寛政九年(一七九七)七月十三日、長崎は盂蘭盆会(うらぼんえ)の入りを迎えた。阿蘭陀(おらんだ)通詞を勤める馬場家では、長男佐十郎がたけをあやす声が朝から響いていた。たけに鬼灯(ほおずき)の一枝をかざすと、赤い実を取ろうと、よちよち歩み寄る姿が面白くて、佐十郎は笑いが止まらない。たけが近寄ると、鬼灯の枝で誘うように後(あと)ずさって、掛け声をかけた。
「あーいー。あーいー」
たけが両手を上げ、笑い声を立てて佐十郎の胸に飛び込んできた。二人は大笑いしながら倒れ込んだ。
佐十郎、十一歳。たけは前年生まれの二歳。日頃から、佐十郎はたけを可愛がり、たけも佐十郎によく懐(なつ)き、歳の離れた仲良しの兄妹は町内でも有名だった。父為八郎は子供のふざけ合うのを見て、二人一緒に抱き上げ三人で大笑いした。
長崎では、祖霊を賑(にぎ)やかに陽気に迎えるのが習いである。家中がお盆の準備で生き生きと楽し気だった。佐十郎も今日ばかりは父に教わる阿蘭陀(おらんだ)語は休みである。
為八郎は、稽古通詞のささやかな身分だが、幸せな家庭を営み毎日が充実していた。この日、役所は休みで、為八郎が精霊棚(しょうろうだな)を飾る役目だった。しばらくすれば、近所の者が萱(かや)で編んだ精霊菰(しょうろうごも)を届けに来ることになっている。
妻は大忙しだった。夜、皆で墓参りに行って、墓前で食べる重箱を作らなければならない。午後には、迎え団子(だご)のため白玉を茹で上げる。馬場家の味付けはかなり甘味が濃いから、黒砂糖と黄粉(きなこ)は十分に用意してあった。
夕刻、為八郎は奈良晒(さらし)麻布の定紋付小袖に正装した。馬場家の人々もそれぞれに装いを凝らし、ずしりと重い重箱を風呂敷包みに提(さ)げ、一升徳利、緋毛氈(ひもうせん)、提灯(ちょうちん)、箭火矢(やびや)、千日紅(せんにちこう)の供え花、御仏供(ごぶっく)を持って、迎え盆の墓参に向かった。
馬場家の菩提は本蓮寺にあった。女風頭(おなごかざがしら)に至る西坂町で、山門をくぐって長い石段を登った。後ろを振り返ると、格段の高みから夕陽の傾く長崎湾を一望し、遠く野母半島の連なりまでうっすら影が見えた。皆は息を入れながら、しばらく夕焼けの絶景に見惚れた。辺りは蜩(ひぐらし)の声で満たされていた。
墓前に酒宴の席を設け、暮色深まる頃、提灯に火を灯(とも)し各家のお盆が始まった。子供たちは塀で囲われた墓域の中を走り回り、大きな声で歌を歌った。
赤(あっか)とばい 金巾(かなきん)ばい
おらんださんから
もろたとばい
大人たちは、時々、墓の門を出ては、近くの墓前に集まった親類縁者と挨拶し、互いに招き酒杯を交わした。箭火矢(やびや)が上り、音火矢(おとびや)が響き、本蓮寺の墓地は年一回の行事に賑わった。あちこちで人々の笑い声が聞こえ、祖霊も迷わず帰ってこられそうだった。
三日間のお盆で、佐十郎はたらふく食べ、たけとたっぷり遊んだ。送り団子(だご)は祖霊がこの世に未練を残さぬように、甘みを控えて拵(こしら)える。無事、送り火を済ませた翌日あたりから、たけがむずかるようになった。佐十郎がなだめても笑顔を見せず、だんだん体調が悪くなって、ついに熱がでた。
日中、佐十郎は遊びにも行かなかった。むずかった末にようやく寝付いた妹の脇に座って、目を覚ますまで団扇(うちわ)でゆるやかに微風を送り続けた。心の中で何ごとかを念じているように、眼つきは真剣でひたむきだった。
次の日になっても、たけの病状は芳しくなかった。佐十郎は、妹の顔に一つ発疹がでたのを見逃さなかった。為八郎が頼んだかかりつけの医師がたけの寝間着をはだけると、腹部にも一つ、ぽつんと発疹がでていた。
