序章 牛 痘 目次に戻る
一七九六年、英国グロスターシャー地方が五月を迎えるころ、バークレイ村の周りには、乳牛がのどかに若草を食(は)む姿があちこちに見られた。この国で、夏とは五月、六月、七月のことで、 一年の中で最も素晴らしい季節とされていた。
牧草地には、斑ひな菊(パイドデイジー)や菫(すみれ)が咲き乱れ、銀のように葉裏の白い種付け花(クックーフラワー)が生命(いのち)を謳歌していた。金鳳花(きんぽうげ)は牧草のなかで鮮やかな黄金色の点を綴(つづ)って、林藪(りんそう)の中からそこかしこに啼きわたる郭公(クックー)の声に照応するのを忘れなかった。金鳳花は別名、郭公の蕾(クックーバッズ)と呼ばれ、陽の光をきらめかせて郭公(かっこう)の鳴き声に欠かせない彩(いろど)りを添えていた。
さわやかな風が林から草原(くさはら)へと吹きぬけ、牧草を穏やかに揺るがせながら、若々しい青い香りを運んできた。村の傍らを流れるセベルン河の畔(ほとり)まで、放牧地を区切るように小さな樹林があちこちに点在していた。木々は若芽に彩(いろど)られて優しくたたずみ、これから始まる季節に期待の心を震わせているようだった。
初夏の息吹は新緑の萌黄となって木々にまとわりついた。所在を明らかにしない郭公の鳴き声が、遠く、また近くから、いずこからともなく同時に聞こえた。丘から丘へ、ここかあそこかと、多重に響きわたり、奏(かな)でと彩(いろど)りが混沌となって、初夏の祝祭がゆるやかに進行していた。
郭公は、湖畔詩人と仰がれたロマン派自然詩人から「さ迷える声(ワンダリングヴォイス)」 と詠(よ)まれ、牧草地でも林でも、それこそ「見えざる(インビジブル)」実在だった。声はすれども姿の見えざる鳥は、詩人が郭公に寄せた詩情において一つの神秘(ミステリー)と観照され、この国に豊かな詞藻と霊感を与えた。グロスターシャー地方は、郭公が夏告鳥(なつつげどり)として北アフリカから飛来する季節を迎え、いよいよ鮮やかに生の営みを装いつつあった。
エドワード・ジェンナーにとって、今年も、バークレイ村の暮らしが周りの田園によって穏やかに包み込まれ、豊かな実りを約束されるように思えた。毎年巡る美しい初夏の風景は、見飽きることがなかった。ジェンナーはこの地で、二十年以上にわたって村医を開業し、のどかな自然に常に温かい好奇心をそそいでいた。
一七四九年、ジェンナーはこの村の牧師の末子に生まれ、若くして医学を志した。十三歳の年、バークレイ南二十キロのソドバリーで、村医者に徒弟として住み込み、修学を始めた。日々、師から厳格な指導を受けながら、ある日、ジェンナーは患者を診察し、やさしく声をかけた。思いも寄らない診察の始まりだった。
「顔に発疹ができましたね。今日は、この件でお見えですか」
若々しい笑顔で、農婦と思(おぼ)しい逞(たくま)しい女に声をかけた。
「顔に発疹ができて、気になったもんだで」
ジェンナーは、師の指導を受けながら、しばらく診察を行い、ある疑いを覚えて患者に聞いた。
「あの、な、なんと言うか、これまで天然痘に罹ったことはありませんよね」
ジェンナーは、おずおずと自信なげに、その可能性を口にした。
「天然痘なんかに罹った覚えはないわさ」
「それなら、もしかして……」
「あたしが天然痘かもしれない、とでも言うんですかい」
「………」
「若いということは仕方のねえこったさ」
ジェンナーは女に一笑に付され、肩を思いきりどやされて一層うろたえた。
「あたしゃねえ、子供の頃に牛痘に罹ったんですよ」
農婦は、昔、牛痘に罹ったことがあるから、天然痘に罹るはずがないとひとしきりまくしたてた。
「ただの発疹だから、軟膏でも貰(もら)おうと思ってきたのに、天然痘と一緒にされたんじゃあ、とんだお笑い草というもんさね」
