痘に代えて牛痘を種(う)える方法が発見され、人痘種痘と違って、本当の痘瘡を発症させてしまう危険がないと聞いて、献作は大きな驚きと興味を見せた。
古い話ではなく、わずか五年前、英吉利(いぎりす)で新しく発見された方法らしいと佐十郎から聞くと、献作は期待をこめて頷(うなず)いた。
「こりゃ、たまがる話や。初めて聞くばい」
初めて牛痘を植えられた英吉利(いぎりす)の少年は佐十郎より一歳の年下で、和暦の寛政八年、八歳の時、牛痘種痘を受けたという話が三人の間で盛り上がった。
この方法は、英吉利(いぎりす)はもとより阿蘭陀(おらんだ)ほか各国に取り入れられ、欧羅巴(ようろっぱ)で大きな話題になっているらしいと為八郎が補足するのを聞いて、献作は大きく頷いてみせた。
「西洋事情ば伝える小さな伝聞とはわけが違(ちご)うと」
献策は、蘭方医の感覚が強く揺さぶられたような真剣な面持ちを見せた。献作は、寛政元年(一七八九)痘瘡が大流行した折、筑前秋月藩の緒方(おがた)春朔(しゅんさく)が人痘種痘を行って流行拡大を防いだ前例を為八郎父子(おやこ)に話し始めた。
「もう十五、六年ほど前になるばってん……」
緒方が耕牛の成秀館に入門したときから話を起こした。
「春朔先生(しぇんしぇい)は、もともと漢方ん町医者やった。長崎遊学中、親父(おやじ)ん成秀館で紅毛外科ば学ぶかたわら、『種痘心法』という漢籍と出会(でお)うたとばい」
これは唐式人痘種痘に関する論考で、漢方医の緒方には読みやすかったらしい。
「おいも『種痘心法』ば読んだが、なかなかんもんばい。ここには四つん種痘法が書かれとっと」
献作は、唐の人痘種痘法について父子に語った。その一つ、衣苗法とは痘瘡患者の病衣を健康人に着せて感作させるもので、発痘率が高くないのが欠点である。医師に払う金のない者が行う方法と言われる。漿苗法とは、痘瘡患者から膿漿を直接、健康人に接種する方法で、弱毒化の過程を経ないため、痘瘡発症の危険が高いのではないかと緒方は懸念していたという。
水苗法は患者発疹にできた瘡蓋(かさぶた)をいったん乾燥しておき、用時、粉末にすりおろして水に溶き、綿棒に湿(しめ)し鼻腔に挿入する。旱苗法では乾燥粉末のまま鼻腔内に吹き込むもので、唐で行われる主要な種痘法だという。
「春朔先生は吉雄流外科ば身に付け、丁寧に筆写した『種痘心法』ば携(たずさ)えて、お国元に帰られたと。秋月ん御城下で開業され、評判が高まって藩医に任ぜられたとばい」
その年、痘瘡が大流行し、藩医となった緒方は惨状に直面した。
「春朔先生は、民ん苦しみば見かねて、種痘によって流行ば食い止めんばならんとご決意なさったとばい。すでに考え抜いとられたんやろう、旱苗法ば採用して人痘種痘ば実施なさったと」
緒方は、予防効果をあげ一例の死亡例も出さなかったと、のちに耕牛に報告してきたという。この頃には、緒方に各地の有力な弟子ができ、長崎には西原道寧がいた。献作が為八郎に頼まれ、たけの主治医に紹介した医師だった。
身じろぎもせず、じっと聞いている為八郎父子を前に、献作は、緒方がこの国で初めて行った種痘について、知る限りを語り続けた。旱苗法の種痘はそれなりに効果があって、緒方が盛んに実施したが、日本では今に至るも、それほど普及したわけではないという。
「痘瘡患者は治りがけに瘡蓋(つ)のでけるばってん、そん瘡蓋(つ)ば粉にすりおろし鼻から吸い込むと聞とうだけで、大抵ん人は怖気(おぞけ)立つばい」
親は子供に痘瘡に罹らせたくない一心で、患者の瘡蓋(かさぶた)の粉を子供に鼻から吸い込ませ、かえって痘瘡に罹らせてしまう一か八かの恐ろしさを想像して、なかなか受け入れないと献策は説明した。
「丁度そんころ、出島に赴任した蘭医べるんはると・けるれるが、欧羅巴で広まったトルコ式人痘種痘ば蘭方医に演示してくれたばい。子供ん腕に小さな傷ばつけ、脇に控えた痘瘡患者から刺胳針(ランセット)で採った生(なま)ん痘漿ば直接、子供ん傷に擦(なす)り付けよった。そんあと繃帯で巻いたとばい」
ケルレルの種痘で六人中、四人の子供が発痘し、トルコ式人痘種痘が日本で初めて成功した症例となったという。この方法は、蘭方医の間で大きな話題となった。ケルレルは、軽症の痘瘡患者から痘漿を採り、これを直接、腕の小切開創に種(う)えるのだと、トルコ式の要件を丁寧に伝えた。一度、罹(かか)れば、二度は罹らない病気であると強調し、種痘の概念を教えた。
ただ、この方法にしても、一か八かの賭けであることに変わりなかった。天然の痘瘡で死ぬ患者よりは、種痘で死ぬ人のほうが少ないというに過ぎない。
献作はこれまで人痘種痘を試みた先人の努力に触れながら、牛の痘瘡とはどのようなものか、日本の牛は罹(かか)らないのか、罹るとすれば日本で牛痘苗を採れるのか、牛痘苗を使うにしても膿漿か痂皮か一体何を種痘に用いるのか、どのように接種するのか、痘瘡の予防効果はどれくらい確かなのか、接種によって本当に痘瘡に罹ってしまう危険はどのくらいなのかなど、多くの問題について詳しく知る必要があり、一つの体系立った療法として熟知しなくてはならないと父子に説いた。
献策は、ドゥーフが言うように、いずれ、そう遠くない将来に爪哇(じゃわ)から牛痘苗と種痘法を書いた蘭書が舶来するなら、楽しみに待とうではないかと父子に結論を述べた。
「口伝(くちづて)ん話では始まらんばい」
まずはドゥーフの話を早々に知らせてくれてありがたかったと佐十郎に篤く礼を言い、十七歳の若者が頬を紅潮させるのを穏やかに見つめた。
献作は万事心得たと言って、何事か考える風情で父子(おやこ)を屋敷の門まで案内した。丁寧に挨拶を交わし、並んで帰って行く父子の後ろ姿を長い間見送った。
――まずはずーふとへいるけに詳(くわ)しか話ば聞かんばならん。欧羅巴医学界で何ば起こっとんか
献作は、次々に沸く疑問に、我ながら、少し興奮しすぎかと思い苦笑した。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」四節「長崎南馬町」(無料公開版)