「少し様子を見なければいけん。ようなるとは思うばってん、万一、容態が悪うなるごたあと、水疱かもしれん。まあ、痘瘡ではなかと思うばってん、一応は、疑うとかんばならん……」
医師が帰り際、為八郎に話すのを佐十郎は襖の陰から聞いた。翌日からたけの発疹は増え続け、不安に駆られた為八郎は、同僚の吉雄献作に紹介を頼み、痘瘡にくわしい西原道寧に往診に来てもらった。
この頃になると、たけの発疹は数を増しただけでなく皮膚表面から盛り上がり始めた。西原は為八郎夫婦を前に、静かな口調で診立てを伝えた。
「おそらく、痘瘡やと思う」
これを聞いた佐十郎は、思わず、体がびくっと震わせた。かつて、痘瘡に罹った苦しい経験が頭によみがえったように見えた。西原は、両親にたけの病状を説明し始めた。
「疱瘡は、火点(ほとぼ)り三日、出斉(でそろ)い三日、水膿(みずうみ)三日、山揚(やまあ)げ三日、収靨(かせ)三日と言うて、順症なら、およそ十五日で治(おさ)まるばい。この子は出斉いに入ったところや。ばってん、熱が高く続くのが心配や」
火点(ほとぼ)りとは序熱期、出斉(でそろ)いとは発疹期、水膿(みずうみ)とは水疱期、山揚(やまあ)げとは膿疱期、収靨(かせ)とは結痂期をいう。火点(ほとぼ)りの二、三日で熱が引いて出斉(でそろ)いに移行するなら順症と言えるが、たけはまだ熱が引かない。重いかもしれないと西原は暗に両親に告げたようだった。
さらに数日後、佐十郎は、熱が引かないうちに、妹の水泡が膿に変わったことに気付き母に伝えた。母がたけの寝間着を換えるたび、心配そうにのぞき込んで妹の手を握った。たけはぐったりしきっていた。膿疱は触ると固く、深く妹の皮膚に根を下ろしていた。
佐十郎は妹が哀れでならないらしく、家中をぶつぶつ言って歩き回り、時々、仏壇に向かって親も驚くほど長い間、手をあわせていた。病間には疱瘡棚を作って、御幣を立てた桟俵(さんだわら)の飾り物を祀ってあった。その脇に、供物の餅、ミミズク人形を飾り、痘瘡神へ、たけが軽くすむよう皆の祈りを込めた。
数日がたって、たけの病状はいよいよ重くなった。顔は黒ばんだ膿疱でびっしりと覆われ、瞼(まぶた)の縁(ふち)まで膿疱が群生して目を閉じることさえできなくなった。掌(てのひら)から甲まで膿疱に覆われ、時折、小さな手指がわずかに動いた。佐十郎に苦しさを訴えているようだった。
両親が見守る中、布団にぐったり横たわったたけの体から、医師が寝間着をめくり、あらわになった胸と腹を見ると、佐十郎は、思わず目をつむった。いたいけな妹の皮膚は膿疱に覆(おお)われ全身が青黒く見えた。佐十郎は、妹の肌の異様な色合いに怯(おび)えた。
西原は、疱の疎は良く密は悪く、疱の桃色は良く青黒きは悪いと説明した。佐十郎は、何かを覚悟するように思いつめた顔つきで西原の顔を凝視した。その内、悲しみに満ちた目が潤み始め、西原は凝視に耐えられない様子で目をそむけた。
「たけっ」
佐十郎は、ひとこと妹の名を呼ぶと、もうたまらなくなって、走って病間を抜け出した。
「なしてなんや。なして、たけがこがん酷(むご)か病(やまい)にかからんばならんのや」
佐十郎は裸足のまま庭に下りると、百日紅(さるすべり)の根本で泣き臥(ふ)せった。満開の紅紫の下で、少年は絶望と怒りをこめて地面を叩き続けた。
近所の人は、佐十郎の啼き声が洩れ聞こえるにつけ、あれほど仲の良かった兄妹を想い、たけを哀(かな)しんだ。また一つ、幼い生命(いのち)が喪(うしな)われてしまう。どうにもならない諦めだった。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」二節「長崎西坂町本蓮寺」(無料公開版)