この若造が何を血迷って、天然痘などと縁起でもないことを口走るのかと言わんばかりに、経験の浅いことをさんざんに嗤(わら)われた。まだ子供の域をいくらも出ていない頃の出来事で、ジェンナーは大いに狼狽し、この大誤診は苦笑の伴う忘れられない記憶となった。
当時、英国ではトルコから伝わった人痘種痘がすでに行われていた。軽くすんだ天然痘患者の痘疱膿漿を健康人の腕の小切開創に植え、軽く発痘させて、重い天然痘を防ぐ方法だった。実際、人痘種痘は効果があったが、本当に重い天然痘に罹ってしまうことがあって中には死亡する人もいた。危険と隣り合わせの療法だった。
ジェンナーは漠然と、牛痘と天然痘の関わりについて考え、もやもやした思いが念頭を離れなかった。農婦の言ったことは本当なのか、本当ならば素晴らしいことではないかと思う気持ちが胚胎した。
長じて、ジェンナーはロンドンに出て、ロンドン大学セントジョージ医学校 に入学した。本格的に医学を学び始め、ジョン・ハンターに師事した。ハンターは解剖学、外科学の著名な権威で、博物学にも精通していた。ジェンナーが医学だけでなく博物学にも感化を受けるのは自然の流れだった。
ハンターは船長(キャプテン)クックと同い年で、 博物学の同志だった。キャプテンが太平洋を経巡(へめぐ)って蒐集した厖大な博物標本を前に、手をつかねて困っていると聞き、同学の誼(よしみ)から標本整理の大仕事に協力を申し出た。若いジェンナーにとって、師とともにキャプテンの仕事を手伝った経験が博物学に目を開くきっかけとなった。
ジェンナーがハンターから教えられたのは、解剖と個々の病歴を比較することによって、病気の根本原因を追求する学問的視座だった。動物でも人間でも同じ生物と見て、区別せず考えるのがハンター流だった。それをこつこつ実践するジェンナーは、ハンターから篤い信頼をえた。
ある晩、ジェンナーは、長いこと心に引っかかった疑問について、思い切って師に質問した。師と二人きりになった機会が、またとない好機に思え、ジェンナーは何かに背中を押されるのを感じた。
「先生、お尋ねしたいことがあるのですが……」
「なにかね」
ジェンナーは、ソドバリーで農婦の発疹を診た経験を説明した。
「発疹を作ったあの農婦が、牛痘に罹ったことがあるから天然痘には決して罹らないと言ったことは本当だと思われますか」
遠慮がちな質問にハンターは少しの間考えた。そして微笑(ほほえ)みながら答えた一言が、ジェンナーの長年のわだかまりを一変させた。ハンターの言ったのは、こんな言葉だった。
Don't think, but try; be patient, be accurate.
あれこれ考えずに、やってみたまえ。忍耐強く、正確に
驚いたように立ちすくんだジェンナーは、師からやさしく肩をたたかれた。「お休み」と言う言葉を残して部屋を出る師の背中に、ジェンナーは深々と黙礼し、思い詰めた顔を引き締めた。その表情には逡巡が志と確信に変わり、心窃(ひそ)かに何事かを誓う緊張感が浮んでいた。ジェンナーは、師の出ていった扉を凝視し、まっすぐその先を見据え続けた。師の言葉に脳天を突かれるような衝撃が走ったことを生涯、忘れまいとするかのように、固く拳を握りしめた。
ジェンナーは二十四歳にして医学を修め、 ロンドンからバークレイに戻って開業した。若く親切な医師はバークレイの人々に温かく迎えいれられた。ジェンナー牧師の末っ子は、なかなかいい医者になって戻ってきたと、随分昔に死んだ父親を思い出す古老もいた。
それからというもの、ジェンナーは村医者として誠実に村人の健康を守り続け、かたわら博物学研究を怠らなかった。博物学のテーマとしたのは、バークレイで多くみられる郭公(かっこう)だった。本業の合間を見つけて観察と考察を重ね、托卵という風変わりな習性を見出した。
郭公は己の巣を作らず、他種の鳥に狙いをつける。よく狙われるのは大葦雀(おおよしきり)や牧場田雲雀(まきばたひばり) だった。親鳥が餌を探しに巣を飛び立ったのを見計らって、郭公はその巣に卵を一つ産みつける。そして元々、生んであった卵のうちから一つを喰って数が合うようにして、もう二度とこの巣に戻らない。
巣に戻った本来の親鳥は郭公の卵とも知らず、己の生んだ卵と一緒に大切に暖め、ヒナが孵(かえ)った後は餌を与えて大切に育てる。そして、驚くべきことに、郭公のヒナは成長するにつれ、元々この巣の主人であるはずの大葦雀(おおよしきり)や牧場田雲雀(まきばたひばり)のヒナを巣から押し落とし、巣と親鳥を独占してしまう。巣から落ちたヒナは死ぬしかない。
親鳥は己のヒナと思いこんで郭公のヒナに餌をやり、巣に一羽、親鳥より大きく育ったあとまで、せっせと餌を運び続ける。ある日、大きく成長した郭公のヒナは何の挨拶もなく、後ろ足で砂をかけるように平然と巣立っていくというのである。
博物学の面白さがここに極まるような論文を書いて科学界を驚かせ、秀逸な観察眼と洞察力が認められてジェンナーは王立協会会員に選ばれた。 ジェンナーが四十歳のことだった。
ジェンナーは実験と観察を重視する実証精神に富んだ村医者だった。酪農を生業(なりわい)とするバークレイで、二十年来取組んできたのは博物学だけではなかった。天然痘の予防という大きなテーマこそがジェンナー本来の志だった。
ジェンナーは小さな村で、ハンターの一言を大切に胸にしまって、忍耐強く、注意深く、症例を集めていた。そして、天然痘と牛痘には奇妙な関わりがありそうだと仮説を立てて、牛痘の人への感染という概念を着実にまとめあげていった。
馬には踵炎(グリース)と呼ばれる蹄(ひづめ)の感染症が知られ、水疱を発するところが天然痘によく似ている。この地方では、近年になって男も普通に搾乳するようになったから、馬の蹄の手当てを終えた男が手を十分に洗わず、感染性物質の粒を手につけたまま牝牛の乳を搾ると、馬のグリースが雌牛の乳房に感染し水疱を発するのだろうとジェンナーは考えた。
雌牛の乳房にできた水疱は、初め、うす青く、時に暗青色で、丹毒にも似て発赤した炎症の輪で囲まれている。治療せずに放置すると侵食性潰瘍に移行し面倒なことになるから、治療は大切だった。
牛痘は牛の体調を損ない、乳量を減らすものの、適切な処置で元通り回復する病だった。人が天然痘に罹(かか)り全身に膿疱が生じて、時に失明し死に至るほど深刻な病ではなかった。
乳搾りは、時に、手や腕に牛痘と似た水疱を発することがあった。牛痘に罹った牛から感染(うつ)ったものらしかった。特に手に傷があると、きっと感染った。感染初期、手に点々と炎症が現われ、火傷(やけど)による発疱に似た水疱は指の関節や先端にできることが多く、急速に化膿した。
膿疱になると表面は丸く、縁(へり)は中心部より高くなって、かすかに青みを帯び、隣の膿疱と融合しながら次第に大きくなっていく。腋(わき)の下に腫脹を触れ、ひどい時は全身状態が悪化して脈拍が上がる。悪寒発熱についで倦怠感と腰、四肢の痛みが起こって、嘔吐、頭痛が続き、時に意識混濁を起こした。
牛痘は三日から四日の経過をたどって回復し、手に潰瘍の瘢痕の残ることがあった。唇、鼻の穴、瞼(まぶた)をはじめとする他の部位に糜爛(びらん)が生ずるのは、感染した指で擦(こす)り、掻(か)いたためだった。ひどい場合を除いてこんな症状はめったになく、重い病態に至ったとしても天然痘よりはるかにましだった。
こうしてジェンナーは、馬の蹄から雌牛の乳房に、さらに人間の手へ伝染するという牛痘の感染経路に関する仮説を立てて研究を進めた。そして人が牛痘に罹れば、天然痘に似て水疱から膿疱に悪化するが、天然痘ほど重篤化しないことをはっきり知った。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』の序章「牛痘」(無料公開版)